やなせたかしさんが生んだ

アンパンマン

誰もが知る国民的ヒーローです



象徴的なシーンが

おなかを空かせて困っている人々の

ためにアンパンマンが自分の

顔をちぎって



「ぼくの顔をどうぞ」と

惜しげもなく差し出すシーン



あなたはこれを見てどう感じますか?




アンパンマンの顔をもらった人は

おなかが満たされて心も潤い

笑顔になります



アンパンマンは正義の味方なので

空腹の人や困っている人を助けるという

使命の元に生きています



顔をあげてしまうとアンパンマンの

力は減ってしまい

ヘロヘロになってしまいます



見方によると

自己犠牲ともとれるアンパンマンの

正義感



でもね、アンパンマンががんばれるのは

ジャムおじさんをはじめとする

パン工場のみんなが支えてくれるから

なんじゃないかな、って思うんです



どんなに残りの顔が少なくなっても

与える、助ける精神を貫けるのは


どんなピンチも乗りこえて

新しい顔を作って届けてくれる仲間の

ことを信じているからなんじゃないかな

って



顔を分けてもらう人(動物)たちも

見ている子供たちも

アンパンマンの顔は欠けたままでは

なくって


必ず「元気100倍!アンパンマン!」に

復活するって分かっている

からみんな安心して受け取れるし、

見ていられるんじゃないかな、って

思うんです



そう考えると

アンパンマンの仲間への信頼の気持ち


与えられる人々の

アンパンマンへの信頼の気持ち


見ている子供たちの

愛と正義が守る世界への信頼の気持ち




これらの信頼こそが

アンパンマンの優しい世界観の土台

私にはそう感じられるのです



そして

これって私たちの世界でも言えること

だと思うんですよね



自分が困った時に助けてくれる人がいる

どんな時も自分の味方してくれる人がいる

という他者への信頼感



何より自分のことを1番の味方、と思える

自分への信頼感



この信頼感を感じられる人の世界は

安心できる優しい世界です



この世界にいると失敗することや

挑戦することも怖くない



だって、どんな自分でも大丈夫なん

ですからね




逆に

自分が困った時に助けてくれる人はいない

誰も自分の味方してくれない

という他者への不信感



何より

自分で自分のことを責めてしまったり

信じられなかったり、自分が自分の

敵になってしまう



こんな他者や自分への不信感に

満ちた世界は安心感の薄い怖い世界



この世界にいるといつも何かに

怯えていなくてはならず

失敗が怖くて挑戦できない



自分でない何者かになろうとして

叶うはずのない理想を追いかけ続ける

辛い世界です



並べてみると極端に感じますが

実際はこの2つの世界の間くらいに 

いる人が大半なのではないでしょうか



でもね、自分さえ決めれば優しい世界

にお引越しできるんですよね



まずは

自分のことを認めて信じてあげること

です


自分のことが信じられれば自然と

他者のことも信じる力が育ちますからね



私も今、練習中なので

ピンときた方、一緒にやってみませんか?


​とはいえ、                              まんまるピカピカのアンパンマンを見ると安心するのは私だけでしょうか(笑)

家族のためにがんばるお母さんが

優しい世界を見せてあげることって

何よりも子供の心の栄養となりますからね



今日も最後までお読みくださり

ありがとうございますにっこり

少し前のことですが父の言葉に

衝撃を受けたことがありました



わが家の二人の子供のことを話して

いた時にこう言ったのです



二人とも同じようにしようと

したらあかんよ



これを聞いた時に私は衝撃を受けて

困惑しました



えっ!同じようにしないとダメでしょ?


兄弟は平等じゃないとダメでしょ?


って思ったんです




私自身が3人兄弟の一番上で

長女って損だな、とか

妹だけずるい!、弟だけずるい!

と感じた経験がたくさんあったので


自分の子供には平等でいたいという

ポリシーがありました



そして、自分の親だって本当はそう

思っていたけどその時々の状況で

平等にはできない状況があって



本当は平等にしたかったけど

親にしたら仕方なかったこと

だったんだろう、って感じていたんですね



長女の私にしたら辛かったし

理不尽に感じたこともあったけど


親は親で3人の子供を育てることに

精一杯だったんだろうな、と思うと

共感はできないけど理解はできる

という感覚でした



それなのに実際は親に

「仕方なく」という感覚はなく

そもそも平等にしようという思いは

もっていなかったんですよね



私の想像の上をいってる答え!

衝撃を受けたのはここだったんです



でもね

それを知ると理不尽に感じていた

不平等感が実は

親から私への信頼の気持ち

だったんだな、と妙に暖かく受け取る

こともできたんですよね





私たち3人兄弟の子供の頃のイメージは



真面目で努力家の私

不安定で手のかかる妹

お調子者で自分の好きなことをする弟


という感じでした




お察しいただけると思うのですが

兄弟の中で一番手がかからないのは

長子であることだけではなく

性質的にも私だったんです



だからといって子供だった私が

それに納得していたかというと

そんなことはもちろんなくて



自分は大切にされていない、と

淋しさや、悲しさや、悔しさを感じたり



思春期の頃には納得できず親に

抗議したこともありました



でも、そうしながらも

私はちゃんと進んできたし

乗り越えてこれたんですよね



簡単に、ほら大丈夫だったでしょ?

と言われると納得はできませんが

自分で乗り越える力を持っていた

いうのが事実です




親が見ていたのはこれで


これに対する信頼があったから

安心して手を引いて見ていられたんです

よね




そして

うちの親が一貫して

子供に信頼感を持って見守れるタイプか?

というと決してそんなことはないのです



妹に対しては才能を活かそうと躍起に

なったり、妹の代わりに進路を決めたり、

過干渉な親でした(これは主に母です)



弟に対しては末っ子の男の子というのも

あり、両親共にかわいがっていたし

でもどこか頼りなくて助けてあげないと

いけない存在として見ていたようにも

感じます



この距離感の違いを子供だった私は

「不平等」「不公平」だと捉えていた

のですよね




それぞれがタイプの違う私たち3人の

子供を親は 

同じようにしたらあかん

というポリシーのもと育てていた

という視点で見ると



私との間にあった距離感は

信頼という名の愛でしかないな

いのですよね



お金の掛け方や負担の仕方には不満は

ありますが、それもまたこの子なら

自分で払える、親が世話しなくても

大丈夫という信頼だったのかな、と

納得はしないけど理解はできます



もし

妹や弟のような距離感に縮められて

いたら、私はきっと窮屈に感じていた

だろうし、鬱陶しくも感じていただろう

とも冷静に見えてきました



子供から見ると

手の掛けられ方=愛情の大きさ

と捉えがちですが

子供一人一人の個性にあった

ちょうどよい距離感

というのがあって



その距離感を見誤ると

過干渉やネグレクトという極端な距離感

を作ってしまったり



そこまででなくても子供にとっては

心地いい距離感を逸脱した親との距離


近すぎても、遠すぎても不快なものであり

そこにお互いが依存心を生みやすく

なるのです



兄弟であっても中身は全く違う人間ですから

親との心地いい距離感というのはそれぞれ

違うんですよね


一人の子でも時期によっても変わって

くるものでもあります



そこを「同じように」しなければいけない

と感じるのは親にとってもプレッシャー

ですし、子供にとっても押し付けで

しかないのですし



そこに重きを置くことには

実は何も意味がないのです



大切なのは

この子との距離感はいまお互いにとって

心地よいものなのか?


という視点であり


その時々での距離感を調整して

見つけていくことだと思うのです



二人とも同じようにしようと

したらあかんよ



という

父の言葉はこういうことだったのです



兄弟を「平等にしなければ」と力が入り

すぎるとかえって子供との距離感を

狂わせてしまうことがあります



大切なのは

私たち親と子供がお互い心地よく

いられることなので、そこが感じられ

ないようならば距離感を見直してみる

タイミングかもしれません



近すぎないか、離れすぎていないか

というところを見ていくといいですね



同じようにしなくていい、違ってもいい

寧ろ違って当たり前なのですよ〜


わが家の兄弟          

4歳差、性別、性格全然違う2人です



今日も最後までお読みくださり

ありがとうございましたにっこり

お盆休みで部活が休みの

わが家の中2の娘、昨日は友達とプールに

出かけていました



前日から友達とやりとりして決定したのが

電車とバスを乗り継いで1時間くらい

かかるプールとのこと



「入場料はな、250円でめっちゃ安い

 ねんけど、交通費が2000円くらい

 かかるねん、ママいくら出してくれる?」


と言われましたが、

はっきり返事をしないまま

寝てしまいました



基本的にはお年玉が年間のお小遣い

代わりというわが家なので今回のように

ちょっと額の張る出費時は娘からカンパ

要請が入るんです




朝起きて慌ただしく準備している娘に

千円札を3枚重ねて渡しました



ありがとうございます!と

調子よく受け取った娘は3千円あることに

気づいてびっくりしたんです



その後の娘の言葉に笑っちゃいました



だって

目を見開いてびっくりして、慌てて


「ママ!いただけない!」


って言ったんですよ(笑)



娘は千円だと思っていたから3倍の金額

にびっくりしたよう



その後が娘らしいところで


「いいの?!ありがとう!」って


ちゃっかり受け取っちゃいました




5秒前の「いただけない」は何処へ?

という話なんですが、私はちゃんと

受け取ってもらえて

嬉しかったんですよね



「いただけない」は

おもしろくはあったけど


本当にいただいてもらえなかったら

私はちょっと淋しく感じたと

思うんです



肩透かしをくらったような

ガッカリ感もあったでしょう



この三千円は

「楽しんでおいでね〜」という

私から娘への愛情で

軽やかに出したお金なんです 


つまり、娘の笑顔を思い

気持ちよく出したお金です



なのでそれを遠慮して

受け取ってもらえないいうことは

私にとって残念なことなんですよね



気持ちよく出したお金は

笑顔で気持ちよく受け取って欲しい



そんな気持ちがあるのですからね



ちょっと逆説的にはなりますが


娘が驚きつつも受け取ることを

瞬時に選択したのは


私がプラスのエネルギーで渡したから

とも言えるのですよね



お金はエネルギーなんです



プラスの気持ちで出したものは

笑顔で受け取ってほしいもの


受け取ってもらえると

相手の中で感謝に変わり

自分の元へ暖かく戻ってきます



出した方も幸せ

受け取る方も幸せ


この2つの幸せが揃ってはじめて

循環が生まれます



予想外の金額のお金やプレゼントを

差し出された時



ちょっと重たく感じたり

申し訳ないと罪悪感を感じたり

受け取るのが怖くなったり



そんなふうに感じるなら

もしかしたら自分に受け取り許可

が出せていないのかもしれません



そして

これってお金だけでないんですよね


気持ちも受け取れていない、ことが

多いです



ありがたく受け取ること

受け取れること


これができるって

本当に尊いことなんです



相手のことも自分のことも

信じているからこそできることです

からね



私の渡した3千円は

夕方日焼けして赤くなった顔で

帰ってきた娘の笑顔になって戻って

きました




夏休みを満喫する娘にたくましさを

感じ、それもまた暖かさとして私の

心に暖かく残りました


暑さに負けないこのポーチュラカも

娘に負けずに逞しく咲いています



今日も最後までお読みくださり

ありがとうございましたにっこり