中村中ちゃんが「さよなら十代、もう戻れないさ」と歌っている。
 ぼくが十代にさよならをしたのは、もうずいぶん昔のことである。黒澤明の三十郎シリーズに「椿三十郎、いやもうそろそろ四十郎ですが」と苦く笑う場面、あれが本格的に身にしみる年齢になってきました。気分だけはまだ十代、とはいわないが二十代なんだけどねえ。


 それはさておき、中ちゃんの唄を聴いていると、ずいぶん懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。メロディが歌謡曲的で昭和の匂いを持っているからぼくのようなおじさんの胸に響く――と、いうことはもちろんあるだろうが、それだけでないように思う。メロディ、歌詞、歌唱力、それを表現するご本人の佇まい。そういったものが混然となって、ぼくの気分を懐かしい方へ止め処もなく傾斜させていく。よし、いつかじっくりと考えてみよう。


 十代の頃にあこがれた生きかたがある。現実的な意味では、ぼくは公務員になりたかった《なれなかったけど……(笑)》。
 しかし、それとは別に夢想していた生きかたがある。
 そうありたいという願望、もしくは象徴として――


『イージーライダー』
『木枯し紋次郎』
『赤い鳥逃げた』に登場する三人組。
『傷だらけの天使』の二人組み。
『新宿アウトロー、暴走集団71』の面々。
『フーテン(今度映画化される『黄色い涙』の作者永島慎二さんの作品です。名作ですよ)』


 アハハハハハ……馬鹿だねえ。
 でも、かなり真剣に考えていたんですよ。いや、ほんと。
「ああ、彼らのような生きかたができればなあ」
 と、紅顔の美少年(主観的幻想の中で)が、朝が訪れる寸前の青く澄んだ空気を眺めながら、漠然と考えていたのは事実だ。
 中でも『フーテン』に登場するサングラスのインテリフーテンには、かなり相当、憧れを持っていた。きっとインテリじゃなかったし、この先なれそうもないとわかっていたからだと思う。


 考えてみると、憧れたのは現実的もしくは精神的に家庭や故郷を捨てて放浪する連中ばかりである。
 ここではない何処かへの渇望――いえいえ、とんでもございません。そんな詩的な思いからでは、多分、なかっただろう。絶対になかったな(ーー;)。
 全てを捨てて放浪するという生き方に憧れるというのは、たとえば戦前の少年が大陸に渡って馬賊になることに憧れるというような、冒険精神の所産ではない。勉強とか校則とか、そういった重苦しい現実の重圧にうんざりしていたからだと思う。正しく現実逃避だったのだ。
 つまり、中ちゃんが歌っているような「握った拳を震わせながら、血を握ったことなど」一度もないような、のんべんだらりとしたぼくだったわけである。
「いつか夢見たあの日のぼく」は、もちろん明日の自分ではない。そんなことはわかっていた。
 憧れた生きかたが、幻想でしかないこと、もしくは物語の中だけでしか成立しない生き方であることは、どんな子供にだってわかる。幻想とはいえこんな生き方に憧れるくせに、まだしも現実的に可能性があるミュージシャンとかタレントとか漫画家とか作家とか、はたまたスポーツ選手とか、そういったものはなぜか最初から無理だろうと諦めていた。


 だからかな、『さよなら十代』がちょいと胸に来るのは。

 特に野心があるわけではないが、いわゆる小説作法の類、それからシナリオの書き方的な本はかなり読んだと思う。この手の本はたぶん「いつかぼくも(あるいはわたしも)小説のひとつも書いてやる」とか「もの凄いシナリオをものして、テレビドラマの世界を席巻してやるぜ(あるいは席巻してやるわ)」と思う人が読むものだと思う。

 しかし、そういう野心がない人――小説もシナリオもこりゃ最初から読むもの(もしくはドラマになったものを見るもの)と割り切っている人でも、読んでそんにはならない(と、思いますがどんなものでしょう)。あれは読み物として結構面白い。嘘だと思うなら、騙されたと思って、さあどうぞどうぞ――。

 筒井康隆さんの『乱調文学大辞典』と一緒になっている『あなたも流行作家になれる』なんか本当に面白い。あのとおりにしたからといって、とても流行作家になれるとは思えないが――なれる人もいるかもしれないが、そういった人はたぶんそんなものを読まなくても最初からなれる人だという気がするのだが、とにかく面白かった。たしか筒井康隆さんは、ポプラ社から出した「SF入門」という本でも小説執筆の勧めみたいなことを書いていた。子供向けの本だがこれも面白い。

 誰のエッセイだったか忘れたが、そもそもこの種の『××すると△△になれる』的な本の著者に、超一流の人はいないと書いていたのを読んだことがある。筒井康隆さんも同じことを書いていた。流行作家にいま一歩及ばず(書いた当時)、嗚呼あのときああしておけば一流になれたものをと後悔の臍の緒を噛み切っているからこそ書ける――と、そう書いていた。「後悔の臍の緒云々――」という言い回しは、時々使わせていただいております(笑)。どうです、役に立つでしょう《役にたたねえー(-_-;)》。

 しかし、S・キングも小説作法の類を最近出したから、必ずしも超一流はこの手の本を書かないという方程式はあてはまらないようにも思う。それとも時代は変わったのか。

 ディーン・R・クーンツはその名も「ベストセラー小説の書き方」という本を出している。しかし、読んでみてもこれでベストセラー小説がかけるとは思えなかった。いや、そもそもこれを読んだからといって小説がかけるとすら思えなかった。が、これも読み物としては面白い。文体について語るとき、「マチルダおばさん」を引き合いに出した喩えは、説得力はないが、この人なにを思ってこんなことを書いたんだろう的な面白さはあった。それは、確かにあった。

 都筑道夫さんの本では、かなり残酷に言い切っている。面白い話がかけないと思う人は書けない――と。つまり小説を書くというか、面白い話を作るのは、九割がた才能で努力や練習でどうにかなるものではないというのである。いくらサッカーが好きで努力しても、ロナウジーニョになれないのと同じことだ。いささかみもふたもないが、いっそこのくらいはっきり言ってもらったほうが、さっぱりしていいかもしれない。しかし、どうだろ。ロナウジーニョにはなれそうもないが文章を書くことならできそうな気もする。都筑さんは面白い話がつくれないと思う人は――というような言い方をしていた。つまり自分はつくれると思えばいいわけである。するとこれは思い込みということだ。思い込みなら自己暗示という手もあるぞ。イメージトレーニングでもすればうまく行くかもしれない。

 いくつか読んでみてわかったことがある。皆言っていることが違うということだ。人の数だけ、小説の書き方があるということがわかった。これだけでも立派なものだと思う。それでいてとどのつまり、皆究極の一点にたどり着く。

 たくさん読んで、たくさん書く。

 結局はここにたどり着くのだ。これしかない。つまり小説の書き方というのは、そもそも教えようのないものらしい。言われみれば、そのとおりだという気もする。顔がちがうように個性がちがう。Aにとって最高の方法は、Bにとっての最悪の方法かもしれない。ある人はとにかく構成をしっかり立てろという。S・キングはそんなものはいらないという。本当にそう書いている。思いつくまま気の向くまま、筆を進めればいいというのである。これは必ずしも、小説作法の類ではないが、パソコンのよさは思いつたところから書けることだと書いていた人がいた。構成をしっかりと書いていた人は、確実にS・キングよりも売れていないから、S・キングのいっていることが正しい――と、ならないところがややこしいところだ。

 そうだS・キングはこんなことも書いていた。

『第一稿―10%=第二稿』

 つまり、初稿から10%削除したものが第二稿になると。そうなんですか? 誰か小説を書いている人がいたら教えてください(笑)。

 ぼくは本質的に作家は嘘つきだと思うから、書いていることをそのまま真に受けることはないと思っている。しかし、小説の書き方だって、小説の一形態《強引な持って行きかただね、どうも(^_^;)》だと思えば、純粋に読み物として楽しめる。

 小説は、言ってみれば究極の私的作業みたいなところがある。いってしまえばどれもこれも私小説だ。芸術表現といえども人間行為の一種なら、それぞれの癖があって当たり前だ。だからこそ面白いのだ。どれもこれも同じなら、ちっとも面白くない。芸術作品は、規格品でないから高い金を出してでも買おうという気になる。
 身長が177センチで体重が58キロだった彼を知っている。過去形で書いているのは、それが二十歳前後の彼のことだからだ。女友達の一人は彼の細い脚を見て、ルパン三世の脚と言ったが、それも今は昔の物語だ。それから二十年以上が過ぎた。身長はまだ177センチを保っているが、体重はめでたく88キロになった。しかも、さらに増加傾向にある。いったいなんなんだ。二十代の頃に知り合って遂に結婚した嫁さんは、

「詐欺にあったようなものだわ」

 と、言っているらしい。確かに詐欺だな。

「そろそろ目覚めてわたしの中のいい女」と中ちゃんは歌ってくれるが、この情けない彼の変貌ぶりは、「さっさと引っ込め、おいらに重なるダサい奴」と声を限りに歌いくなってくる。

 これはまったくの偏見だと思って聞いてください。歳を取り、ひたすら情けない方へ変わっていく傾向は、女性よりも男性のほうが多いように思う。と、いうか物語などでは、しばらく見ないうちに綺麗になった女性がよく登場するが、しばらく見ないうちに落ちぶれた男は登場しても、かっこよくなった男というのはあまり登場しないように思う。ぼくが偏見を持つにいたった理由は、そんなところにあるのかもしれない。笹沢左保さんの作品に「落日に男は生きた」という作品があった。なんとなくダサい中年男がかっこよくなる話のような気もするが、読んだことがないのでわからない。
センター  実体験もある。高校時代、身長はそこそこあるがどうにもぱっとしない女の子がいた。顔色が悪く、何となく暗く、笑顔が――どうにも不気味なんだよねえ。それが高校を卒業して何年かしてばったりあったら、唖然とするほど綺麗になっていた。こんな美人が身近にいたのかと、なにやら狐につままれたような気がしたのを覚えている。

 男性が美しく変貌する物語がないわけではない。少なくともひとつは知っている。原作狩撫麻礼、画かわぐちかいじの『ハード&ルーズ』というマンガに、そういう話があったと思う。とある女性が高校生の頃の家庭教師を探してくれと主人公の探偵に依頼する。不良女子高校生だったころ、臭くてダサい大学生の家庭教師にお情けでやらせてやった。その男を探し出してほしいというのである。探偵は元家庭教師を探し出す。そして、彼女を連れて行く。彼女は愕然とする。臭くてダサかった元家庭教師は、知性的な美男子になっていたのだ。男の立場からすると、かなり小気味よい物語で、おれも努力次第ではひょっとして――と、希望を持たせてくれる話だった。

「いい女」「いい男」の定義が何であるかは難しい。人は必ずしも美男や美女を好きになるわけではない。容貌は普通でも、知性にほれ込む場合もあるだろう。心意気が好きになることもあるかもしれない。顔が悪くて、スタイルが悪くても、魅力的な俳優さんはいくらでもいる。才能が人間を輝かせることもある。人間の魅力が一筋縄でいかないものなら、個性を磨くことが、あるいは「いい女」「いい男」への道かもしれない。何事にも努力がいる。

 よし、ぼくも明日から中ちゃんの『私の中の「いい女」』のメロディに乗せて――

『とにかく出て来い、おいらの中の「凄い奴」』

 と、歌いながら努力しよう。決めた。