ゾラ、モーパッサン、フローベール。
ほぼ同時代に生きた作家たちですが、作風がどう違うのか。
私なりの現時点の備忘録(つまり妄想と誤解)。
フローベール。文章が斬新で凝っており、物語の構築の仕方も現代的https://ameblo.jp/lecture12/entry-12606360285.html。
たとえば舞台が古代なら、学術的に調べ上げ、注をつけて説明することなどなしに、当時の風習などをそのまま描くhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12497960418.html?frm=theme。
そのため、読者からするとよくわからない箇所があるけどリアル。
モーパッサン。概ね中流に属する人々を描くhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12611586694.html。
描きたいことが先にあり、とにかくざっくり早書きでまとめるタイプ(「モーパッサン短編集 三」青柳瑞穂訳・新潮文庫 訳者解説)。
とはいえ、フローベールの弟子らしい比較的上品な描写でまとめる。で、特に短編で強い印象を残す。
今、読んでいる普仏戦争関係の短編を集めた「モーパッサン短編集 三」(新潮文庫)は、70年代のアメリカ映画みたいな作品ばかり。
のんびりと始まり、急にうわ、厭な予感と思うと、ぶちっと悲劇で終わる。
しかし、いかにも悲哀に満ちた描写ではなく、ともするとユーモラスでさえある。
それが逆に、厭ーな後味を残す。
地獄の70年代ハリウッド映画好きなら懐かしい感触です。
ゾラ。下層階級の人々のどろどろした心理を描かせるとピカ一。
描写もほどほどに「品がない」ので、力づくで引き込まれる。
時々、あまりにも<あまーい>(by スピードワゴン・・・古い)描写で、これはハーレクイーン・ロマンスですか?になることもある(光文社古典新訳文庫「ゾラ短編集 オリヴィエ・べカイユの死/呪われた家」に収載の「シャーブル氏の貝」の後半とか)。
で、うわー、あちゃー、これは・・・・とか思って本を置いても、いつの間にかまた読み始めていたりする。
しかし、短編以外では、構成やアイデア自体は実は観念的なので(本書、訳者解説)、ぎりぎり通俗小説にならない。
私的には<大映ドラマ>な印象・・・ということは「真珠夫人」を書いた菊地寛のような・・・いえいえ、観念的構成で、やっぱり違う。
「制作」がディドロの絵画論を下敷きにしているらしいと書きましたがhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12614668605.html、あっ!という箇所が。
「彼のいまの一つの偏執は(略)右から左に絵筆を動かすことだった(略)」(「制作・下」p98-99)
「(略)田園風景画を記述するかなりよい方法の一つは、場面のなかに右側か左側から入っていって(略)」(ジャン・スタロバンスキー「絵画を見るディドロ」 法政大学出版局 p14 ディドロの絵画論の引用箇所)
おお、パクッテる、パクッテる。
ほかに、近代になって権威を持ち始めたアカデミズムへの嫌悪(「制作・上」p148、「下」第10章p139-215)。
医学の進歩で、パリ派とモンペリエ派で論争になっていた生気論/機械論を取り入れている(「制作」では機械論 「上」p301「下」p245)。
資本主義によって、計算すべきでないものまで計測可能になったことの問題も描かれています(「上」p346-355、「下」p253、本書なら「広告の犠牲者」がそのようなテーマかも)。
ただのどろどろ人間憎悪劇でなくて社会派小説です。
・・・・といったところで。
もちろん、私の乏しい読書体験からのまとめなので、眉に唾をお付けください。
さて、「テレーズ・ラカン」。
例によって筋だけ書くと簡単です。
下層階級の女性(私生児)が、病弱な従妹と結婚。
そこに夫より男性的な、しかしいい加減な男が現れて不倫関係に。
で、二人は示し合わせて夫を殺害。
ところが、二人は殺害した夫の記憶から逃れられずに怯える日々となり・・・・。
これが、ぐいぐい読ませる長編になります。
しかし、おっさんの私は前半はなんとかなりましたが(訳者さんは思春期に読んで、非常に嫌な気持ちになったそうです。そりゃそうだ)、後半はさすがに何回か箸休めしました。
夫殺害後に二人は再婚。しかし、その初夜は・・・・(p170)以後のエピソードの数々。
一言。「ひどい」。
倒錯的で、精神的生理的に不快な描写が続きます。
私は、猫のあの話は耐えられませんでした(p251)。犬派なんですけどね。
てか、似たエピソードが平山夢明の短編にありましたよ!
おお、平山夢明とゾラに類似点があるとは・・・・(←だからどうした)。
あ、とはいえですね、フランス書院とか富士見ロマン文庫みたいなことにはなりません。一応、フランス文学ですから、ご安心を(?)。
ところで、本書は有名な「ルーゴン・マッカール叢書」の前に書かれています。
しかし、本書ですでに構想、発想は健在。
本書に第二版の序文(p273-280)が載っていて、そこにこの物語のゾラの意図が書かれています。
てか、自分で解説しちゃうって、ゾラ、よほど批判が気に入らなかったのでしょうね。
曰く、「わたしが観察したかったのは(略)気質であった(略)。自由意志を奪われて、神経と血に翻弄され(略)宿命にひきずられていく登場人物を選んだ」。そして、「情念の働き」「本能的な衝動」が「神経的な発作のあとに起こる頭脳の変調」を描いた。
というのも、「ふたつの気質のあいだに生じる」「深刻なトラブル」を「科学的な」意図で「生理学の珍しい実例」として提示したかったのだと(p274-275)。
そして「テレーズ・ラカン」では、繊細で自分を誤魔化さないと生きていけない脆弱さ、計画性のなさなどが目立つ「神経質」なテレーズと、興奮しやすくて生物学的欲望が強く、衝動的な「多血質」のロランが、同じ「環境と状況の影響下」(p279)にあると、どのような「深層的な変化」が起きるかが描かれる・・・・てか、そんな感じでゾラ自身が書いています。
つまり(遺伝的)素質と環境の影響、さらに素質同士の混交で、どのようなことが起きるのかという、一種の「メンタル実験小説」なわけです。
で、私は読んでいないあの「ルーゴン・マッカール叢書」は、多血質なルーゴン家、神経質なマッカール家が交わることでどのような顛末を迎えるかを描くことになる。
なんとも壮大な物語群の構想です。
そう聞くと、全巻、読んでみたくなります
・・・・て、絶対、読まないけど。
あ、小賢しい私は最終巻だけ買っています。「パスカル博士」。
最後どうなるのかな・・・・ちょっと楽しみです。時間があいたらじっくり読みます。
ところで、先日読んだ「制作」は、このルーゴン・マッカール・サーガの番外編で、主人公はマッカール家の血族。
「気質がうまく混交した天才」という設定なのですが、最後は・・・・。
話は戻って「叢書」。
私は普仏戦争がテーマの「壊滅」だけは購入して読みたいのですが、南米大河さんでは中古しかなく、しかもバカ高い(2020年8月現在)。
なので、手が出ません。安くなるのを待つか「日本の古本屋」で探します。
あーあ、南米大河は役に立たねえなあ。
ちなみに尊敬する兄貴ぃhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12564532166.html、https://ameblo.jp/lecture12/entry-12612165141.htmlはもちろん読了済みのようです。
確か「獣人」と「獲物の分け前」を読んだと聞いたような気がするのですが、前者が面白かったと言っていたような・・・・。
ということで、「ヤヌスの鏡」とか「アリエスの乙女たち」とかに夢中になった方々(といっても私は未見ですが。姉妹が見ていたのを隣で眺めていただけ。主題歌のサビは知っているけど。あーりえーすー♪)。
そして、敢えて厭ーな映画なんかが好きな方々。ミヒャエル・ハネケのUSA版のあるあの映画がいいとか、ギャスパー・ノエの映画が好きとか(やっぱり私は未見ですが。てか、そんな方いらしゃるのか?)。
お勧めです。
ぜひ、どうぞ。
あ、「テレーズ・ラカン」以外は、楽しい(なんてない)短編で、これはこれで(まあまあ)楽しめます。
エミール・ゾラ「初期名作集 テレーズ・ラカン、引き立て役ほか」 宮下志朗訳
3600円+税
藤原書店
ISBN 4-89434-401-7