以前住んでいたアパートの近くに、空地があった。

 ゆるくカーブを描いている坂道を登っていくと、その空地は現れる。丈の高い雑草で覆われたかなり広い土地で、周囲はフェンスで囲われていた。住宅地の中にあり、昼間ならどうということのない場所だ。

 しかし、その空地には妙な噂があった。夜になると、雑草の中から、何かが現れるというのである。いったい何が現れるのか、そのあたりははっきりとしないのだが、そこには何かがいるというもっぱらの噂だった。空地は不動産会社の管理地だったが、雑草が刈られたところを見たことがなかった。

 物好きな友人のひとりが、深夜、その空地に行った。面白半分。何が出るのか確かめてみようというわけである。

 彼が空地を訪れたのは、午前二時だった。その時間をわざわざ選んだのである。彼にあったのはその翌日だった。昼ごろ訪ねてきた。浮かない顔をしていた。

「見たよ」と、彼は言った。「あの噂は本当だった」

 彼が空地のことを言っているのだと、すぐにわからなかった。

「空地だよ」と、言われてやっとわかった。

 何を見たのかと訊いた。

「女の腕だ」と、彼は言った。

 空地を覆った雑草の中から白く長い腕が出ていたと彼は言った。綺麗な腕だったとも言った。その腕は、まるでおいでおいでをするように、ひらひらと揺れていた。そう言ったときの彼の顔――とても嘘をついているとは思えなかった。

 その後も彼とは会っているが、空地の話をしたのは、そのときだけだった。特に何か変わったことが、彼の身におきたということはない。今は故郷に帰り、結婚して、子供もでき、幸せに暮らしている。

 その後もぼくは、空地の近くにあるアパートに住んでいた。昼間は空地のある道路を使ったが、陽が落ちてからはできるだけ使わないようにしていた。

 その空地も、いまはもうない。
 しかし、なぜ丹下左膳がこれほど好きなのか……

 ひとつには、ぼくが悪役が好きだということがある。昔『悪魔の手触り』というテレビシリーズがあり、そのなかで案内役のおじさんがこんなことを言っていた。「善は普通だが、悪は個性だ」と。遠くから眺めている分には、個性的なものの方が見ていて楽しいのは事実だ。ただお近づきになりたいかどうかは、別である(笑)。司馬遼太郎氏が宮本武蔵は天才だが、付き合いたくないといったあの心境だ。

 主人公にも影があるほうがいい。悪役っぽい主人公が好きだ。だから『河内山宗俊』も大好きである。『碑夜十郎 』というドラマの中で石坂浩二さんが演じた河内山宗俊が、とてつもなくかっこよかった。

「男も四十をこえるとな、目が綺麗だけじゃやってけねえのさ」

 たしかそんなセリフだったと思うが、このセリフはじんと来ました。誰だっていいことばかりをして生きていることなんてできない。

 悪役でいうなら、日活映画(ポルノじゃなくて、アクションのほうね)のエースのジョーもキャラ的には敵役だった。悪役は最後に倒されるその瞬間まで、主人公と同じ存在感を持っていると、矢作俊彦氏の著作で読んだ記憶がある。『ベラクルス』のバート・ランカスターが嬉々として悪役を演じていたことにも、矢作俊彦氏は著作 の中で、エースのジョーの言葉を借りて触れていた。

 悪人はなぜ悪人になったのか、そこに凄まじいドラマを感じるのである。その人間の持っている悪が大きければ大きいほど、彼、あるいは彼女がかかえた人生の闇の深さを感じる。説明などいらない。悪役というのは、言ってみれば敗者である。最初から敗者として登場している。「勝者よりも敗者の持つドラマのほうが奥深い」という言葉を聞いたことがある。彼、あるいは彼女の悪が大きければ大きいほど、もうそれだけでドラマが成立してしまうほど奥深いものを感じる。ぼくが悪役を好きなのは、そんな理由である。

 丹下左膳は悪人の匂いを濃厚に持った主人公だ。丹下左膳がなぜ隻眼隻手になったのかという物語は、原作者の林不忘によっては描かれなかった。川口松太郎氏によって描かれた。評価ではなくあくまでも好みとして、丹下左膳の過去は描かれなかったほうがよかったと思っている。
 市川崑演出による『丹下左膳』の放送が開始されるその日の新聞のテレビ欄に「この男がいなければ座頭市も眠狂四郎も木枯し紋次郎もうまれなかった」というキャッチコピーが、大きく刷られていた記憶がある。

 このとおりの文章ではなかったかもしれないが、まあだいたいこんなところだった。

 座頭市については子母沢寛のエッセイ「ふところ手帳」の中に登場するから、必ずしも前記のキャッチコピーどおりではないと思うが、気分的にはそんなところがあるのも確かだ。

 丹下左膳。隻眼隻手の怪剣士。シリーズを通して性格は優しく変化していくものの、はじめて登場したときは、辻斬りまでするとんでもない登場人物だった。丹下左膳は登場の時点では主人公ですらなかった。「新大岡政談」の中の一登場人物、はっきり言えば敵役的存在だった。

 しかし、そのキャラは圧倒的な存在感を放っていた。だから映画化もされ、性格も受け入れられやすいように、多少の恐ろしさを残しながらも、子供を大切にする人物へと変化していったのだろう。

 原作者の林不忘は他にも谷譲次、牧逸馬のペンネームで作品を発表している。アメリカ留学の経験があり『めりけんじゃっぷ』『テキサス無宿』などの作品がある。たしかネットだったと思うが、丹下左膳のアイデアを林不忘はウエスタン小説に登場する隻眼隻手のガンマンから得たのではないかという文章を読んだ記憶がある。あるいは記憶違いかもしれない。

 とにかく、ぼくはこの丹下左膳が大好きである。最初に見た丹下左膳は大友柳太郎(朗)が演じていた。子供の頃、火曜映画劇場だったと思うが時代劇ばかりを放送している番組があったのだ。そこで大友柳太郎主演の丹下左膳シリーズが何本か放送された。遠山の金さんよりも旗本退屈男よりも葵新吾よりも、ぼくはこの異様な主人公が好きだった。どうして子供だったぼくが丹下左膳を好きになったのか、よくわからないが、とにかく好きだった(小沢さとるさんもマンガで描いていたはずだ)。

 しかし、ぼくの丹下左膳好きを決定付けたのは、やはり市川崑演出によるテレビシリーズ『丹下左膳』だった。いま考えても丹下左膳登場の場面は演出が冴えていた。井戸で水を飲んでいる白い着流しの浪人の後姿がまず映る。そこへ娘が近づいて行く。浪人が振り返る。その顔――深い傷が右目の上を走っている。娘はその浪人の異様な顔を見て卒倒する。

 どうです、鮮やかな登場の仕方じゃないですか。さすが市川崑監督です。丹下左膳の持つ、不気味さとある種の滑稽味を見事に表現してるような場面でした。

 その後、丹下左膳はやくざに絡まれる。このやくざを演じていたのは下條アトム。口に笹の葉をくわえ、これも市川崑演出の『木枯し紋次郎』のパロディ場面を作り出す。絡んでくるやくざの髷を、丹下左膳が居合一閃、切り落とす。

 そして、あの決め台詞、「姓は丹下、名は左膳」これが見事に決まる。この演出はうまかった。

 最近でも丹下左膳は離婚騒動で話題の中村獅童の出演でドラマ化されていた。豊川悦司も映画で丹下左膳を演じた。

 どちらもぼくには不満の残る作品だった。作品を評価することは、もちろんぼくなどにはできない。ぼくの好みの作品ではなかったと言いたいだけだ。

 が、それでもなお、丹下左膳のドラマや映画がつくられることは、ぼくにとって喜ばしいことだった。

 丹下左膳の小説は、「あおぞら文庫」で読める。もし興味のある方はどうぞ。