9c6db7cc.jpg  中ちゃんが岩崎宏美さんと一緒に歌った『友達の詩』が、実は最初に聞いた『友達の詩』だった。だめだねえ、これ……。

「笑われて馬鹿にされて……」

 あのくだりになると、うるっときてしまう。いい年をしてなんてことだと思いつつ、こればかりは仕方がない。歳のせいで涙腺がゆるくなっているわけでは決してない。自分はどちらかといえば、捻くれた方で(あ、ごめん信じないでください)、ちょっとやそっとのことじゃ泣かないね。世の中を斜に見てますから。そんなぼくでも、あのくだりはちょっとやばいです。もう色々なことを想像させられる。

 思えばありふれた言葉の羅列なのだ。生きていれば誰にだって「笑われる」ことも「馬鹿にされる」こともある。そういうことに鈍感になっていくこと、あるいは鈍感になったふりをすることが、歳をとるということかもしれない。

 これは関川夏央さんが書いていたことだが、誰かを指してあの人は少年の心を持っているということがあるが、分厚い面の皮を剥ぎ取れば誰だって少年の心くらい持っている――この通りではないが、そんなことをエッセイで書いていた。そのとおりだと思う。

『友達の詩』という曲には胸の奥底にある少年――あるいは少女――の心に訴えかけ、揺さぶる力がある。そして、この曲のもうひとつの、なんて言おうか……そうだねえ、やっぱり「凄み」かな……とにかくそれは、中村中という存在を知ったとき、もう一度より深い衝撃を与える、いってみれば二重の構造になっているということだ。中ちゃんに企みがあったとは、もちろん思っていない。十五歳の中ちゃんが、胸の奥に秘めておくことがどうしてもできなかった思いを歌にしたのだろう。これだけはどうしても伝えたいという強い思いがあるとき、技術をこえて人に感動を与えるものらしい。

 やっぱり心が大切なんだな。ものを造ろうという人間は、それこそ必死必殺の思いで(ちょっとオーバーか)何かを伝えようと思わなければいけない。そういう気持ちがなければ、結局薄っぺらなものしかできない。小手先の技術でその場を繕っても、どこかでばれてしまうものなのだ。見透かされてしまうものなのだ。きっとそうだ。

 だから、別の曲――たとえば『駆け足の生き様』で中ちゃんが「いつか私の思い天までとどけ」と歌うとき、彼女の思いが天までとどいて欲しいと思う。同時に、自分の思いも天までとどいて欲しい、そんなふうに思う。聞き手にそういう感情を持たせるのは、中ちゃんの紡ぎだす言葉に力があるということだ。少なくともぼくに対しては力を持っている。並みの才能ではないということはもちろんある。が、それ以上に、何が何でもこれだけは伝えたいという熱い思いに支えられて書いた言葉であり曲だからこそ、こっちもついつい熱くなる。架空のお話でも、その核に真実の思いがあれば、それはひとつの現実になるんだという気がする。本人が真剣にこれは本当のことだと思うとき、聞き手(あるいは読み手でもかまわない)にとってもそれは本物の重みを持つ。きっとそうだよ。

 話を『友達の詩』にもどそう。これも関川夏央さんが書かれていたことだが、優れた物語には、これは自分のために書かれた物語だと思わせる力があるという。優れた物語というところを、優れた曲に置き換えてもこれは成立する言葉だと思う。

 友達の詩……

 これはぼくのために書かれた曲だ。間違いない(#^.^#)。