小説は文体や描き方こそ愉しむものだと、最近、ようやくわかってきたところです。

 なので、このタイミングで本書を読めたのはよかったのかもしれません。

 この小説、筋だけまとめろと言われれば、数行で書けますよね。

 

 私は新潮文庫の新訳で読みましたが、かなり翻訳を工夫されたそうです。

 そこは解説をお読みいただくとして、私的にはどこで自由間接話法に切り替わったのか気付かなかったことが多く、確かに文章表現を工夫なさったのだろうなあと読後に思いました。

 自由間接話法については、このブログでも書いたので参考にしていただくとしてhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12600940541.html、 https://ameblo.jp/lecture12/entry-12497960418.html?frm=theme、それにしても本書、「自由」すぎるくらいです。

 

 

 冒頭、主人公エンマの夫、シャルルの少年時代から始まります。

 てか、エンマ嬢はp29まで登場しません。

 

 本書の1行目。

 「僕たちが自習室にいると・・・・」シャルル少年が校長先生に連れてこられる。

 この「僕たち」、教室内にいる「誰か」で誰でもない。

 

 でも、この文章だと読んでいる側は、居心地悪そうなシャルルが、突然、校長と共に目の前に現れたような、1人称的映像を自然と思い浮かべてしまう。

 もし「シャルルは校長に連れられて・・・」と3人称だと、廊下を歩く2人を視点が追いかけて、教室に入るとシャルルと校長、生徒たちが対面するのを室内のどこからか映している映像を思い浮かべませんか?

 

 1行目からお見事!

 

 

 さて、医者(のような)資格をとって開業したシャルル青年、お金持ちの年上女性と結婚します。

 しかし、1人目のボヴァリー夫人、ほどなく喀血で亡くなります(p37)。

 ストレスもあったけど、痩せていたし、結核だったのでしょうか?(詳細不明)

 

 

 そして、我らがエンマ嬢。

 このエンマ嬢、外見の具体的な描写はほぼない(服装は除く)。

 それぞれの視点から「美しい」と思われていることが描かれるだけです。

 田舎のあまり柄のよろしくない農夫のお父さん(p29)と一緒に働いているところでシャルルと出会う。

 妙に盛大な結婚式が行われ(p47-56 描き方が皮肉っぽいです)、シャルルは心底幸せそうですが、エンマは早々と「本のなかで読むとあんなにも美しく思われた至福とか情熱とか陶酔とか(略)何を意味しているのか(略)」(p61)と疑問を抱き始めている。

 その後、エンマが読書家で夢想家だった思春期がさらっと描かれ、時間が戻ると、エンマが結婚生活に失望しているとはっきりと記される。

 結婚して20ページもしないうちに。

 

 

 さて、二人はある伝手で上流階級のパーティーに参加する。

 そこでエンマはワイングラスに手袋を入れていない女性がいることに気付く(p85)。

 これは「ワインは結構です」という上流階級の作法なのだそうです。

 フローベールは内面描写なしで「ボヴァリー夫人は・・・気づいた」と3人称で、たった一行書く。

 でも、この一文で、自分は本物の上流階級の人さえわきまえていない作法を知っている、そのことに優越感と自尊心の高ぶりをエンマが抱いたに違いないと読み手に思わせます。

 ただの田舎娘で、おそらく本の知識に過ぎないのに。

 事実、パーティーでシャルルはびくびくしたままなのに、エンマは実に堂々と振舞います。

 

 

 エンマは日常の単調な繰り返しに我慢ができない(・・という描写にこと欠きません。p115、193、206、222、329、371・・・・)。

 そのことを「神経を病んだ」とシャルルは考える。

 実際、エンマは気持ちが落ちたり、怒りっぽくなったり、突然興奮したり、体の節々が痛んだりする。

 

 そんなエンマをシャルルは一生懸命に愛している。

 

 

 「ボヴァリー夫人」は「エンマは凡庸な夫にあきたらず」的に紹介をされますが、シャルルは私も含めてどんな男にもある鈍感さを持っていますが、彼のエンマへの愛情は飛び抜けています。

 

 気分の優れない妻のために馬を買い与えp290、エンマにそそのかされて慣れない手術をして名声を得ようとしp312(失敗して、ヒステリックに責められる)、関心もないのに妻のためにオペラに行ってみたりp397、ピアノのレッスンを許可するp471(愛人のところへ通う口実に使われる)。

 裕福とは言えないのに、とにかく彼女を笑顔にするためにありとあらゆる努力をしている。

 単に趣味がぴったり一致しないだけで「凡庸」と言われるのなら、世界中で「凡庸でない夫」って何人いるのでしょうか?(と、なぜか喧嘩腰)

 

 緊張のために出発時間が早すぎて、開館前にオペラ・ハウスに着いてしまうシーンや、娘と妻との幸福な将来を夢想するところp348-349などは、涙なしには読めません。

 

 

 

 さて、私の好きなシーンを一つ。

 エンマが愛人と逢瀬を愉しむところ(p252-266)。

 

 彼女たちが逢瀬をしている家の前で、参事官が演説をしている。

 フランスが発展するため、愛国心と共に農業にいそしみ働くことが大事なのだと。

 そこに彼女たち2人の台詞や様子が数行ずつ挟まる。

 そしてp265から、おそらく切迫してきている二人の心情と同じように、外の出来事とエンマたちの様子が、たった1行で交代し始める。

 もう、映画を見ているようなスピード感です。

 

 たとえば以下のように;

  (略)

 そして彼はエンマの手を取ると、彼女は手を引っ込めなかった。

 〈〈農作業優秀者!〉〉と委員長は叫んだ。

 「たとえば、今日の午後、私がお宅にうかがったときには・・・・」

 〈〈カンカンポワ村のビゼー君〉〉

 「御一緒することになるなんて、私にわかっていたでしょうか?」

 〈〈賞金七十フラン!>>

 「何度も立ち去ってしまおうかと思いました、でもあなたのお供をして、こうしてそばに残っています」

 <<堆肥>>

 「同じように今晩も、明日も、ほかの日も、一生涯おそばにとどまるでしょう!」

 (略)

 

 なんか、もうカッコいい!内容的な対比も含めて。

 それにしても「一生涯おそばに」云々の盛り上がりのところで「堆肥」を持ってくるという底意地の悪さに、私は笑ってしまいましたが。

 

 

 あと、これみよがしな記述ではないのですが象徴的な描写もいい。

 

 愛人がエンマと教会で待ち合わせる。

 守衛さんに何か見学しろと言われ、仕方なく宝物類を見始めるのですが、辛抱たまらん愛人はエンマを連れ出してしまう。

 守衛さんは、まだ見てないものがありますよ!と呼びとめようとする。 

 で、彼らが見ていないのが「最後の審判」や「神に見放された人びと」などだとさらっと書かれる(p440)。

 

 

 3日間愛人とホテルに閉じこもる。内面描写なし。

 で、なぜか唐突にホテル近くの港の描写に。

 船体のつなぎ目をうつ木槌の音が聞こえ、蒸気(もちろん「白い」でしょうね)が木々の間から立ち上り、川に「ねっとりとした」油の沁みが広がっている(p463)。

 おお、汚らわしい!!

 

 

 さて、名作なのでネタバレもへったくれもないので、ラストを書くと、エンマはヒ素を飲んで自殺を試みます。

 ここなんですが、蓮實大先生はホントに自殺だったのかを論じていらっしゃるようです(!! 「ボヴァリー夫人」論についてGoogleさんに調べてもらうと、その種の書評がいっぱい出てきます)。

 

 ええ?と思って読み直すと、確かに。

 隣人の薬剤師の家の物置の「左の隅の三段目の棚」にヒ素は置いてあったと書いてある(p447)。

 で、エンマが取りに行ったときは「三つ目の棚にまっすぐ進んだ」と書いてあります(p573)。

 微妙に違う(原文不明)。

 一体、エンマは何が入っている瓶をつかんだのでしょうか。

 

 あとヒ素中毒のことを調べても吐血が出てきません。

 だけど、エンマ、吐血しているんです(p582)。

 しかもたぶん大量に(p605 死んだエンマの頭をもちあげると、口の中から「黒い液体」が流れ出る)。

 「黒い」って、凝固しかかって黒っぽくなった血液か、胃酸で酸化して黒くなった血液だと思います。

 

 後者だとすると胃潰瘍の大量出血で死んだのかもしれません。

 あるいは、ボヴァリー第一夫人(前の夫人)のように喀血?(≒結核?)。 

 蓮實大先生のお考えは何か、本屋で立ち・・・・・・あ、いえ、図書館でちゃんとお借りして読んでみることにします。

 (ちなみにフローベールのお父さんはお医者さんでした)

 

 

 

 最後に私的には娘のベルトちゃんが心配です。

 

 19世紀、都市が発展するにつれ、農村からお針子さんや女工さんとして働きに出てきた若い娘さんが、同じく都会に出てきた将来有望な学生の、半分恋人、半分お金をもらう相手みたいな微妙な関係になることがあったそうで、grisetteと言われていたそうな(小倉孝誠;グリゼットの栄光と悲惨 藝文研究 91:1-19, 2006 PDFで読めます)。

 本書でもp415にこの単語、出てきますが、邦訳は「尻軽女工」(!)。

 ベルトちゃん、女工になったと記されている。

 Grisetteだけにはなるなよ、頑張れよ!!

 ・・・・とおじさんは思うのでした。

 

 

 

 それにしても、身につまされる思いで読み終わりました。

 本を読むことに耽溺している人間は、どこかボヴァリー夫人的な面があるはずです(フローベール自身、c'est moi!とか言っているし、って真偽不明だそうですが)。

 些細で変化のない、義務と負荷の多い日常から逃避したいという欲望。

 

 フローベールは登場人物にこう言わせています。

 Fabricando fit faber, age quod agis! (p449)

 <仕事をすることで職人がつくられる、汝がなすことをなせ!>

 

 

 ブログなんて書いてないで、仕事しなくちゃ・・・・・

 

 

 

 

ギュスターブ・フローベール「ボヴァリー夫人」  芳川泰久訳

890円+税

新潮文庫

ISBN 978-4-10-208502-8

 

 

Flaubert G: Madame Bovery   1857