GWですが仕事がちょこちょこ入り、積読本が一向に減りません・・・

 

 本書。

 クリスチャン系高校(?)出身の中村さんと、同志社大神学部卒の佐藤さんの聖書談義。

 佐藤さんが神学的説明、そこに中村さんが鋭く突っ込むという構成で、旧約(創世記)、使徒言行録、最後にヨハネの黙示録を読み説きます。

 

 ちょこちょこ入る、「佐藤さんのカルヴァン派、出た!」とか「中村さんは、いかにもプロテスタント的ですね」などの、信者でない私にはさっぱり分からない内輪の突っ込みも楽しい。

 

 

 

 旧約。

 「へー」と思ったのが、ヘブライ語版は律法を強調していたが、ギリシャ語訳版は終末やメシア到来を強調していた(p15)

 ユダヤ教とキリスト教の違いを考えると納得です。

 

 

 信仰と、合理主義あるいは悟性との関係についての議論が興味深い。

 記述が矛盾だらけの聖書に対し「不合理ゆえに我信ず」(p27、77)と構えるのが、中世から主流なのだそうです。

 合理的で説明可能なら「信じる」までもない。

 なるほど。

 

 「理解」と「信仰」は違うということです。なんか詭弁ぽいけど。

 なので、佐藤さんによれば、キリスト教はおおむね反知性主義(p28、72)で、日本ではその点が誤解されていると。

 

 さらにこの構えが、行動主義、現場主義に通じる(p208)

 メンタルヘルス界隈でも聞く、「まずは現場だ!(臨床だ!)」「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」(もはや古い)も、ある意味、反知性主義なわけです。

 事件(事例)は会議室(机の上?)で起きてないけど、じっくり考えないといけない。

 

 一方、理詰めで考えるのは、ネオ・プラトニズムやグノーシス主義(p94)で、却って”異端”になる。

 

 以前、読んだ「カタリ派」(創元社)で、カタリ派がカソリックの教義や典礼を迷信と退けていたとか、修道院が町中にあって俗世と交流があったとか、ホントに12~13世紀の話かと驚いた記憶がありますが、そういうことなんですね。

 ところで、カソリックの修道院が山奥にある理由の一つは「女性を退ける」ですが、アウグスティヌスの思想が元だったそうです。知らなかった(p56-57、p69)。 

 

 

 聖書では、悟性、知性は、エデンの園の蛇として象徴されている。

 聡明さは、己の賢さを隠し、時には狡猾さにもつながる(p44)

 となると、知と悪の関係なども問題になりますかね。

 宿題です。 

 

 

 哲学思想の勉強で参考になるのが、「時間概念」や「永遠」という発想はギリシャ的という指摘(p35)

 ナンシー先生のお話しともつながりそうhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12592103745.html

 

 「天使」は叡智のことで、「ひらめき」「おもいつくこと」(p103、287)

 

 神の収縮説(p23-24、p52)

 これはレヴィナス読解で参考に。

 

 

 

 面白かったのが、「資格をもった」ものが「同じ方法」で「必ず同じ結果」になるのは「魔術である」(p28-29)という指摘。

 例えば、”妖術師”という”ライセンス(?)”を持った人が、”ある手順で藁人形を五寸釘で打てば”、”必ず相手に呪いがかかる”と主張する。

 

 底意地の悪いパラフレーズをすると、”カウンセラー”の資格をもった人が、マニュアルにそった”ある方法を使えば”、”同じ結果になる”と公言していると、それは<魔術師>と言ってよいことに。

 

 実際には、ある方法がうまくいくかどうか分からないし、よしんばうまくいったとして、その理由が全く分からないことだってある。

 

 中村さんの旧約の感想(p126)

 ニーチェと同じ表現。

 

 

 

 「使徒言行録」(p247-328)

 お二人で、えんえんとパウロの悪口。

 ヤスパースやニーチェも同じ意見でした。

 

 あっと思ったこと。

 プネウマとプシケーは別と(p248)

 *プネウマ=霊=(個別的ではない)生きる原理=Geist

 *プシケー=魂=個性=Seele

  

 

 

 最後の黙示録。

 これも面白かった。

 黙示と啓示は同じ意味だそうで(p334)、「隠されていたものが露わになる」。

 コンラートのアポカリプティークを、私は黙示録の語感に引きずられて「世も末な大混乱」のような意味と思い込んでいました。

 

 あと、私世代だと知っている「666」の意味も初めて知りました。

 もちろん仮説ですけど(p345)

 

 

 

 佐藤さんの広い学識で、参考になったこと。

 

 廣松渉先生の時間論:「農耕の時間(循環的、過去→未来)」「狩猟の時間(今だけ)」「旅人の時間(目的、終着がある)」(p161-162)

 

 カール・ポパーは「体系的思想の暴力性」を主張した(p96-97 ヤスパースと同じ!)

 

 決断主義に対してカール・バルトは批判した(p319-321)。

 決断は時として思考の放棄になりかねない(p322)

 この議論はヤスパースやキルケゴール批判として有効です。

 

 ただも佐藤さんはラカンの引用で間違っているので(p238 内容と無関係なので、どうでもいいですが)、他の引用も間違いがないか、少し不安です。

 原典にあたらないといけませんね。

 

 


 メンタルヘルスの分類を考える上で興味深いのが、「マタイによる福音書」の「悪い麦」。

 芽生える前から悪は悪である(p114)

 悪は成長段階で善へ変化する可能性を考えない発想が、ヨーロッパには根強くあるかもしれない。

 

 

 

 落ち葉ひろい。

 佐藤さんの指摘。

 男女の違いは「筋力だけ」(p31)

 私もそう思います。


 中村さんのご意見。

 「女性は愛を美醜にすりかえてしまう」。

 そして、女性にとって愛は「個人としての承認」で「社会からの承認はどうでもいい」(p235)

 私なりに言い換えれば、美=「見られること」と、愛=「承認される」が二大テーマなんだけど混同されていると。

 

 もう一つ、佐藤さんのご意見。

 男は「能力」を「権力」に還元する。だから「能力がない」が男は一番こたえる。

 確かに!

 

 

 

 

 

 

中村うさぎ、佐藤優「聖書を読む」

780円+税   365ページ

文春文庫

ISBN 978-4-16-790559-0