新年度・新学期がスタートし早3週間。
(このフレーズ使い過ぎ!?)
今月も残すところあとわずか。
季節柄か何となく体調がすぐれない状態で、今週の授業の無事終了。
重たい体を引きずって帰宅し、あれやこれやと雑事をこなしていたら、やっぱり気付けば午前2時。
何となくでTVのスイッチを入れたら、やっていました「朝まで生テレビ」。
あぁ月末か、と改めて実感。
今日のテーマは「集団的自衛権」。
少し前から、憲法改正や集団的自衛権、領土問題、いわゆる従軍慰安婦問題、靖国神社、東京裁判などなどの問題が表だって議論され始めてきたように思います。
外交や国防などについて、私は恥ずかしながら、つい最近まで自分の関心事ではありませんでした。
が、いわゆる「平和憲法」がある「平和国家」であるところの日本、その「平和」というものがどのように担保され、私たちが日常的にはある意味での「平和」を保って生活できている根拠はどこにあるのか、これは実は国民一人ひとりが「我が事」として関心を持っているべきことなのでしょう。
そんなこんなで最近は様々な政治家や学者など言論人の発言やメディアに関心を持つようにしています。
外交や国防の問題は、国家として、民主主義、国民主権を唱える国としては非常に根本的で、かつデリケートな問題ですから、簡単に「答え」が出せるようなものではありません。
ただ、一方で、それは一部の政治家や学者だけが議論して「答え」を出すような問題でもないはずです。
その意味で、「朝生」で誰かが言っていた、「国民に覚悟をもってもらう」という言葉は大変重いものであると思うのです。
現在の日本のルールは、議会制民主主義、代議士制ですから、政治家は私たち国民の代表です。
でも、あくまでも主権者は国民一人ひとりなわけです。
だから、
「だれかがどうにかしてくれればいいや」
という態度は頂けませんよね。
自分に不利益がなければ無関心で、いざ自分にとって不利な事態が起こった場合にだけ猛然と抵抗するという態度はいささかアンフェアではないでしょうか。
それならそもそも自分が善と思える政治を行う人物を代表者として推したのか、と問いたくなってしまいます。
昨今の国際情勢やそもそも国内情勢でさえも、そうそう全国民がvividに反応し、あらゆる政策テーマについて議論できるかといえば、現実的にはかなり難しいでしょう。
かくいう私だって教育とか自分が関心を持ってそれなりに情報を入手したりしているテーマであればいざ知らず、なかなか普段アクセスしていない分野のことであれば、やっぱり専門家と同レベルでの議論は難しいです。
じゃあやっぱり「だれかに丸投げ」なのか、といえばやっぱりそれは違うと思う。
そういう話題であっても、必要に応じてきちんと情報を得て、それについて自分の意見を持つように心がけること、それは誰でもできるし、誰もがやるべきことなのだろう。
主権者としての国民であれば。
だから、こういった機会に、少なくとも私たち一人ひとりが「覚悟」を持つようにシフトチェンジしていくことが、「ズブの素人」の私たちにもできる、かつ、すべき最も重要なことの1つではないでしょうか。
先に挙げたような、憲法改正、いわゆる従軍慰安婦問題、東京裁判史観(自虐史観)などなどについては、私のような立場の人間からすれば、やはり教育という側面から眺めてしまいます。
そこには戦後教育の問題が大きく関わっています。
先日、といっても2か月くらい前の話ですが、自民党の稲田政調会長が東京裁判について、法的に疑問がある(罪刑法定主義)として、事実関係の検証の必要性を示したという報道がありました。
こうした発言があると、「歴史修正主義だ!」と強く非難される方がおられますが、事実関係を検証し直し、その事実を受け入れようとする姿勢が果たして「修正」主義なのでしょうか。
また、集団的自衛権とか憲法改正(特に9条の問題)を議論すると、それだけ「軍国主義」やら「右傾化」やら、「日本を戦争する国にする気か!」「自分の子どもを戦争に行かせる気か!」と声高に発言する声も聞こえてきます。
そうならないために、あるいは、ロクデモナイ侵略者たちに有耶無耶のうちに戦争に巻き込まれないためにこそ国防、外交について、そもそもの国家のグランドデザインについて語ることのどこが「軍国主義」なのでしょうか。
自衛隊の存在を憲法的にもはっきりさせることで、より国防のための活動に支障が出ないようにしようと試みることが、すなわち戦争をすることと直接むすびつくのでしょうか。
可能性としてつながらないものではありませんが、現状で、自衛隊が国防軍になって、戦力と呼ばれるものを正面切って装備できた瞬間、日本国民は、その代表者は戦争をしかけるのでしょうか。
少々論理が飛躍してしまっているようにも思います。
それこそ主権者としてそうしたことが危ぶまれる事態となれば、それを阻止すべく、その権利を正当に行使すれば良いはずですが。
だから、そういう点ではやっぱり国民の側、もちろん一部のなんちゃって政治家に、そもそも国家観が、主権者、あるいは権力を付託された代表者としての「覚悟」が足りないのかもしれないですね、私を含めて。
私は教育という世界の片隅で生きている人間ですから、こうした問題には「社会科」の学習の場面で生徒たちとともに直接触れる機会があります。
単純に、国家の基本的ルール、その最たるものとして法律が制定されるまでのしくみとか、そういう勉強は中学校3年生で「公民」分野で学習します。
ただ、印象としては、やはり何となくよく分からないというか実感も持てないまま、テストに出させるから何となく暗記しました、という人が多いのが実態。
なるべくそうはならないようにと様々な投げかけを工夫していても、結局は「テスト範囲がここだから・・・」「入試ではここがこう出るから・・・」などの問題で、より意義深い、現実的な議論にまで発展させられることは少ないのではないかと思うのです。
中3=受験期に「公民」を学習しているというのもそういう状況に拍車をかける要因かもしれませんね。
まぁ、しかし一応は義務教育段階で、特別の事情がない限り、すべての人が基本的な「公民」を学習しているのですから、そうしたことに関心を持てない、どこか他人事であるのは、教育の在り方の問題でもあるわけです。
だからこそ自戒の念を込めて、やはりきちんと自分で情報を集め、吟味し、その上で自分の意見を醸成する力を子ども達には身に付けてほしいと思う。
そのための機会や場の提供をやはり続ける必要性を強く感じます。
私の周りには、自分で情報の吟味をせずに、何となく声高にくり返される発言に傾いてしまう人が多いようです。
それは、子どもというよりは、大人に多いように感じます。
特に、声高にくり返される発言が大変耳障り良く、理想的で、ピースフルな内容であれば、やはりもっともらしく聞こえるし、正論というか正義のようでさえあります。
そもそも色んな立場があり得る、だからこそ「答え」の在りかを多くの人間が探っている問題に、そんな理想的な答えが示せる方がおかしいのかもしれない。
もちろんその理想は目指すべきものであったとしても、そうであれば、ひとまず現実的に何をどうすることからはじめようか、そんな議論をしていくべきでしょう。
「あれはダメ」「これもダメ」と批判のための批判ばかりでは意味がありませんし、もちろん一気に「理想郷」が創れるわけでもありません。
だから、そうした様々な立場や意見の存在を認め、なおかつより良い「答え」をまずは自分の中で、次に自分たちの中で見出していける、そんな人材が増えていくこと、私たち教育に携わる者が出来る仕事、するべき仕事って、究極はこれだと思うのです。
日本の周辺では現在進行形で何やら良からぬ事態がワラワラと進行しているようです。
悠長に身構えていることは、もはやできない事態なのかもしれません。
それでもやはり私たちが、いえ少なくとも私ができること。
すぐに、現実的にできること。
それは、目の前のことを「我が事」として学んでいくこと、そして、それらを子ども達とともにが学び直す場と機会を提供すること。
改めてそんな思いを持った週末でした。