一度くらい、女性から「冗談なんかじゃないからネ」と、言われてみたいと、中ちゃんの唄を聴きながら不埒なことを考えている。しかし、女性からこういうことを言われると、普通の家庭もちならやばいと考えたほうがいいに決まっている。

『冗談なんかじゃないからネ』は女性の気持ちを歌にしている。相手の男は、女性の気持ちもわからない鈍感な奴なのだろうか。彼がなにを考えていたのか、もの凄く興味がある……


 彼女は職場の同僚で、友人だと常に自分に言い聞かせていた。まるで幼馴染のように息のあう相手だった。お互い冗談を飛ばし、時に励ましあい、時に慰めあった。軽く罵りあうこともあった。メールアドレスを交換して、頻繁にメールのやり取りをしていた。きわどい内容のメールではない。他愛もないことがほとんどだった。彼女の愚痴を聞き、彼女に愚痴をこぼす。
 しかしある日、妻にも話したことがないようなことを、彼女には話している自分に気づき、戸惑いを覚えた。
 きっかけは、幸運な偶然がいくつか重なったことだ。
 二人で外に出る機会があり、しかも自由な時間を持てた。
 プラネタリウムに行きたいと言い出したのは彼女だった。
 驚いたが、彼女につきあうことにした。
 人工の星空を眺めながら、突然彼女は高校時代の辛い恋愛体験を話しはじめた。
「あなたに聞いて欲しいの」
 と、彼女は言った。
 そう言われれば聞くしかなかった。
 彼女から聞かされた話は、もちろん誰に話さなかった。それが約束だった。彼女はその話を夫にも話したことがないと言った。
 プラネタリウムも含めて、彼女とは三度デートをした。あと二回のデートは休日だった。休日に家族サービスもせずに出かけるのだ。妻には嘘をついた。彼女の場合も同じようなものだろうと思った。二度目は映画を見に行き、三度目は動物園に行った。
 三度目のデートのとき、何となく夕食も食べていこうということになった。
 食事が終わると彼女は飲みに行きたいと言った。
「おれが飲めないことをしってるだろう」
「いいじゃない、行こうよ」
 付き合うしかなかった。
 結局、午後十時を過ぎてしまった。それでも彼女は帰ると言わなかった。彼女は相当飲んでいた。公園に行った。若いアベックたちに占領されていないベンチに座った。座るのと同時に彼女はもたれかかってきた。
「帰らない」
 と、彼女は小さな声で言った。
 黙っていたのは、どうしていいのかわからなかったからだ。彼女はしっかりと腕をつかんでいた。絶対にこの腕は放さない。そう言われているみたいだった。
 沈黙していたのは、多分、一分もなかったはずだ。そのわずかな時間が長いと感じた。自分がありふれた男に思えた。急におかしくなってきた。気がつくと笑っていた。
「それを期待していたんだ」
 口調が場違いに明るかったのは、意識してのことだった。
 彼女はちょっと驚いたような顔をした。
 ほんの一瞬、彼女の顔に、悲しみのような表情が浮んだ。気がつかなくてもよかったのだ。
「冗談だろう」
 彼女の顔を過ぎったあの表情――あれは見なかったことにしよう。
 彼女も笑って見せた。その笑顔はぎこちなかった。
「冗談よ、冗談に決まってる」
 その後も彼女との関係は変わらずに続いた。しかし、四度目のデートはなかった。半年後、彼女は退職した。理由は訊かなかった。その後、メールのやり取りもなくなった。
 彼女と偶然街で再会したのは、一年後のことだった。彼女はひとりだった。
「元気だったか」
「うん……」
「なあ、訊いてもいいか」
「何よ」
「あれは冗談だったんだろう」
 彼女はすぐに答えなかった。問い掛けの意味がわからないのかと思った。一年前の公園での出来事について訊ねているのだ。別に答えなくてもよかった。
 彼女は微笑を浮かべた。
「冗談なんかじゃなかったわ」
 曖昧に笑うことしかできなかった。
「嘘よ」
 と、彼女はすぐに言った。
「安心して、全て冗談なんだから。じゃあね」
 去って行く彼女を見つめていたのは、もしかしたら振り向いてくれるかもしれないと思ったからだ。
 彼女はついに振り向かなかった。


 これは、もちろん実体験ではない。絶対に実体験ではない。第一、こんな体験をするやつはいね~よ。知り合いの体験で、しかも後半部は作っている。いや、三分の二くらいはつくってるかな……。

 幸か不幸か、こういう体験はぼくにはない。

 誰がなんと言おうとフラメンコギターだった。是が非でもフラメンコギターだった。


 たとえばフラメンコが好きかと聞かれれば、必ずしもそうではない。フラメンコギターが欲しかったのは、憧れの人、長谷川きよし、パコ・デ・ルシア等々がフラメンコギターを使っていたからだ。それに、あの乾いた音は大好きだった。今でも好きだ。重厚さよりも軽快さが好きなのだ。良い悪いの問題ではなく、好みの問題である。


 で、フラメンコ……フラメンコねえ。嫌いではない。だが、心中したいというほど好きではない。自由奔放の代名詞のようなフラメンコだが、あれは結構制約の多い音楽なのだ。フラメンコを特徴づけているのはコンパスという独自のリズムだ。この種のことは、インターネットにいくらでも落ちている情報なので、ここでは書かない。とにかくコンパスから外れたものは、フラメンコではなく、逆にコンパスにはまっていれば、なにをどうしようがフラメンコということになる。


 ちょっとばかり格好をつけて言えば、


「俺はフラメンコが好きなわけじゃねえ、パコ・デ・ルシアが好きなのさ」


 と、いうことになる。


 ギタリストというのなら、好きな人はいっぱいいる。たとえば、ウェス・モンゴメリー、ロバート・ジョンソン、マニタス・デ・プラタ、山下和仁、リッチー・ブラックモア、ジミー・ペイジ、サンタナ、タック・アンドレス、チェット・アトキンス、BB・キング、エリック・クラプトン、ジョニー・ウインター、デュアン・オールマン、ジャンゴ・ラインハルト、イングヴェイ・マルムスティーン……まだまだいるが、ここらあたりでやめます(笑)。


 しかし、全ジャンルを含めてもっとも好きなギタリストは? と訊かれれば――難しいが、


「はい、バーデン・パウエルです」


 ブラジルのギタリスト。ジャンル的にはサンバ・ボサノバといったところだろうが、厳密に言えば、これはバーデン・パウエルの音楽だ。その演奏は、誰かが音の洪水と評していたが、本当にそんな感じがする。凄まじいの一語に尽きる。


 これはぼくだけの印象だと思ってください。パコ・デ・ルシアの演奏はたとえていえば《鉈》だ。バーデン・パウエルは《剃刀》だと思っている。剃刀の刃を渡るような演奏をする。狂気を感じさせるという言葉があるが、確かにそういう感じの演奏である。若い頃のバーデンは、映像を見ていると確かにやばそうな男である。天才なのだろう。絶対に友達にはなりたくないが、演奏を聴いている分には最高だと思う。


 動くバーデン・パウエルを見たい方はこちらをどうぞ。凄いですよ(笑)。


 若き日のバーデン・パウエル

9c6db7cc.jpg  中ちゃんが岩崎宏美さんと一緒に歌った『友達の詩』が、実は最初に聞いた『友達の詩』だった。だめだねえ、これ……。

「笑われて馬鹿にされて……」

 あのくだりになると、うるっときてしまう。いい年をしてなんてことだと思いつつ、こればかりは仕方がない。歳のせいで涙腺がゆるくなっているわけでは決してない。自分はどちらかといえば、捻くれた方で(あ、ごめん信じないでください)、ちょっとやそっとのことじゃ泣かないね。世の中を斜に見てますから。そんなぼくでも、あのくだりはちょっとやばいです。もう色々なことを想像させられる。

 思えばありふれた言葉の羅列なのだ。生きていれば誰にだって「笑われる」ことも「馬鹿にされる」こともある。そういうことに鈍感になっていくこと、あるいは鈍感になったふりをすることが、歳をとるということかもしれない。

 これは関川夏央さんが書いていたことだが、誰かを指してあの人は少年の心を持っているということがあるが、分厚い面の皮を剥ぎ取れば誰だって少年の心くらい持っている――この通りではないが、そんなことをエッセイで書いていた。そのとおりだと思う。

『友達の詩』という曲には胸の奥底にある少年――あるいは少女――の心に訴えかけ、揺さぶる力がある。そして、この曲のもうひとつの、なんて言おうか……そうだねえ、やっぱり「凄み」かな……とにかくそれは、中村中という存在を知ったとき、もう一度より深い衝撃を与える、いってみれば二重の構造になっているということだ。中ちゃんに企みがあったとは、もちろん思っていない。十五歳の中ちゃんが、胸の奥に秘めておくことがどうしてもできなかった思いを歌にしたのだろう。これだけはどうしても伝えたいという強い思いがあるとき、技術をこえて人に感動を与えるものらしい。

 やっぱり心が大切なんだな。ものを造ろうという人間は、それこそ必死必殺の思いで(ちょっとオーバーか)何かを伝えようと思わなければいけない。そういう気持ちがなければ、結局薄っぺらなものしかできない。小手先の技術でその場を繕っても、どこかでばれてしまうものなのだ。見透かされてしまうものなのだ。きっとそうだ。

 だから、別の曲――たとえば『駆け足の生き様』で中ちゃんが「いつか私の思い天までとどけ」と歌うとき、彼女の思いが天までとどいて欲しいと思う。同時に、自分の思いも天までとどいて欲しい、そんなふうに思う。聞き手にそういう感情を持たせるのは、中ちゃんの紡ぎだす言葉に力があるということだ。少なくともぼくに対しては力を持っている。並みの才能ではないということはもちろんある。が、それ以上に、何が何でもこれだけは伝えたいという熱い思いに支えられて書いた言葉であり曲だからこそ、こっちもついつい熱くなる。架空のお話でも、その核に真実の思いがあれば、それはひとつの現実になるんだという気がする。本人が真剣にこれは本当のことだと思うとき、聞き手(あるいは読み手でもかまわない)にとってもそれは本物の重みを持つ。きっとそうだよ。

 話を『友達の詩』にもどそう。これも関川夏央さんが書かれていたことだが、優れた物語には、これは自分のために書かれた物語だと思わせる力があるという。優れた物語というところを、優れた曲に置き換えてもこれは成立する言葉だと思う。

 友達の詩……

 これはぼくのために書かれた曲だ。間違いない(#^.^#)。