つくづく、唄というのは歌う人によってその印象が変わってくるものだと思う。松山千春の『恋』という唄を、実は、あまり好きではなかった。唄にもよるが、男性が女性言葉で歌うという行為自体に違和感がある。これも歌い手による部分が大きくて、すんなりと入ってくる歌手もいるし、どうしても抵抗感を覚えてしまう歌手もいて、必ずしも絶対普遍的にそうだというわけではない(身勝手だね、どうも)――のだが、ぼく的一般論から言うと、なにかこう男の望む女性像を、女性に押し付けているような気がする。別に女の人に阿ってこんなことを書いているわけじゃないですよ(笑)。とにかく、無茶な男の仕打ちに耐えたり、でたらめな男の生活を支えながら、涙を堪えてセーターを編む――全て男の身勝手な願望のような気がする。この種の唄は、だいたい演歌系の唄に多い。

 で、『恋』である。この唄をあまり好きではないという背景には、そういう気分がある。

 ぼくが中村中を最初に知ったのは、『汚れた下着』だったことは、以前ブログで書いたとおりである。しかし、強くその存在を印象付けられたのは、『恋』を歌っている姿を見たことだった。ぼくはネット上でその映像を見た。

 その前に、あのドラマがあった。そういったドラマが放送されることは知っていた。実はぼくはあのドラマを見ていない。余談だが、『ボーイズドントクライ』という映画があった。アカデミー賞をとった映画だがぼくは見ていない。見ることが耐えられないような気がするから見ないようにしている。中ちゃんが出たあのドラマは、同じテーマを扱っていた。見なかった理由は色々あるが、見ることが耐えられないだろうという不安から見なかったのではなかった。ただ出演者の中に中村中という名前を見て、『汚れた下着』の歌手を思い出したという次第だ。一度見たら忘れられない名前ですからねえ(笑)。で、ネットで色々と調べて、『恋』にたどり着いた。

「凄み」という言葉はもちろん昔からあるが、効果的に使ったのは村松友視さんだったと思う。プロレス関係の著作の中で、この言葉を効果的に使っていた。

『恋』を歌っている中ちゃんには、その凄みを感じました。大げさにいえば、存在そのものをかけて歌っているような印象を受けた。『恋』はいい加減な恋人を待ち続けることに疲れた女性の唄だ。そういう意味で言えば、歌謡曲としてありがちな内容を持っている。しかし、中ちゃんがあの唄を歌うと、あたかもあの唄の当事者の女性が歌っているような、そんな印象を受ける。ありがちな内容でも、事の当事者が歌うとなると話は別だ。まだ二十一歳の中ちゃんが『恋』に歌われているような経験をしたとは思えないが、そういう気分にさせる何かはあっただろう。そういう意味で言えば、中ちゃんは『恋』を経験しているといえるかもしれない。二十一歳という実際の年齢よりも精神年齢は上なのだろう。そんな気がする。

 作家の勝目梓という人が最近出版した自伝的小説の中で、「情念」をキーワードに物語を描いてみようと思ったと書いている。中ちゃんにはその「情念」を強く感じる。言ってしまえば「情念」などというのは古臭い言葉かもしれない。言葉は古臭くても、これこそ普遍の概念だという気もしている。結局、人を動かすのはこの「情念」だという気がするからだ。

『恋』を聞いた後、岩崎宏美さんとデュエットした『友達の詩』を聴いた。
 頭から不穏当なタイトルですみませんm(__)m

 しかし、昨今の異常気象を体感するにつけ、本当に人類は大丈夫なのだろうかと不安になってくる。ぼくたちが危機的状況だと感じる以上に、状況は危機的なのだろう。気分的には、不安が半分、諦めが半分といったところでしょうか。こんなことじゃいけないとは思うんだけど、どうも世界は人の善意では動きそうもない気配だし……どうなんでしょうね。とにかく、状況が危機(それも半端じゃない危機に)に瀕しているのは事実だと思う。

 ただし、ぼく地球の危機だとはぜんぜん思っていない。あくまでも人類の危機だ。だから、タイトルの『世界の終わり……』と、いうのはやや奇を衒った感がある。皆さんもよくご存知の『ジュラシックパーク』という映画の原作になった小説がある。まあ、小説のタイトルも『ジュラシックパーク』なんだけど……(^_^;)その中に、示唆に富む言葉があった。いま、手元にその小説がないから正確に書くことはできないが、次のような内容だった。

 人類が滅びるからといって地球が滅びるわけではない。たとえばオゾン層である。オゾン層が破壊されると有害な紫外線が降り注ぐという。それによって人類や他の多くの動植物は滅びるかもしれない。しかし、紫外線は生物に突然変異をもたらし、新しい環境に適応した生物が生まれる。いい例が酸素である。酸素は有害なガスなのだ。植物が光合成をはじめ、酸素を出しはじめたとき、生命にとっては危機だった。植物は毒ガスで地球の大気を満たしてしまったのだ。で、生物は滅びたか? 滅びてなんかいません。いま、こうして酸素をすって生きてます。

 つまり、人類にとっての危機が必ずしも地球にとっての危機ではないということだ。『ジュラシックパーク』の著者マイケル・クライトンは人類には地球を滅ぼす力などないと言っている。そのとおりだと思う。地球は人類の世話など受けなくとも十分やっていける。地球は人類が滅びたところで気づきもしない。人類が考えるよりもはるかに長いときをかけて地球は呼吸をしている。この言葉――長いときをかけて云々――も、『ジュラシックパーク』の中にあったはずだ。

 恐竜は一億五千万年地球を支配したが、どうなったかは言うまでもない。先が見えないという点で、人類と恐竜にさほどの違いはないと言ったのは、あの頃の平井和正だ。人類が滅びればまた別の生物が地球の支配者になるだけのことなのだ。だから人類は心置きなく自分たちを滅ぼしてもかまわないということになる。母なる地球は何の痛痒も感じないのだから。人類はもっともっと謙虚になるべきなのだと思う。自分たちの力が及ばないものが、絶対に存在するということを、強烈に意識するべきだ。ぼくはそう思っている。

 人類の最後を描いた小説は数限りなくある。ぼくが読んだのはその中のほんの一部だ。その中で印象に残っている作品は、

『復活の日』

『結晶世界』

『親殺し』

 この三つだ。『復活の日』は角川映画のほうではありません。原作である小松左京さんの小説のほう。内容はくだくだ書かないが、映画とはずいぶんちがうということだけは書いておきます。この小説の最後の言葉が泣かせる―― 絶滅寸前まで追い詰められ、奇跡的に生き延びた人類に警鐘を鳴らす言葉が出てくる。これは名文だ。乱暴な言い方をすると、小説は読まなくても、この文章を読むだけでも価値がある。文章の最後はこう締めくくられている。

『北への道ははるかに遠く、復活の日はさらに遠い。そしてその日の物語は、我々の物語ではないだろう』

 と、こんな感じだった(ちょっと違うかな)。多少ちがうかもしれないが、まあだいたい……どうです? 泣かせるでしょう。あの映画の最後に、せめてあの言葉をまるまる使ってほしかったですなあ。

『結晶世界』はJ・Gバラードの傑作終末小説。世界が光り輝く宝石になって滅びていくというなんともシュールなお話である。これも傑作です。

 そして、最後に『親殺し』――これは平井和正氏の短編である。人類があらたな地球の支配者となる新人類に滅ばされていく様を、ひとりの男の視点から描いている。美徳も欠点も持ち合わせたごく普通の男が、人類の臨終に望んで何を思い、何を語ったのか。独白と会話で構成されたこの小説は凄いです。内容的に「……?」という点もないではないが、そんなものは本当にちっぽけな疵だ。この頃、平井和正氏は猛烈に人類糾弾小説を書いていて、その勢いが余ってしまったのだろうと思う。いずれにしても、そんなちっぽけな欠点をこえて、この小説は傑作だと思う。

 ここに上げた三つの小説は多分まだ読めると思う。『親殺し』は微妙かもしれないが、もし、どこかで見かけることがあれば、立ち読みでもいいから読んでみて下さい。

 そうだ! マイケル・クライトンはこうも言っている。人類には地球を滅ぼす力も、地球を救う力もないが、自分を救うくらいの力はあるかもしれないと……。