頭から不穏当なタイトルですみませんm(__)m
しかし、昨今の異常気象を体感するにつけ、本当に人類は大丈夫なのだろうかと不安になってくる。ぼくたちが危機的状況だと感じる以上に、状況は危機的なのだろう。気分的には、不安が半分、諦めが半分といったところでしょうか。こんなことじゃいけないとは思うんだけど、どうも世界は人の善意では動きそうもない気配だし……どうなんでしょうね。とにかく、状況が危機(それも半端じゃない危機に)に瀕しているのは事実だと思う。
ただし、ぼく地球の危機だとはぜんぜん思っていない。あくまでも人類の危機だ。だから、タイトルの『世界の終わり……』と、いうのはやや奇を衒った感がある。皆さんもよくご存知の『ジュラシックパーク』という映画の原作になった小説がある。まあ、小説のタイトルも『ジュラシックパーク』なんだけど……(^_^;)その中に、示唆に富む言葉があった。いま、手元にその小説がないから正確に書くことはできないが、次のような内容だった。
人類が滅びるからといって地球が滅びるわけではない。たとえばオゾン層である。オゾン層が破壊されると有害な紫外線が降り注ぐという。それによって人類や他の多くの動植物は滅びるかもしれない。しかし、紫外線は生物に突然変異をもたらし、新しい環境に適応した生物が生まれる。いい例が酸素である。酸素は有害なガスなのだ。植物が光合成をはじめ、酸素を出しはじめたとき、生命にとっては危機だった。植物は毒ガスで地球の大気を満たしてしまったのだ。で、生物は滅びたか? 滅びてなんかいません。いま、こうして酸素をすって生きてます。
つまり、人類にとっての危機が必ずしも地球にとっての危機ではないということだ。『ジュラシックパーク』の著者マイケル・クライトンは人類には地球を滅ぼす力などないと言っている。そのとおりだと思う。地球は人類の世話など受けなくとも十分やっていける。地球は人類が滅びたところで気づきもしない。人類が考えるよりもはるかに長いときをかけて地球は呼吸をしている。この言葉――長いときをかけて云々――も、『ジュラシックパーク』の中にあったはずだ。
恐竜は一億五千万年地球を支配したが、どうなったかは言うまでもない。先が見えないという点で、人類と恐竜にさほどの違いはないと言ったのは、あの頃の平井和正だ。人類が滅びればまた別の生物が地球の支配者になるだけのことなのだ。だから人類は心置きなく自分たちを滅ぼしてもかまわないということになる。母なる地球は何の痛痒も感じないのだから。人類はもっともっと謙虚になるべきなのだと思う。自分たちの力が及ばないものが、絶対に存在するということを、強烈に意識するべきだ。ぼくはそう思っている。
人類の最後を描いた小説は数限りなくある。ぼくが読んだのはその中のほんの一部だ。その中で印象に残っている作品は、
『復活の日』
『結晶世界』
『親殺し』
この三つだ。『復活の日』は角川映画のほうではありません。原作である小松左京さんの小説のほう。内容はくだくだ書かないが、映画とはずいぶんちがうということだけは書いておきます。この小説の最後の言葉が泣かせる―― 絶滅寸前まで追い詰められ、奇跡的に生き延びた人類に警鐘を鳴らす言葉が出てくる。これは名文だ。乱暴な言い方をすると、小説は読まなくても、この文章を読むだけでも価値がある。文章の最後はこう締めくくられている。
『北への道ははるかに遠く、復活の日はさらに遠い。そしてその日の物語は、我々の物語ではないだろう』
と、こんな感じだった(ちょっと違うかな)。多少ちがうかもしれないが、まあだいたい……どうです? 泣かせるでしょう。あの映画の最後に、せめてあの言葉をまるまる使ってほしかったですなあ。
『結晶世界』はJ・Gバラードの傑作終末小説。世界が光り輝く宝石になって滅びていくというなんともシュールなお話である。これも傑作です。
そして、最後に『親殺し』――これは平井和正氏の短編である。人類があらたな地球の支配者となる新人類に滅ばされていく様を、ひとりの男の視点から描いている。美徳も欠点も持ち合わせたごく普通の男が、人類の臨終に望んで何を思い、何を語ったのか。独白と会話で構成されたこの小説は凄いです。内容的に「……?」という点もないではないが、そんなものは本当にちっぽけな疵だ。この頃、平井和正氏は猛烈に人類糾弾小説を書いていて、その勢いが余ってしまったのだろうと思う。いずれにしても、そんなちっぽけな欠点をこえて、この小説は傑作だと思う。
ここに上げた三つの小説は多分まだ読めると思う。『親殺し』は微妙かもしれないが、もし、どこかで見かけることがあれば、立ち読みでもいいから読んでみて下さい。
そうだ! マイケル・クライトンはこうも言っている。人類には地球を滅ぼす力も、地球を救う力もないが、自分を救うくらいの力はあるかもしれないと……。
しかし、昨今の異常気象を体感するにつけ、本当に人類は大丈夫なのだろうかと不安になってくる。ぼくたちが危機的状況だと感じる以上に、状況は危機的なのだろう。気分的には、不安が半分、諦めが半分といったところでしょうか。こんなことじゃいけないとは思うんだけど、どうも世界は人の善意では動きそうもない気配だし……どうなんでしょうね。とにかく、状況が危機(それも半端じゃない危機に)に瀕しているのは事実だと思う。
ただし、ぼく地球の危機だとはぜんぜん思っていない。あくまでも人類の危機だ。だから、タイトルの『世界の終わり……』と、いうのはやや奇を衒った感がある。皆さんもよくご存知の『ジュラシックパーク』という映画の原作になった小説がある。まあ、小説のタイトルも『ジュラシックパーク』なんだけど……(^_^;)その中に、示唆に富む言葉があった。いま、手元にその小説がないから正確に書くことはできないが、次のような内容だった。
人類が滅びるからといって地球が滅びるわけではない。たとえばオゾン層である。オゾン層が破壊されると有害な紫外線が降り注ぐという。それによって人類や他の多くの動植物は滅びるかもしれない。しかし、紫外線は生物に突然変異をもたらし、新しい環境に適応した生物が生まれる。いい例が酸素である。酸素は有害なガスなのだ。植物が光合成をはじめ、酸素を出しはじめたとき、生命にとっては危機だった。植物は毒ガスで地球の大気を満たしてしまったのだ。で、生物は滅びたか? 滅びてなんかいません。いま、こうして酸素をすって生きてます。
つまり、人類にとっての危機が必ずしも地球にとっての危機ではないということだ。『ジュラシックパーク』の著者マイケル・クライトンは人類には地球を滅ぼす力などないと言っている。そのとおりだと思う。地球は人類の世話など受けなくとも十分やっていける。地球は人類が滅びたところで気づきもしない。人類が考えるよりもはるかに長いときをかけて地球は呼吸をしている。この言葉――長いときをかけて云々――も、『ジュラシックパーク』の中にあったはずだ。
恐竜は一億五千万年地球を支配したが、どうなったかは言うまでもない。先が見えないという点で、人類と恐竜にさほどの違いはないと言ったのは、あの頃の平井和正だ。人類が滅びればまた別の生物が地球の支配者になるだけのことなのだ。だから人類は心置きなく自分たちを滅ぼしてもかまわないということになる。母なる地球は何の痛痒も感じないのだから。人類はもっともっと謙虚になるべきなのだと思う。自分たちの力が及ばないものが、絶対に存在するということを、強烈に意識するべきだ。ぼくはそう思っている。
人類の最後を描いた小説は数限りなくある。ぼくが読んだのはその中のほんの一部だ。その中で印象に残っている作品は、
『復活の日』
『結晶世界』
『親殺し』
この三つだ。『復活の日』は角川映画のほうではありません。原作である小松左京さんの小説のほう。内容はくだくだ書かないが、映画とはずいぶんちがうということだけは書いておきます。この小説の最後の言葉が泣かせる―― 絶滅寸前まで追い詰められ、奇跡的に生き延びた人類に警鐘を鳴らす言葉が出てくる。これは名文だ。乱暴な言い方をすると、小説は読まなくても、この文章を読むだけでも価値がある。文章の最後はこう締めくくられている。
『北への道ははるかに遠く、復活の日はさらに遠い。そしてその日の物語は、我々の物語ではないだろう』
と、こんな感じだった(ちょっと違うかな)。多少ちがうかもしれないが、まあだいたい……どうです? 泣かせるでしょう。あの映画の最後に、せめてあの言葉をまるまる使ってほしかったですなあ。
『結晶世界』はJ・Gバラードの傑作終末小説。世界が光り輝く宝石になって滅びていくというなんともシュールなお話である。これも傑作です。
そして、最後に『親殺し』――これは平井和正氏の短編である。人類があらたな地球の支配者となる新人類に滅ばされていく様を、ひとりの男の視点から描いている。美徳も欠点も持ち合わせたごく普通の男が、人類の臨終に望んで何を思い、何を語ったのか。独白と会話で構成されたこの小説は凄いです。内容的に「……?」という点もないではないが、そんなものは本当にちっぽけな疵だ。この頃、平井和正氏は猛烈に人類糾弾小説を書いていて、その勢いが余ってしまったのだろうと思う。いずれにしても、そんなちっぽけな欠点をこえて、この小説は傑作だと思う。
ここに上げた三つの小説は多分まだ読めると思う。『親殺し』は微妙かもしれないが、もし、どこかで見かけることがあれば、立ち読みでもいいから読んでみて下さい。
そうだ! マイケル・クライトンはこうも言っている。人類には地球を滅ぼす力も、地球を救う力もないが、自分を救うくらいの力はあるかもしれないと……。