仕事の関係で「父」について考えようと思い再読。

 10年前に1回読んだだけなのだけど、すごく面白かった。

 当時は、子供もまだ小さく、この本は私の「理想の父親像」を与えてくれた。

 ところが大方の内容を忘れてしまい、手に取った次第。

 竹下さんの本はとにかくテーマ選びが秀逸で、私の本棚に結構あったりする。

 さて、今の私は「理想の父」になっているでしょうか・・・・

 

 

 で、本書。

 まず、キリストの母は?

 そう、聖母マリア。

 ではお父さんは?

 

 意外にぱっと出てこないのではないか。

 ヨセフですね。

 大工ということになっているが、実際はよくわからないという(p24-46)。

 唯一の証拠がマタイ伝のある一節だけ!(p26)

 

 知らなかったのが、ヨセフ、聖人になったのが1870年(p12)。キリスト教の長い歴史からすると、本当につい最近ですね。

 いかにヨセフが冷遇されてきたかわかるというものです。

 たとえばヨセフが生きていた時代から1400年後に活躍したジャンヌ・ダルクが聖人になったのは1920年。

 年齢的に1400年差が、列聖の差は50年。

 「聖テレジアの法悦」で有名なスペインのイエズスの聖テレジアは1582年に亡くなって、列聖は1622年です。

 ジャンヌ・ダルクは一度異端から復権しなければならなかったので時間がかかったのでしょうが、16世紀の修道女は死後わずか40年で聖女です。

 どんなだけ軽視されていたのでしょうか、ヨセフ。

 

 さて、ヨセフは何をやって、どんな男だったのか。

 あまり知られていない・・・というか、私はキリスト教信者ではないから知らないです。

 

 無学で武骨。

 しかし正直で謙虚。

 従順で、仕事を黙々とこなし、突然、神のおつげで若い女性をめとり、その女性が彼と交わりのないままに子をなすことを受け入る(当時なら、離別してもよかった)。

 そして、自分と血のつながりのない子を養うために、働き、おしめを洗い、床に這いつくばって母子の食事を作る。

 その子が突然王に殺されるかもしれないと聞けば、何もかも捨てて、とにかく母子をロバに乗せ自分は歩いて逃げる(p107-108)。

 まさに、「貞節と義」(p54)の人。しかし、「聖性の見本ではない」(p54)ともされた人。

 

 精神分析的に父は、言語的交流以前の愛情で密着した母子関係に押し入るように、言語、論理、法、社会、歴史といった「外部」を挿入してくるものとして論じらることが多い。

 例のエディプスの話に落とし込むと、母のことを愛している男の子に対して「俺の女だ」と母子間に割って入り、その結果、子は父と競争しようとする。しかし、その圧倒的力の差で男の子は母を諦め、「パパのようになりたい」と自分の男性性を受け入れることになる。

 それが「父」ということになっています。

 

 本書でも、「父系は名や財産など、母子関係に歴史、社会という外部を入れる」という記載があります(p105、161)。

 この考え方、メタルヘルス業界的には、もはやクリシェです。

 と同時に、私、この仮説、「本当かいな」と常々思ってました。

 そんなに「父」って「すごい」もんですかねえと。

 

 だって、お父さんが本当に私のお父さんかは誰にも証明できない。社会的どころか、生物学的にも。

 そんな「ヨワヨワ」な存在が、それほどの力を持っているのだろうか・・・・と。

 

 その私の疑問に答えてくれたのが、本書の次の一節。

 父とは「母からの呼びかけ」で「成り立つ存在」である(p125)。

 

 父は自分が本当にその子の父なのか、自分では分からない。

 母は確かにその子を「産んだ」という厳然たる事実がある。

 その生物学的に明確な「母」が、「あなたはこの子の父親よ」という呼びかけに呼応するとき、その男は「父」になる。 

 父というのは、まずそれくらい不確かな、砂上の楼閣のような役割なのではないでしょうか。

 そのような父に求められるのは、「母と子に対して父としてふるまい『父の役』をする」こと(p117)。

 この「父の役」をすること、という表現。

 さらっと書かれているけど、私は大変に意味深いと思います。

 

 つまり、父というのはフィクション性を帯びているということ。

 一言でいえば、「胡散臭い」存在でもある。

 母の呼びかけに「はい」と返事をしたことで生じる責任と義務を負うことを約束する存在ともいえる。

 だから、母子に対して「割って入る」とか、外部から「何を押し付ける」とか、そんなことができるほど父性が「強い役割」だと、私的にはどうしても思えないのです。

 

 それぞれの男が、自身の責任と義務、価値観の中で、「父の役」をこなすしかないのではないでしょうかね。

 

 

 では、ヨセフはどうだったか。

 竹下さんは多くの資料や興味深い歴史的経緯(たとえば百年戦争の際のヨセフの扱いとか)を踏まえて、さまざまな角度から論じていらっしゃるが、私なりには以下のようにまとめられるかと。

 

 自己実現だとか、自分の人生を豊かにするなどといった自己中心性をすてさり、家族に対して、あるいは自分の人生に対して、より俯瞰的な視野をもつ。

 しかし、家族内の出来事に対する傍観者ではない。家族に危機的な局面が訪れれば、なすべきことをなす。それがいかに面倒であろうとも、それを避けない。逃げない。

 また、ある事柄に意味があるのか分からないことであっても、たとえ結果がでなくても、そうすることで母子のためになると「信じられる」のであれば、それを無駄だ、結果が全てだから、合理的でないからなどと言い訳せずに黙って動く者・・・・(p177)。

 

 なんだか「自己犠牲」の人のようですが、そんなに単純なことではないと思います。

 要は視野の広さ。それも小賢しい計算に基づかない。

 

 視野を時間的にも空間的にもひろくとる。

 それは自然と母子に対して距離をとることに。

 しかし、母子全体を自分も含めて眺めつつ、危機的局面には積極的に介入するが、それが終わればまたもとの位置に戻る。

 そして、短期的な成果、計算可能な結果といったものではない、もっと違うものを求めて日々の生活を過ごす。

 そうやって直接的には「自分のために」生きていないけれども、実はやがてどこかで、本人の求めていた生き方と接点を持ち始める・・・・。

 

 そのようなものではないでしょうか。

 

 私が聖書に出てくる父たちに感動するのが、結果や成果を「計算しない」ことです。

 たとえば、ヨセフは「ある日、司祭に呼ばれて嫁をあてがわれ」「その嫁と交わるなと言われ」「交わらないままに宿った子が、神の子であるといわれる」というまったくもって不条理としかいいようのない状況に突然、放り込まれる。

 しかし、彼はそのような自分の理解を超えた事実になんら「おかしい」とか「騙されているのではないか」といった小賢しい判断を下さなかった(p69)。

 これは息子のイサクを屠るように、突然神から命じられるアブラハムについてもいえる(p158-159)。

 私は、この逸話を「父が子の生殺与奪する権利をもっていて、その強権的父が神のために子を殺そうとする」話のように考えていました。

 しかし、本書を読んで認識を改めました。

 当然、アブラハムは「そのことに何の意味があるのか」「そうすることで何か得なことがあるのか」「神といえどもそれは無体だ」と考えてもよかった。

 ところが、彼は意味とか損得とか、そのような人間の世界でしか通用しないことを言わない。

 不条理をそのまま「受け入れる」のです。

 

 父という役割は前景にはでないけれどもヨブの逸話もそうかもしれないですね。そういえば彼も子供をもつ「父」です。

 

 

 私は、父の「強さ」とは、こういうことではないかと愚考いたします。

 

 

 さらに、このような立場ならば、当然、父は常にメランコリックになる(p55)。

 一般にギリシャ時代から中世にかけて、メランコリーは「賢明さ」から生じる病とされています。

 無学で無教養な父は確かに「知識はない」かもしれないけれど、常に全体を俯瞰して「考えている」以上、やはりある種の「賢明さ」を持っているに違いないからです。

 

 

 さて、ほかに父の機能を考える上でのヒントが。

 キリスト教では「父性はネットワーク」であるという竹下さんの指摘。

 たとえば、教父、神父、洗礼父など、多くの「父」がいるのがキリスト教(p156)。

 父が単体の「誰か」ではなく、ある種のシステムと考えるのは面白いかも。

 

 

 さらにヨセフが養父であることも重要だと思います。

 聖母マリア信仰が「血のつながり」から、しばしば愛国主義に利用されてきたそうです。

 ところが、ヨセフは母子と血のつながりはない(p157)。

 彼には「信に基づく絆」しかない。しかも、神に対する信は服従の側面があるけど(スピノザ「神学・政治論」)、ヨセフ的な父には服従の要素はない。

 ここにこそ、共同体形成におけるヒントがあるのではないかとも思います。

 

 

 また、「母子間から一歩ひいているので緊張を緩和する」と竹下さんは述べています(p157)。

 これは、精神分析と同じ<父が母子の「外」にいる>という指摘ですが、分析と違って母子間を分断するのでなく、むしろ関係を良好にする方向に働くとおっしゃっている。

 これも慧眼。

 母と子が「煮詰った関係」になり「にっちもさっちもいかなくなった」時の、大事な父の役割の一つではないか。

 子供が乳児の時。あるいは、思春期に入った時などに。

 

 

 ほかにもフランス・フェミニズム(=カソリック・フェミニズム?)とアメリカ・フェミニズム(=ピューリタン・フェミニズム?)の違いだとか(p166-168)、キリスト教が入る前のギリシア・ローマ時代の子供の扱いのひどさ(p162-164)など、いろんな知識も楽しめる一冊。

 

 父は弱く、そして時に強く。

 とりわけ目立たない形で強くありたいものです。

 

 ・・・で、冒頭に戻って・・・そうですね、お察しの通り、私は「理想の父」になってないですねえ・・・・。

 てか、内容忘れている時点でアウトですが。 

 

 

 

 

 

 

竹下節子「「弱い父」ヨセフ キリスト教における父権と父性」

1500円+税

講談社選書メチエ   228ページ 

ISBN 978-4-06-258395-4