家族のつまづきを幸せに変えるシンプルな意識の使い方 -13ページ目
「お子さんの性格は?」って聞かれると
あなたはどう答えますか?
明るい子、おとなしい子、素直な子
蛾が強い子、優しい子、わがままな子
おもしろい子、神経質な子
色々あるのではないでしょうか。
でもその性格
実は人工的なものかもしれません。
私がそうやって斜めから見てしまうのは
私自身が子供の頃、自分の性格を
作っていたからです。
私が中学生の時、母と話していると
「いい性格してるね」って言われたんです。
内容ははっきり覚えていないのですが
「言っても仕方ないからこうしてみる」
ってスパッと判断した時だったと
思います。
当時の私はそれが嬉しかったんです。
「お母さんにいい性格って褒められた」
ってね。
そして、今思うと自分が何者なのか
どういう性格なのか、自分で分かろう
としていなかった私は、母が褒めてくれた
「さっぱりとしたいい性格の私」のことを
本当の私なんだと思い込んで演じるように
なったんです。
もちろん無意識でしたが
そう在ることを自分の存在価値と
結びつけたのだと思います。
もちろん、私の中には
粘度の高いネチネチした私や
ぐずぐずした私もいるわけで
(寧ろ本当はそういう子供だったんです)
そんな私が出てきたりもするのですが
「そんな私はダメな私」と否定的に
捉えていたし、母には隠さなきゃ、と
思っていたんですね。
本当はさっぱりしている私も
ネチネチした私も
本当の私で、どちらも共存していたのにね。
今思うと、母はその時感じたことを
軽く言葉にしただけで
「いい性格してるね」に深い意味は
なかったのだと思います。
でも、私にとっては
「お母さんに愛してもらえるお宝情報」
だったんですよね。
それが当時の私が心地よく、安心して
暮らすための必要な術だった。
子供ってお母さんが思っているよりも
ずっとお母さんのことが大好きで
愛してほしいと思ってるもの。
健気で愛おしいですよね。
大人になった私が感じるのは
性格なんてあってないようなものだな
ということ。
子供も大人もみんな色んな性質を
持ち備えていて、その時々で
色濃く出るものはあるかもしれないけど
それはほとんどが遊動的なもので
本質的なものなんて、ほんの一握り
なのではないでしょうか。
色んな私がいてもいいし
色んな私がいるのが自然なこと。
そこはいい、悪いでジャッジするところ
ではないし、その色んな私の組み合わせが
オンリーワンな個性を作っているのだと
思います。
子供の性格についてネガティブに感じられ
ている方は
「今、この子は何を守ろうとしているの
かな?」
という視点で見てみるといいですよ。
そこにお母さんの意識が影響しているの
であれば向き合うべきはお母さんの心
なのかもしれません。
カウンセリングを利用してみるのも
おすすめですよ〜。
子供も私も大丈夫。
人生には必要なことしか起きてませんからね。
今日も最後までお読みくださり
ありがとうございました
「明日は学校に行くよ」という子供。
それを聞いて
期待の気持ちが高まる一方で
期待が叶わず
絶望する場面も脳裏をよぎる。
朝になると
子供は起きてこなかったり
「やっぱり行けない」と重たい表情。
不登校の経験のある親子なら
容易に想像できる場面ではないでしょうか。
わが家でもよくある光景です。
こんな小4の息子を見てきてしばらくは
「何とかしてあげたいな」と思っていました。
明るく元気に起こしてみたり
自分で起きてくるのを待ってみたり
「この日なら送っていけるよ」と
言ってみたり
時には強引に行かそうとしてみたり。
色んな作戦を使って「何とかしよう」と
してみたしたが、どうにもなりません
でした。
息子は息子の思ったようにしかしないし
自分のペースでしか動かない。
そう悟って、「何とかすること」を
諦めようと頭では思うのに気づけば
「今日は行けるんじゃないか」と
期待してしまっている。
そんな自分に嫌気が刺しちゃうことも。
期待する気持ちって喜びやワクワクを
伴う幸せな気持ちです。
物事がうまく進むイメージですからね。
その分、期待が叶わなかった時の
気持ちって残酷。
幸せからの落胆って高低差が激しすぎます。
それが自分のことならまだいいんです。
期待も落胆も自分に対する気持ち
なので、次どうしていくかも自分で
決めていけます。
これが子供のこととなると残酷さは
増します。
期待してしまった自分や
期待を叶えてくれなかった子供を
責める気持ちが出てきますからね。
そして、子供のことを責める自分のことを
また責めるという、責めるの無限ループ
が完成します。
結論からいうと「期待しないのが一番」。
例えば子供の「明日は学校に行く」という
言葉に期待する気持ちが湧いた時
子供の事実だけを見るのです。
この場合だと
こと今は明日学校に行こうと思っている、
もしくは行かないといけないと思っている。
これが事実です。
それが現実になるかもしれないと
期待しているのは私の気持ち。
そこもまた
「こういう期待する気持ちが私の中に
あるんだな」
って事実を見て寄り添ってあげるんです。
そりゃあ、期待しちゃうよね。
何もなかったようにまた学校に
行きはじめるかもしれない、って
思っちゃってるよね。
そうやって寄り添ってあげる。
期待する気持ちが叶うかどうかは
分からないけど、湧いてきたその気持ちに
寄り添うことはできるのです。
期待してしまうことを
悪とするのではなく
期待してしまう自分をそのまんま
自分が受け止めてくれると
心がゆるまり、少しの余裕が生まれます。
この少しの余裕を少しずつ広げていくと
子供の選択もジャッジすることなく
フラットに受け取れるようになってきます。
そして
お母さんのその意識は必ず子供にも
伝わります。
不登校になる子は人の気持ちに敏感で
優しい子が多いので
学校に行けない自分を責める気持ち
お母さんの期待に応えられない申し訳
なさ、を人一倍感じやすいですよね。
そんな子供にとって
お母さんがジャッジすることなく
まるっと受け取ってくれるというのは
何よりの安心です。
不登校という時間は止まっているように
感じられますが、本当は心を育てる時間。
どんな自分でもいいんだ
受け止めてくれる居場所がある
その安心感が
子供が立ち上がり、一歩を踏み出す
力を育んでくれるのです。
そのためには
まずお母さんが自分に寄り添い
どんな自分も責めずに受け入れること。
それがそのまま子供に寄り添い
見守る力になりますからね。
期待しちゃうよね、でも大丈夫
そうやって自分を受け入れることが
子供を受け入れる第一歩です。
焦らず、ゆっくりで大丈夫ですからね。
今日も最後までお読みくださり
ありがとうございました
突然ですが
「子供に寄り添う」のは得意ですか?
私はすごく苦手でした。
落ち込んでいる子供を見てると
「元気出してあげなきゃ」とか
「こうやったらいいよ」ってアドバイス
しちゃったり。
もちろん
愛情からの行動ではあったけど
「なんとかしなきゃ」という気持ちが
前に出すぎて
今思うと
子供の気持ちを置いてきぼりにしてしまう
ことが多かったのです。
でもね、心のことを学んでいくと
「寄り添う」って相手の気持ちを理解
することではないって気づいたんです。
「寄り添う」とは
「相手の世界を否定せずに
ただそばにいること」なんだなって。
先日あった中学校の体育会でのこと。
娘は100mリレーの第2走者でした。
3位でバトンを受け取ってから
2位との距離を縮めていきました。
「抜ける!」と思ったその瞬間
足が滑って娘は転倒。
素早く立ち上がって
すぐに走り始め最下位でバトンを渡し
5チーム中4位でゴールしました。
夕方帰ってきた娘は笑ってはいたけど
めちゃくちゃ悔しがっていました。
「抜けると思ったのに、悔しい!」
「もう一回やり直したい」
「あそこの地面ちょっと掘れててんで!
他にもあそこで転けてた人いたもん!
あの人と話したいわ〜」
「でも、立つの早かったやろ?転んだの
気づいてない人もいたもん」
こんな感じのことを次々に口にする娘。
私は否定することなく
「うん、うん」って ただ側で聞いて
いました。
アドバイスも慰めもいらない。
ただ娘の世界観をそのまま受け取る。
これが「寄り添う」ということ。
娘は思う存分言いたいことを
言い切った後にこう言いました。
「走るの好きになってきたかも!
来年は絶対早く走る!」ってね。
娘が悔しさや無念な気持ちを感じ切り
自力で立ち直る姿に静かな感動と
愛おしさを感じました。
温かい気持ちになりました。
「寄り添う」って大したことは何もしない
シンプルな見守り方だけど
子供の自分で立ち上がる力を引き出す
とても深い愛の形です。
アドバイスや叱咤激励からはこの力は
引き出せないですからね。
ただ、そこには
「この子は大丈夫」という信頼の気持ちが
必要です。
私たち親にできるのは
ただ信じて、そばにいること。
その静かな関わりの中で
子供はちゃんと自分の力で立ち上がって
いきます。
それが「寄り添う」ということなのかも
しれません。
今日も最後までお読みくださり
ありがとうございます

