以前のブログに書いた「幕間」https://ameblo.jp/lecture12/entry-12599373115.html

 面白かったので読み比べようと思い、10年前に買った「ダロウェイ夫人」を引っ張り出して再読。

 

 当時は恥ずかしながら面白さがピンと来てませんでした。

 何しろ1日の出来事を描いた小説なので端的に「何も起きない」。

 延々といろんな人の内言を読まされている、しかも登場人物がやたら多い・・・みたいな雑な印象でした。

 

 今回、読んで思ったのが、とんでもなく動き回る空間性と、ほとんど同じことを反復的に考え続ける人々の時間性の差異。

 

 よくこの小説は自由間接話法https://ameblo.jp/lecture12/entry-12497960418.html?frm=themeが話題になるけれども、感心したのが、なるほど、こういう筋ならこの方法がいいなあと。

 光文社文庫では、1928年版にウルフがつけた序文がついており、そこで「方法ばかりが注目される」と不満が書かれています。

 確かに「なぜこのように書かなければならなかったのか」が重要ですよね。

 

 自由間接話法なので、空間を移動しているのに内面を自由に描ける。

 「万能の語り手」でもいいのかもしれないけれど、それだと読んでいる側の「感情移入度」が落ちます。

 

 とにかく、その空間を移動する疾走感が心地よい。

 

 

 適当な例を出します。

 小説では、Aさんを追いかけているとします。

 Aさんの内面の語りと、誰が語っているのかわからない地の文と、時にAさんが見かけたBさんの内言が混じる。

 で、Aさんがある公園にたどり着くと、そこにC夫妻がいる。

 AさんとC夫妻について、客観的描写の地の文になったかと思うと、今度はC夫人の内言へ。

 Cさんの様子をC夫人からの視点で描いたと思うと、今度はいきなりCさんの内言・・・・

 

 という具合に、「語り手」(は複数いるので「視点」?)がバトンタッチして、映画ならカメラがロンドン中を駆け回るのです。

 

 これが気持ちいい!

 (なお、ウルフは、さっきの例だと一回しか出てこないBさんの固有名をいちいち書くので、後で出るのかなと記憶するととんでもないことになります。私が持っている光文社新訳版は、親切に栞に主要登場人物が書かれています。だいぶ、ありがたかった・・・・)

 

 

 

 設定は第一次世界大戦終結直後。

 戦争の爪痕の記載はいくらでもあるけど(p14あたりで息子さんが戦死した知人の話が出てくるし、p40あたりは、孤児や寡婦のこと、さらに重要な登場人物である戦争で神経を病んだ元兵隊さん夫婦が出てきます)、この広々とした空間性が何とも言えない解放感を抱かせます。

 

 出来事はたった一つ。

 ダロウェイ夫人が夜、パーティーを開く。その準備まで。

 

 

 午前中はダロウェイ夫人の同性愛的アヴァンチュールやかつての恋人との思い出などが出てくる程度で、正直、若干退屈です(p60あたり)。

 しかし、途中からかつての恋人ピーターが現れ、そこから急に面白くなります(p70あたり)。

 身分社会のイギリスなら、大きな差異が出来てしまったに違いない二人の再会。

 強がっているけれども想いをあきらかに断ち切れていない(その後、延々と彼の内言に付き合うことになります)ピーターと、もちろん動揺はしても、それ以上の彼のことをどうこう考える様子のないダロウェイ夫人とのやり取り。

 

 p90-100あたりの内言などは、いつまで過去を引きずっているんだよ、もう他人の奥さんなんだから諦めろよという感じなのですが、後半でがらっと印象が変わります。

 

 

 p140あたりは、戦争で精神を病んだ元兵隊夫婦の話。私はこれが本当に切なかった。

 旦那さんは教養のそこそこある気持ちの優しい中流男性(らしい)。奥さんはかなり若いイタリア人。外国で病んだ夫を一人で支え、かなり心細いはずです。でも健気。

 二人ともに一人称で気持ちや考え、知覚しているものを、直接、読み手に伝えてくるので、本当に感情移入しやすい。

 自由間接話法だからこその読書体験です。

 (追記:さっき通勤中に思いつきました。「神の視点」という名の「作者のバイアス」も排除されますね、この手法。登場人物が、より「自立」する) 

 

 

 午後3-4時ごろ、p215あたりから出てくる、ダロウェイ夫人の娘さんの家庭教師も興味深い。

 私は個人的にはこの人こそ「もう一人のダロウェイ夫人」かなと思います(ウルフ自身はPTSDの兵隊が「ダロウェイ夫人の分身」と考えていたのだそうです p341)。

 

 未婚の中年。貧乏。しかし、学位をもっているインテリで、プロテスタント系。

 当時のイギリス女性では「変わった人」でしょう。

 英国教会所属でないし、大学まで行っている。

 元敵国のドイツ「系」だけど、あくまでイギリス人です(だから堂々としていてもいい)。

 

 しかし、プライドの高さと劣等感がないまぜになって周囲に憎しみしか抱いていない。

 というか、周囲に憎まれている、軽んじられていると勝手に思い込んでいる。ある意味、病んでいる人で、周りもそう見ている(p226)。

 無意識のうちに「肉の悩み」とかつぶやいていたり(分かりやす過ぎる!)、ばくばく甘いもの食べたり、そのせいでどうも肥満体。

 ダロウェイ夫人を憎んでいますが、その子を過剰に理想化している(一方、ピーターは、夫人の娘を「たいしてきれいでない」と思っているのが面白いです p101。まま、ダロウェイ夫人への気持ちを反転して娘にみているわけで、娘さん、とんだ迷惑です。ところで、小説内では、客観的描写はもちろんないので、実際に娘さんが美しいのか人並みなのかは不明)。

 

 私が思うに、人生の選択次第では、ダロウェイ夫人、まさに「彼女」だったかもしれない気がします。

 

 

 p150あたりのお医者さんに対する皮肉な描写などはかなりブラック・コメディ的ですが、ウルフ、お医者さんが嫌いだったのでしょうね。

 ただ、お医者さんが絡むこの一件、残念なことに悲劇に終わります p261。

 

 

 p286-337でパーティーです。いろんな人が出てきますが、重要なのはピーターと夫人のもう一人の「恋人」(女性の)サリーの会話。

 

 サリーはかつての恋人を「俗物」という p329。

 

 

 後半のパーティーのシーンの数ページで初めて気付いたのですが、ダロウェイ夫人の内言って、「今(もしくは今日)」のことだけか、政治家である夫の人間関係のことばかりで――たまに過去を想起してもすぐに消える――、物語中、彼女の内面が「もっとも面白くない」!

 

  

 ピーターの記憶では、彼女は豊かな感受性と知的教養、きらきらした好奇心を持った魅力的な若い女性だったようです。

 それが今はどうなのか。

 

 

 読み返してみると前半のp69やp59あたりでダロウェイ夫人、「子は生んだけど処女性が・・・」とか、自分には「中心がない」と一瞬だけ考えます。

 すぐにパーティーのことや夫、娘のことの想起に戻るけど。

 あと、ダロウェイ夫人、ふっと自分自身、「俗物」ではないかと思う。ただし、自分の意見ではなく「ピーターにそう思われているのではないか」という体です。だからこそ、余計に闇が深いと個人的には思いますが p121。

 

 

 いやー、10年ぶりに読んだけど、こんな小説だったけか・・・(雑な読書しかしてない・・・)

 

 

 

 

 「幕間」

 これは一転、第二次大戦直前が舞台。

 あちこちに、きな臭い話題が、のんびりした会話の断片として出てきます(水晶の夜事件らしきことなど。p149、150、185、240)。

 この雰囲気が実にリアルです。誰も真剣ではない。

 

 今度はイギリスの片田舎である一家が村人を動員して出し物で劇をする、その一日を描いています。

 なので、その家から「視点=カメラ」は一歩も出ません。

 

 そして自由間接話法が健在。

 ただほぼ「固定カメラ」なので、誰かが他の誰かのことを考えたり、そちらに視線を向けると「視点(語り手)」が移動する程度。

 とはいえ「ダロウェイ夫人」の時ほど明確な移行はなく話者がまじったりするのですが、読んでいて混乱しません。

 

 そして今回も、やはり「この手法」が生きる。

 一見、なんでもない田舎の風景。描写を読む限り緑豊かでのんびりとした美しい場所のようです。

 しかし、実は人間関係的にはどろどろ。

 その風景と、複数の登場人物の内面の複数のレイヤーを描くのに、この方法がぴったりなんです。

 

 

 ある夫婦。

 夫のことをおそらく愛していないという主旨の内言があったり、夫は誰のことを見ているのだろうと考えている(p60、p130)。

 で、夫も実は妻が自分以外の男性に関心を持っているのではと思って妻を見ている(p137)。

 

 

 劇はp94~240まで描かれ、なんとも頓馬で(よく言えば素朴で)笑わせます。

 この小説、全体としてはコメディーだと思います。

 

 で、幕間は必ず組み合わせの異なるカップルが別行動をとる(別に大したことは起きない p125あたり、185あたり、210あたり)のですが、そっちを追っかけるのがウルフの底意地の悪いところです(そういうところ、私は好きですが)。 

 

  

 いろいろな男女が思いを交錯し火花を散らしている、それがのんびりした風景とまったくマッチしていないのが面白いのですが、本書は邦訳が素晴らしいのか、どことなく空回りしている薄気味悪さがあり、それが魅力です。

 

 たとえば、さっきの夫婦の夫が、カエルを飲み込みかけている蛇を靴で踏みつぶすシーン(!p122)。

 まま、妻のことや自分の甲斐性のことでいらいらしているというシーンでしたが、それにしても意味がありそうです。

 欲望のままに飲み込む/飲み込まれいてる様への嫌悪感なのかな。

 こういうちょっとしたグロいシーンが淡々と描かれていたり。

 

 あと、訳注が光文社の「ダロウェイ夫人」と比べて、かなり充実しているのも、この雰囲気作りに貢献しているようにも思います。

 こんな断片的セリフからよく引用元を調べたなあと感嘆します。

 ある登場人物がふっと口にする「ああ、姉ツバメよ」、なんでもないセリフですが訳注を読むと不気味な意味で、私はこのシーン、好きです p135。

 

 

 私的に謎なのが、主要登場人物の一人の同性愛的傾向のある女性(未婚、中年)が、客である男性(同性愛者)を、おどおどと不器用に自宅を案内するシーンで、なんと寝室を見せてしまうところです(p85)。

 これって、普通、しますか?

 私はこのシーンで、女性がこの男性にどのような思いを抱いているのだろうかと考えたり、そもそもこの女性自身がメンタルをやられているように描かれているので、そういう非常識さも表しているのかなあと思ったのですが、どうなんでしょうか??

 

 

 

 

 ヴァージニア・ウルフって、女性ファンはどのようにお読みになるのでしょうか。

 やっぱり、私のような男だと「理屈っぽく」なっていて、かなり見当違いに読んでそう・・・・。

 

 

 あ、ウルフ夫妻のホガース出版、それにブルームズベリー・グループって、精神分析と関係が深いのですが、これはそのうち。

 

 

 

 

 

片山亜紀訳「幕間」

1400円+税  

平凡社ライブラリー

ISBN 978-4-582-76897-8

 

Woolf V: Between the Acts.  Hogarth, London, 1941

 

 

土屋政雄訳「ダロウェイ夫人」

780円+税

光文社古典新訳文庫

ISBN 978-4-334-75205-7

 

Mrs. Dalloway.  Hogarth,  London, 1925