古い本で長らく積読にしていたが、最近、私がぼうと考えている内容に沿っていたので読了。
備忘録。
本書は、いわゆる「フェミニズム本」に分類されると思うが、大陸系フェミニズムは「性的差異」を否定しない傾向があるらしいのと、著者が精神分析家なので、あまり社会制度や権力構造云々にまで議論が広がらないだろうと読み始めた。
実際、本書に「社会的地位と性的地位が混同されている」(p16)、「男性と女性は性の差異を保ちつつ、もろもろの役割の平等を引き受けなければならない」(p271)と明記され、上記のような問題系は触れられていなかった。
私が興味を惹かれたのは2点。
性的差異の精神分析的理論の更新、さらにそれが臨床現象としてどう表れるかが論じられていた点。
性的差異について:
フロイト理論の「ペニス羨望」批判はよくあり、否定されることが多いが、本書は否定だけでなく「乳房羨望」を代わりに提唱する(p36)。
この概念は使い勝手がよさそうだ。
というのも、男女差なく赤ちゃんにとって大事なのは乳房(=母乳、ミルク、抽象化すればケアしてくれるもの)だからだ。
もう一つ、フロイトの概念への批判があるが(p39-46)、本書で重要なのは、フロイトがうまく説明できなかった女性のオイディプス複合を(p69-70)「乳房羨望」でどう説明するかである。
ところで羨望は普通「うらやましい」というニュアンスだが、精神分析では「欲しているが、自分が持っていないものへの感情」で、「取り上げられてしまった恨み、怒り」「もう一度、欲しいという渇望」といった感情である。
単なる「うらやましくて持ちたい」ではない。
男の子の場合:
オリヴィエはトイレ訓練の時期を重視する。
異性である母から十全に愛されていた男の子は、この時、初めて母と対立し、葛藤するからだという(p82)。
トイレ訓練により、無条件に自分を受け入れると思っていた母に、男の子は騙されたと感じる。
そして、愛情を拘束と感じるようになり、母に対して距離を取り始める。つまり黙るようになる。
徐々に言語表現、特に情動表現を極力切り詰め、論理や行動に向かう(p180)。
だから、男は「自分のことを決して語らない」「彼が語るのはつねに(略)外的な事柄」で「論理的」なことを語りたがる(p222)。
また、この母親との格闘の痕跡は、自分を縛ろうとした女性(=母)への不信、言語的交流の拒否、つまり沈黙、そして女性蔑視へとつながるという(p85)。
私は「女性蔑視」より「女性恐怖」とした方が適切ではないかと考える。「恐怖」が反転して「蔑視」となるのではと思う。
また、男の子は母の体を見て「欠損している存在がいる」ことを知り、そこから「自分も失うかもしれない」恐怖を味わうという(p160)。
フロイトは何かを失うという男の子の不安を父親由来としたが、オリヴィエの考えの方が妥当ではないか。
また女の子は男性器の欠損に劣等感を抱えるとフロイトは考えたが、オリヴィエはこれも違うという。 。
女の子の場合:
母親が同性だったことで、女の子は「子どもとして愛される」ことと「身体として欲望される」ことの分裂が生じてしまうという(p87)。
男の子は異性である母からありのままで受け入れられるが、女の子は同性の母から「ある価値の尺度」を追加して受け入れられる。たとえば「思いやりがある」「おしゃれ」「家事を手伝う」・・・・・(p90)。
さらに女の子は、私の大好きな母は父にとても愛されている、それは母が<私が持っていないもの>を持っているからだということに気付く。
フロイトはそれをペニスとして迷路にはまり込んだが、オリヴィエは臨床経験や自身の経験から、乳房やくびれたウェスト、ヒップなど、要は成人女性の身体が<私の持っていないもの>で、女の子はそれに羨望するという(p91-92)。
女の子も、男の子と質的に異なる「乳房羨望」をもつ。
そして、その結果、彼女の関心は外部(p94)へ、身体へ向かい、それゆえに他者からの承認が視線に依存し(p94)、つねにそれを誇張することになる(p89)。
「誇張」。つまり化粧や美容である。
このような発達過程の女性にとって母との格闘の痕跡は、心身ともにありのままの自分を認めてもらうことを強く望み(p183)、母のようになるため「女性を模倣する」ようになる(p142、152 女の子が必ずするママのお化粧品いじり!)、そのために身体の「過少」と「過多」の不安定さの中で生きるよう定められてしまう(p145-146、153)。
女性であるということは「身体だけになること」(!p144)であり「自分自身から常にずれている」(p228)ことになる。
ところで明記されていないが、オリヴィエの考えでは、ありのままの彼女を受け入れる役割は異性である父親に割り振られているらしい。
身体的繫がりが強く主なcare giverである母と、無条件に受け入れるがcare giverとしては副次的な存在の父と、二つの存在があって初めて十全に承認されたと感じられる点が、女性の生きづらさの問題の根底にあるという理路になる。
ほかに、女の子がなぜ自然と人形遊びをするのか(p140-141)、なぜ女の子の言葉の発達は男の子より早いか、女性の話好き、摂食障害が女性に多いこと(p103-116)、女性が美容院に行く意味(p239)、どうして女性は甘いもの好きか、あまり男性がしない自分へのご褒美として購買行為をする理由(p238)、いわゆる「女性の敵は女性」となりやすいのはなぜかなど(p97)の説明がなされる。
以上を雑駁にまとめると「男の子は閉鎖、女の子は女性化」(p163)。
女性化はもちろん過剰さ、いわば<女性が女装している>ことだ。
男女の発達過程とその結果の違いは、結婚において問題として顕在化する。
女性は夫に「よい母」を求める(p190)。
つまり、夫を、ありのままを受け入れてくれると存在と確信し、彼となら心的安定を見出せると考える(p174)。
しかし、男は「母親から拘束された」ことを繰り返したくない。
だから、自分の都合を優先し、情緒的言語化をしなくなり、「愛している」は沈黙へと替わっていく(p179-183)。
ところが女性は母との関係の影響で、自分が愛されているとどうしても信じられない。
このために執拗に承認の証しの言語化を要求する(「私を愛していると言って」!!)。
さらに共生を望んでいたので、同じ空間の共有を要求する。
しかし、男には距離が必要なので、女性が空間の共有を望めば望むほど、黙り、離れようとする(p183-186)。
結果、彼は言う。「うんざりする女だ」。
それはかつて彼を拘束した母のことだ。
彼女は言う。「彼は、私のことを、少しも分かってくれなかった」。
これも彼女の一部(だけ)を愛した母のことだ(p196)。
さらに次の問題がある。
「一人になった」と思い込んだ彼女が、自分の子供達で孤独をいやすことである(p186)。
こうやって、悲劇は永遠に循環することになる。
臨床的な問題について:
どの疾患かに関わらず、治療によって男性は「かつて放棄した情動的な部分を取り戻していく」一方、女性は「自分自身で、何かに依存することなく存在し始める」(p224)
メモ:
女性は「恒常的に嘘つき」(p239)
子ども手当のようなものが当時フランスで議論されていたらしい。
オリヴィエの回答:「子どもは贈り物で、値段が付かない」(p265-266)
心底、その通りだと思う。
クリスティアーヌ・オリヴィエ著、大谷尚文翻訳「母の刻印 イオカステーの子供たち」
2700円+税
法政大学出版局 290ページ
ISBN 4-588-02174-5
Christiane Olivier
Les enfants de Jocaste L'empreinte de la mere
Denoel, Paris, 1980