小説/最後の仇討(2001)・再投稿 | 心を湛(しずか)にゆるがせて

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なかなか体調が戻らない風森です(;^_^A
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『最後の仇討(さいごのあだうち)』(2001年出版『敵討』の一編)
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以前読んだ書籍『最後の仇討』を紹介します。
参考資料として、小泉輝三郎著『明治黎明期の犯罪と刑罰』も併せて読みました。
作者は、「桜田門外ノ変」感想1回目×感想2回目等も著した吉村昭氏。
 
明治13年(1880年)、日本で最後の仇討となる殺人事件が起きました。
既に「復讐ヲ厳禁ス」と太政官による正式な法律が定められた後の出来事。
(法制定は明治6年2月7日)
この敵討ちの発端となった事件は、慶応4年(1868年)旧暦5月24日に
現・福岡県秋月(当時 秋月藩)で起こりました。
 
半年後に元号が明治に変わる幕末、
福岡秋月・黒田藩で執政を務める臼井亘理(うすいわたり・42歳)と妻(37歳)が
午前4時頃、屋敷に侵入した数名の侍に斬殺されました。
藩存続の為に薩長と手を組もうと進言する亘理への「天誅」でした。
実行犯は「干城隊(かんじょうたい)」と称する平均年齢20代前半の若者達、
バックについていたのは城代家老・吉田悟助(よしだこうすけ)でした。
 
臼井家は干城隊の犯行とつきとめ訴えましたが、吉田は握り潰したのみならず
「臼井亘理の自業自得」と家禄減と、訴えた身内を投獄(明治に入って特赦)。
あまりの理不尽と臼井家に同情する藩士達、騒動を知る住民の声が大きくなり
宗藩・福岡黒田藩も調整に乗り出しますが、家老の権力が強くお手上げで終わります。
 
難を逃れた嫡男・臼井六郎(当時10歳くらい)は両親の敵討ちを誓います。
父を斬った者は一瀬直久、母を斬った者は荻谷伝之進(それぞれ文献によって名が若干異なる)。
「先ず文武を学べ」という叔父の言葉に従い、いろいろあって山岡鉄舟の内弟子となります。
執念で親の仇・一瀬をストーカーし、事件から13年後の明治13年12月17日、仇討を果たしました。
六郎(23歳くらい)が一瀬にかけた言葉は「奸賊!思い知れ!」だったそうです。
 
一瀬を刺殺した足で自首。翌年から東京裁判所で審判が開始。
「仇討禁止令」発布後から臼井六郎の仇討まで、既に仇討事件が数件起きており
それらは全て死刑判決でした。
が、全国に報道されたこの事件で世論は「臼井の死刑反対」が叫ばれました。
郷里・秋月の人々は「六郎、よくやった!」と讃え、被害者家族の一瀬家が
肩身の狭い思いをしたそうです。それもこれも発端事件の理不尽ゆえ。
(尚、六郎の父・亘理について『臼井亘理遭難記』という資料が明治に作成)
 
明治14年9月22日、臼井六郎は終身刑の判決を受けます。
これ以降 武士道にのっとる仇討事件は起きていません。
六郎は裁判において「母を殺した荻谷も逮捕し殺人罪で裁いて欲しい」と述べます。
それは却下されたものの、国内で大きく報道された為か当時存命だった荻谷は
「いつか六郎に殺される」と怯え自殺したとも言われています。
また、六郎に仇討された一瀬直久の父も事件後に自害しました。
 
儒学の教えでは「父の殺されるに、子、復讐せずして可ならんや」とあり
当時の教育を受けた人々ならば「親の仇討」は当然為さねばならぬこと。
明治になり、太陽暦に変わり法律が変わっても、思想・教育は簡単には変わりません。
混乱の幕末、思想の異なる人間を殺しても構わなかった時代、
臼井家も奸城隊も時代の犠牲者でした。
 
『遺恨あり 明治十三年最後の仇討』(2011年 テレビ朝日放送)
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臼井六郎の物語はドラマ化され2011年2月に放送されました。
ご記憶の方もおられると思います。
【キャスト】
臼井六郎/藤原竜也
臼井亘理/豊原功補
一瀬直久/小澤征悦
荻谷伝之進/岡田浩暉
吉田悟助/石橋蓮司
山岡鉄舟/北大路欣也
 
臼井六郎は10年服役の後に恩赦で釈放。北九州市門司で暮らし結婚もしました。
1917年、60歳で病死。現在 故郷秋月で両親の隣に眠っています。
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