中年のおっさんが「恋愛について」って、キモイですね。
すいません。
もうそういうことには関心がないのですが、ある理由があって、あと、古本屋で立ち読みして買ってしまいました。
ナンシーといえば共同体https://ameblo.jp/lecture12/entry-12495853841.html?frm=themeなので、ちょっと意外。
でも、よくよく考えると、愛情と共同体は関係しますね。
ブランショに「恋人たちの共同体」て、エディット・ピアフか何かのシャンソンのタイトルみたいな論文があります。
内容はシャンソンどころでないハードなものですが。
さて、本書に興味を惹かれた理由の一つが、10歳~15歳くらいの子供たちを対象にした授業を文章に起こしたものということ。
フランスでは、こういう哲学の授業をティーンエイジャーのうちから受けさせるんですね。
繰り返しになりますが、私はすでに「惚れた腫れた」の年齢ではないので、面白かったところだけ抜き書きします。
「好き」「愛している」という言葉には意味がない。
意味があるとすれば、そのような言葉を発していること自体である(p12)
行為遂行性の話です。
バルトが「Je t'aimeは文ではない」と言っているとのこと(後述 柿沼論文P134)。
文を書く主体(作者)を消して、文の自律を考えたバルトっぽい発言です。
しかし、すごいなあ、10代の子たちを相手に、いきなりこういう話をしますかね。
intimate(英語でもフランス語でも「親密な」)は、ラテン語の内側interiorの最上級intimusから来ている(p13)。
したがって、本来の意味は「誰も触れえないような(心の)奥底」という意味(p14)。
これ、私の個人的備忘録用に。メモメモ。
愛情は定量化できない。
したがって、「どのくらい好き?」という質問には答えられない(p21)
もしも愛情を量などで比較できるとすれば、それは好みの「程度」を言っていることになる。
愛情は「絶対」で尺度を超える(p24)。
これも、大人なら、まあ、そうだよねという話です。
いわゆる「計算不能性」というやつです。
でもですね、緊急事態宣言前、終電前くらいの時間帯の新宿駅、最近は池袋なんかでも、「私のこと好き?」とか「どのくらい?」とか、その場を通り抜けるのが苦行以外の何ものでもない、ホントに勘弁してほしい会話を聞かなければ、切符を買ってホームにたどり着けないということがありました。
えーと、彼らに、この授業を受けていただきたいものです。
情熱passionは、受動態であり、被るもの。
つまり、「向こうから」勝手にやってくるもの(p28)
愛情のような感情だけでない。
ある種の思考や、時にも道徳観念、良心も「向こうからやってくる」一種の他者ですね。
しつこいけど、もはや「他者論」に踏み込んでいる議論を小学生から中学生の段階で受けるんですね。
こういう話を聴いていると、ハイデガーの「良心からの呼びかけ(呼び声)」とかすぐ理解できるようになるのかなあ。
愛は受け取るもの。
誰かに愛を与えるときも、どこからか受け取ったものを与えている(p28)
そして受け取ったものは唯一性unicite(p30)
これは個人的に面白いなあと。
パスしていくものなんですね。愛情は。
いきなり「与える」ものではない。
これを広げると、「受け取ったもの」しか「与えられない」ともいえるかも。
「受け取る」ということは、もともと本人は「持っていなかった」ものですね。
持っていたらいらないですものね。
だからエライ人の愛の定義「持っていないものを(見当違いの人に)与える」という言葉は、「受け取ったものしか与えられない」ということでもあるということでしょうか?
そして、本来与えたかった人の「代理」に与えてしまうということなんでしょうね。
愛を示す動作は愛撫caressだけ。
とはいえ「性行為ではない(原文ママ)」。
あなたがここにいるということ自体のこと(p37)。
現前性が愛だというのを説明するのに、<性行為>という単語が10代の子供相手に普通に出てきます。
さすが、フランス。
(愛の)約束は守られないことを前提にしている(p47 当然、デリダを引用します)。
約束が「守られないことを前提にしている」って、「信と知」なんかに書いてありますが、デリダらしい屈折した表現です。
がっちりと守られるのなら、それは「約束」ではなくて、もっと強い概念、なんだろう、保証とか自明の決まり事とか、そんな感じでしょうか。
約束は「守られない可能性がある」ことを含んでいる不安定なもの(逆説的な「可能性」「余白」をもっている)ということですね。
こういうのも、10代の子にわかるのか?(私が理解したのは、ホントに最近・・・・恥ずかしい・・・・)
さて、後半は質疑応答。
まだ実感がないのか、どこかで借りてきたような文言の質問ばかりです。
でも大半が女の子なのが面白い。というか参加者の大半が女の子だったのでしょうね。
面白かったのは「両想いでないと愛ではないのか」という質問(p58)。
ナンシーの返事、ちょっと感動しました。
ぜひどうぞ。
あと、ある女の子の質問。「どうやったら相手が、自分に相応しい人かわかるか」(p77)。
なんとも功利的な質問です。
きっと、この質問をした子、ネリー(by 大草原の小さな家)かイライザ(by キャンディ・キャンディ)みたいな子に違いない・・・って、ただの偏見ですね。
なんだか、ナンシー先生の講義、あんた、ちゃんと聞いてた?という感じの質問です(「ふさわしい」は比較や程度のことじゃないですか!)。
で、ナンシー先生の返事、非常に丁寧に説明していますが、知的レベルという意味では容赦ない。
なんとヒュームを出してきます。
「人の美しさは、誰かから求められているというその人の気持ちの表れである」(p81)。
すごいなあ。
こういう授業を受けたかったなあ。
私が面白かったのが「永遠の愛はあると思いますか」という質問(p67)。
質問自体はベタというか、ちょっと幼い。
でも、その答え(の一部分)が勉強になりました。
いきなり、ナンシー先生は「永遠eternite」というのは延々と続くという意味ではない、中世スコラ学では、それに該当することを「永続性sempiternite」であるという説明から始めます(!)。
永遠とは「時間の外にある」という意味だと(p68)。
これも個人的備忘録に。
メモメモ!
私がその場にいたら質問したかったのが、なぜナンシー先生は「unicite」を使って「singularite」を選ばなかったのかということです。
何か語源的な違いを教えてくださいそうです。
さてこの本にインスパイアされて書かれた論文が面白かったです。
柿並良佑先生の「非恋愛論」(人文学報 513:121-151、2017)。
てか、こっちを読む必要があって、その中で本書が引用されていたのですが、偶然、古本屋で見つけて買ったというのが本来の順番。
しかし、ホントに偶然でした。
これだから、本屋の定期的巡回、かかせません。
ところで、南米大河さん。
まだ、こういうこと、できないよね?ザマアミロ(←しつこい)
・・・で、柿沼論文は、前半を本書、後半は「限りある思考」(法政大学出版局)から議論を展開なさいます。
面白かったのは、後半のキーワード、愛情とは「eclats」だというくだり(p131)。
フランス語辞書を眺めると「eclair」からいろんな語が派生していて、eclatsもその一つのようです。
eclairは閃光、稲妻の意味。
なので、派生語は「明るい」とか「明確にする」などの言葉が多い。
それでeclatsですが、二つ意味があって、一つは輝き、閃光、もう一つが破片です。(爆発音というのもあります)
柿沼論文は面白いのでPDFで入手できますし、ご興味のある向きは、どうぞ。
私の興味はこのeclatsという言葉です。
欠片なので、道筋だった論理性とか合理性と無縁。
しかし、光(=啓蒙)と無関係ではない。
あと欠片が擦りガラスのようなものだとすれば、それ自体では存在がわからないけど、その輝きでわかる何か(光=神のこと。それ自体は把握できないけど、すりガラスがきらめくことで「ある」ことがわかる)という説と関連しそうです。でも、これ誰の説だっけ。アクィナスでしたっけ?
欠片なので一つとして同じものはない。それから複数でも存在し得る(存在してもいい)。
欠片として同じ「形」のものはないが、性質は共通している。
割れる「前」があったのかもしれない。それが何かはわからない。
欠片(複数形)なので形が違うために、欠片同士を比較する、量を測定することは意味をなさない。
ヤスパースの概念でFragmentというのがあり、それについてずーっと考えていました(というか、まだ考えています)。
何か参照になりそう。
でも、たいてい、こういう時は結局、参考にならないんですけどね。
もっと、全然関係ないことがつながったりして。
で、それが面白いんで、読書をやめられないのですが。
本書は古本屋で買ったと書きましたが、前の持ち主さんがいろんなところに線を引いて、メモも書いていらっしゃいました。
おそらく女性。
詳しくは書きませんが、ある人の生き方を垣間見たようで、いろいろ考えさせられました。
古本にも、物語ありですね。
ジャン=リュック・ナンシー「恋愛について」 メランベルジェ眞紀訳
1400円+税 108ページ
新評論社
ISBN 978-4-7948-0801-1
Nancy JL:Je t'aime, un peu, beaucoup, passionnement.... Bayard, Paris, 2008