ロマンティックバレエは

「ロマン主義」がフランスに伝わって

生まれました。

 

期間にすると

1830年から1870年までの

40年間くらいです。

 

それまでのバレエの物語は

神話の神々や王

そうでなければ

農民とか中産階級を主人公にしたもの

ばかりでした。

 

それが

妖精と人間の恋物語

遠い異国の冒険物語

身分違いの恋愛などが

主題になり

 

「ラ・シルフィード」や「ジゼル」などの

数々の名作が生まれました。

 

(ラ・シルフィードを踊るマリー・タリオーニ

 

 

「ロマン主義」は

19世紀ヨーロッパに巻き起こった思想で、

文学、哲学、美術、音楽、演劇、舞踊など

あらゆる芸術におよびます。

 

それまでキリスト教の理念に従い

理性や形式を重んじ

ストイックを美とした

「古典主義」の時代に対して

 

「ロマン主義」は

自由でのびのびとして

自然な欲求に対して素直な

古き良きギリシャ・ローマ時代を

理想としました。

 

(ジゼルを踊るカルロッタ・グリジ)

 

ロマンティクチュチュとトゥシューズの誕生

 

ロマンティックバレエでは

妖精のはかなげな様子や浮遊感を

表現するために

トゥシューズと

ロマンティック・チュチュが生まれました。

 

今では「バレエといえばこれ!」と

誰もが考えるイメージの完成です。

 

女性バレリーナが人気の時代で

たくさんのスターバレリーナが誕生します。

 

1832年に「ラ・シルフィード」で

トゥシューズで初めて踊った

マリー・タリオーニについてはこちらの

記事をご覧ください>>>

 

この時代のバレエ教師と振付家は

つま先で立って踊る技術を競って

研究します。

シューズの改良もくり返されました。

 

 さらには、ダンサーを空中に釣り上げて

フワフワと飛ぶようすや

床の中へ消えていくようすを再現する

舞台トリックは欠かせないものでした。

 

今ではそうしたトリックを使って上演している

バレエ団は少ないのですが、

パリオペラ座バレエ団のラ・シルフィードで

観ることができます。


URL: youtu.be

パリ・オペラ座バレエ団「ラ・シルフィード」

 


参考文献:

バレエの魅力 マーゴ・フォンテーン著

ダンスハンドブック ダンスマガジン編

バレエ・ヒストリー 芳賀直子著

 


 

 イサドラ・ダンカンのダンスは

あまりにも自然で、テクニックに凝らないものだったので

人間の動きを詩人の言葉に置き換えて表現するようで

「動きの詩人」と呼ばれることもありました。

 

 マーゴ・フォンテーンは著作の中で

「行き当たりばったりに、とんだり、跳ねたりしていた

だけのイサドラ・ダンカンを

モダン・ダンスの母と呼ぶことには賛成しかねる」

とまで書いています。

 

 このように、モダン・ダンスはおろか

クラシック・バレエとはまったく無縁のように考える人も

いるイサドラ・ダンカンなのですが

 

1904年12月の終わりにロシアで公演をしています。

 

この時代

帝室バレエ(現在のマリインスキーバレエ)では、

「眠れる森の美女」をはじめ多数のバレエ作品を創作して

クラシック・バレエの確固とした形を確立させた

マリウス・プティパが

34年間務めたバレエマスター(振付家兼芸術監督)を退職したばかりでした。

(プテイパ振付「眠れる森の美女」初演(1890年)の写真)

 

34年間は長いですよね!

それだけの長きにわたって同じ振付家・芸術監督だった後に

プティパより62歳も若いミハイル・フォーキンが

新たなバレエマスターに着任したので

フォーキンにとってはプティパのバレエは古めかしく

大袈裟に感じられました。

(ミハイル・フォーキン(1880年 - 1942))

 

 フォーキンが1904年に帝室劇場に

バレエ改革の具体的な提案を示すために書いた手紙には

次のように書かれています。

  

 「相変わらずの短いスカート、ピンクのタイツ、サテンのバレエシューズなどはもはや必要ない。自由な芸術の空想に任せればよいのだ。

 バレエの動きは踊り手が観衆の拍手に応えることで中断されるようなものであってはならない。

 バレエでは体のリズムを通じて概念や、情緒、感情を表現することが可能となる。踊りは動きの詩である。」

 

 1904年に、既にそう感じている人がいたんですね。

 フォーキンは当時としてはかなり新しい考えの人だったんですね。

 

フォーキンはこの年、イサドラ・ダンカンの公演を

セルゲイ・ディアギレフと観に行きました。

この時にイサドラがフォーキンに与えた影響を

ディアギレフはこのように書いています。

 

 「私はフォーキンとともに彼女の第1回目のコンサートを観たが、

フォーキンは全く彼女に夢中だった。

ダンカンが彼に与えた影響は、実に彼の創造のすべての基盤となっている」

 

 ディアギレフは、この5年後、

1909年にバレエ・リュス(ロシアバレエ団)を結成します。

ミハイル・フォーキンはバレエ・リュスで「レ・シルフィード」「ダッタン人の踊り」「シェヘラザード」「火の鳥」「バラの精」「ペトルーシュカ』という

現代でも再演されているバレエの傑作をつぎつぎと振付けて大成功をおさめますが

フォーキンはその後の創作にイサドラから大きな影響を受けていました。


 

  バレエ用の音楽ではなく、ショパンのピアノ曲で即興的に踊ったイサドラからの影響は

ウェーバー作曲の舞踏への勧誘に振り付けたフォーキンの「バラの精」などにみられますし、「エウニス」の振付では裸足で踊る振付けをしようとして、劇場サイドから許可がおりず、しかたなくタイツに足の指を描いて踊ったほどでした。

 

 (タマラ・カルサーヴィナ(1885年 - 1978年))

 

 バレエ・リュスのバレリーナ、タマラ・カルサーヴィナもまた

1904年のイサドラの公演を観ています。

カルサーヴィナの感想は、世の中の動向も把握しながら、

冷静に新しい芸術を受け入れる度量のある、理性的なものです。

 

 「イサドラは、瞬く間にペテルブルグの劇場世界を制覇した。

もちろん保守的なバレエ愛好家たちもいて、彼らにとっては裸足の舞踊家などというのは芸術の第一原則である神聖にも反する事だった。けれどもこうした考えは一般の意見とはおよそかけ離れたもので、目新しさを求める雰囲気が人々の間にはあった。

初めて彼女の踊りを観た私は完全に制服されてしまったのを覚えている。彼女の芸術と私たちの芸術との間にはほんのわずかな敬意も感じられなかった。互いの領域にとって有益となる余地のようなものが感じられて、相互に学べば多大な効果が得られるだろうと思われた」

 

 

 イサドラ・ダンカン本人が踊るダンスがどのようなものだったのか

今ではそれを残す映像は、隠し撮りされたごく短い断片しか残っていません。

URL: youtu.be

 けれども、今もイサドラに触発されて後世に作られたバレエ作品が

生まれ続けています。

 

URL: youtu.be

フレデリック・アシュトン振付

「イサドラ・ダンカン風のブラームスの5つのワルツ」

 

 


参考文献:

「踊るヴィーナス イサドラ・ダンカンの生涯」 フレドリカ・ブレア著

「ニジンスキー頌」市川雅 編

「バレエの魅力」マーゴ・フォンテーン著

「バレエヒストリー」芳賀直子著

 

 

 

 フランス革命(1789年)以前のヨーロッパのバレエは

たいへん大がかりで豪華絢爛な舞台装置をつかい

物語の主役はギリシャ神話に出てくる神々や

王や姫君で、今私たちが知っているバレエとは

違いました。

URL: youtu.be

この動画は、BBC制作

マーゴ・フォンテーン The Magic of Danceより

1956年にメアリー・スキーピングが

当時のバレエを再振付した

「Cupid out of his humour」です。

 

音楽はヘンリー・パーセル作曲

スウェーデンにあるドロットニングホルム宮殿劇場で

スウェーデン王立バレエ団が踊っています。

 

 スウェーデンにあるドロットニングホルム宮殿劇場は、

1766年にロヴィーサ・ウルリカ女王のために建てられた

劇場ですが、今も18世紀当時そのままの舞台を

体験することができる貴重な劇場です。

 

 王宮の傍らの静かな庭園と散歩道に面して建っていて

時の国王グスタフ3世( 1746年- 1792年)によって1777年に

最初の全盛期を迎えました。

 役者、作曲家、振付家、建築家の協力を得て、王はドロットニングホルムで

スウェーデンの演劇とオペラ芸術を創造しました。

 しかし、1792年に、仮面舞踏会でグスタフ3世が暗殺されると

劇場の建物は忘れさられたままとなり、

そのまま100年の月日が経ったのです。

 

 

(グスタフ3世)

100年の眠りを覚ましたのは、文学史家のアグネ・バイエルでした。

 そこには、1700年代の終わりから手つかずのユニークな劇場が見つかりました。

ロープを引いて手動で動かす舞台装置も、照明に使われていた燭台も、

なにもかも元のままのこっていたのです。

  機械のロープを交換し、電灯を設置し、劇場は再開されました。

      

  今でも18世紀の舞台装置をつかって、当時の世界そのままで

オペラや演劇、コンサートが行われています。

URL: youtu.be

参考文献:

マーゴ・フォンテーン著「The Magic of Dance」

ドロットニングホルム宮殿劇場

 

 


 

クルト・ヨース(1901年 - 1979年)は、

クラシックバレエと演劇を融合させた

「タンツテアター」の創始者で、

ドイツのバレエダンサーであり

振付師です。

 

主観的で抽象的なテーマで

独特なスタイルを確立した

イサドラ・ダンカン

マリー・ヴィグマンなどの

モダン・ダンスの先駆者達とは異なり

 

ヨースは筋書きのないダンスを嫌い、

社会的で道徳的なテーマを好みました。

 

シュツットガルト音楽学校で

ルドルフ・フォン・ラバンに師事し

1924年にミュンスター私立歌劇場で

バレエマスターに就任します。

 

1927年にはフォルクヴァング芸術学校

フォルクヴァング・タンツビューネと

いうカンパニーを設立し、

そこで作られたのが

ヨースの振付作品の中で最も重要な作品である

「緑のテーブル」です。

 

1932年にパリのシャンゼリゼ劇場で行われた

新作振付国際コンクールで1位を獲得しています。

 

 

 

「緑のテーブル」ははっきりとした反戦声明でした。

アドルフ・ヒトラーがドイツの首相になる

一年前のことでした。

 

(緑のテーブル(1932))

 

1933年、ナチスから

ユダヤ人の作曲家フリッツ・コーへンとの

絶縁を命じられ、

それを拒否したことをきっかけに

祖国からイギリスに亡命します。

 

第二次世界大戦の終結後

ヨースは1949年にイギリスを離れ、

ドイツのエッセンに戻ります。

 

フォルクヴァング芸術大学(Folkwang Universität der Künste)

で、再びディレクターとして教育に力を注ぐと同時に

新たな舞踊団も起ち上げ、引退にいたるまで振付家、

指導者として精力的に活動し、

1979年に亡くなるまで、

芸術に人生をかけた人でした。

 

この時期の最後の生徒の一人が振付家の

ピナ・バウシュです。

 

ピナ・バウシュは、クルト・ヨースの

「普通の人々を中心にしてダンスを表現しよう」

という考えを受け継いで

踊りと演劇を融合させた「タンツテアター」を

成熟させ、コンテンポラリーダンスが誕生する

次の時代へつないだ正当な後継者といえるのでは

ないでしょうか。


 

アメリカでイサドラ・ダンカンが裸足で踊り出した

ドイツには、また別の流れがありました。

 

「表現主義」という

建築、舞踊、絵画、彫刻、映画、音楽など

第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった

各分野にわたり「黄金の20年代」と呼ばれた

ベルリンを中心に花開いた前衛芸術の運動です。

 

 客観的表現を排して内面の主観的な表現に

主眼をおくことを特徴とし、表現主義舞踊は

ノイエ・タンツとも呼ばれました。

 

 

マリー・ヴィグマン

 

マリー・ヴィグマン(1886年 - 1973年)は

ドイツ表現主義舞踊の代表的なダンサーで振付家です。

 

子供のころバレエを習っていましたが、

教師はヴィグマンが骨っぽい体つきと

男性っぽい容姿を観てバレエをやめたほうが

いいと言ったそうです。

 

それでも踊りたかったヴィグマンは

エミール・ジャック=ダルクローズに

師事します。

 

 ジャック=ダルクローズはスイス出身の

作曲家・音楽教育家で、

運動を通じて音楽を学ぶ、

音楽学習の一つ「リトミック」を発展させました。

 

 ヴィグマンは更に、モダン・ダンスの革新者

ルドルフ・フォン・ラバン(1879年 – 1958年)にも

師事しています。

 

ラバンが情緒と表現の理論を作り上げようと

必死になっている一方で、

ヴィグマンは即興的に感情の表出をしよう

とするので「あなたはグロテスクな怪物で、

私の理論を破壊しようとしている」

そう、ラバンにののしられたといいます。

 

 ルドルフ・フォン・ラバンは後に

ラバノーテーションというダンスの動きを

記録するための記譜法を考案し、

バレエと心理学、哲学、神秘論を結び付け、

モダン・バレエの舞踊理念を打ち立てました。

 

 

 

 ヴィグマンは1931年 ニューヨークに

「マリー・ヴィグマン舞踊学校」を設立し

ルドルフ・フォン・ラバン(主にダンスの記譜法)と

エミール・ジャック=ダルクローズ(主にリズム感)の理論を

融合し、ダンス界に革新の風を起こしました。

 

1942年 には第二次世界大戦の影響で

「マリー・ヴィグマン舞踊学校」を閉鎖しますが

1950年 西ベルリンのスタジオを中心に教育活動を

続けました。

 

 

(1959年 ベルリンのスタジオでヴィグマンと生徒たち

 

 

ダンスの記譜法によって、「ダンスをシステム化し、

他人にもそれを教える事ができる」、「誰にでも踊る事が出来ることを証明」

し、クラシック・バレエに対する抵抗(レジスタンス)として、

モダンダンスの裾野を広げました。

 

 1936年 ベルリン・オリンピックでは、オリンピック競技場でで舞踊劇

「死者の嘆き」を公演しています。

 

 

参考資料:「バレエの魅力」 マーゴ・フォンテーン著

     「ダンスハンドブック」 新書館


 

 

ルイ14世によってアカデミー設立が設立され

バレエがオペラ座で商業化された最初の9年間は

女性役は若い男性が演じていました。

 

それまで宮廷内で踊っていた貴婦人方は、

宮廷の外で舞台で踊るなどというはしたない真似は

とうていできず、

プロの女性バレリーナはまだいなかったのです。

 

その頃の劇場は照明も不十分で、

座り心地の悪い椅子に腰かけた観客の半分は

大体酔っ払いで、大声で誉めたり、

けなしたりして上演中も騒いでいたのです。

 

初めて女性バレリーナが登場したのは1681年。

26歳のマドモアゼル・ド・ラフォンテーヌ

(1655-1738)が

リュリの「愛の凱旋」を踊りました。

 

1681年から1693年の間にパリ・オペラ座で

少なくとも18の作品で主要なバレリーナとなり

「バレエの女王」と呼ばれました。

引退してからは修道院の尼僧となり祈りの生活を

おくりました。

 

 

パリ・オペラ座ガルニエ宮のホワイエには、ラ・フォンテーヌをはじめとする

初期の女性バレリーナ達の肖像画が飾られています。


ラ・フォンテーヌの次の世代。

マリー・アンヌ・ド・クピス・ド・カマルゴ(1710 - 1770)は、

イタリア人のバレエ・マスターを父に持ち

英才教育を受けて、1726年、16歳でオペラ座デビューを果たし

すぐスターになりました。

 

 それまでは男性だけが踊っていた素早いアントルシャ・キャトルを

踊った最初の女性バレリーナです。その見事なテクニックと軽快な

エネルギーで観客を魅了しました。

 

 

 それまでのバレエで履かれていた大きなバックルがあり

高いヒールのあるシューズから

現在のバレエシューズに近いシューズに変え、

衣裳のスカート丈をくるぶしの少し上まで短くしました。

 

すべての新しいファッションには彼女の名前が付けられ

彼女のヘアスタイルは、宮廷の誰もが真似するという

ファッションリーダー的な人気がありました。

 

(カマルゴの素描)


マリー・サレ(1709 - 1756)は、マリー・カマルゴのライバルでした。

子供時代は旅芸人一座の子役として巡業し、

夏には大都会パリの街で芸を披露しました。

 

踊りが非常にうまく、才能があることを見抜いた両親は

彼女にバレエを習わせ、

カマルゴのデビューから1年後にデビューしました。

 

 

 活発なテクニック派のカマルゴに対してマリー・サレは

優雅でドラマティックな踊りをみせるバレリーナでした。

 

 また、女性振付家の草分け的存在であり、衣装などを

作品のテーマに合わせて改革し、

当時使われていた重いバレエ衣装を廃してシンプルな

チュニックやサンダルで舞台に立ちました。

 

(マリー・サレの素描

 サレと親しく交流した芸術家の中に、

バロック期を代表する作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルがいます。

ヘンデルは、オペラ『忠実な羊飼い』(Il pastor fido)を改作して、

サレのために1734年にバレエ曲『テルプシコーレ』を追加作曲しました。

 

 この作品はサレとヘンデルの双方にとって申し分ない出来栄えのものとなり、

大成功を収めました。

(G.F.ヘンデル)

 

参考文献:バレエの魅力 マーゴ・フォンテーン著

 


 

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イサドラ・ダンカン(1877年 - 1927年)

アメリカ生まれのダンサー・振付家で、20世紀のモダン・ダンスの改革者です。

 

 「身体を絞めつけることは、自然としての身体に逆らうこと」という考えから

ギリシア風の柔らかいチュニックを身に着け、靴を履かないで裸足で踊りました。

 

 自分の芸術を理解してもらうには大西洋を渡らなければならないと

感じたイサドラの初のリサイタルは1900年のロンドンでした。

 


1900年5月17日付「タイムズ」紙に載ったリサイタル批評より

 

 メンデルスゾーンの曲に制作した音楽詩「春へのいざない」はとても優雅で、

観ている人々に花々や、小鳥たち、そして戯れる子羊たちの情景を連想させる。

 コスチュームはボッティチェリの「プレマヴェーラ」の絵からとったもので、

この踊りの雰囲気にぴったりだ。(中略)

 不動の瞬間のまるでない、絶えずステップを踏んで動く様は、

あたかも古代ギリシアの日々に、まさしくそのようなダンスが踊られたであろうと

思わせるような動きだ。

 

 

 1900年にはパリへ移り

 パリ万国博覧会で日本の舞踊家、貞奴のリサイタルを観て、日本人舞踊家の

しなやかな動きに感銘を受けています。

 

 パリでは、人体構造をよく理解し、力強い気力溢れる彫刻作品を生み出す

ロダンに感銘を受け、アトリエを訪れています。

 

(ロダンによるイサドラの素描)

 

 

 「未来の舞踊家となる子供達を自身の考える理想の舞踊家に育成したい」という

イサドラの強い思いから、1904年にドイツのベルリン・グリューネヴァルトに

舞踊学校を設立しました。寄宿学校で、通常の教育に加えて、ダンスも教えて

いましたが、生徒たちはプロのダンサーになることを期待されておらず、

奨励さえされていませんでした。

 

 

イサドラは学校案内書の中で、教育理念をこのように述べています。

 

 「人間の身体の美しい音楽的な動きを再発見すること

 最も身体の形に調和する理想的な動きの舞踊を再び呼び戻すこと

 そして2000年の間眠っていた芸術をもう一度呼び起こすこと」

 

 

 イサドラの設立したグリューネヴァルトの学校は1908年に閉校しますが、

その後もフランスのパリ、そしてロシア革命後のモスクワに

ダンス学校を創立しました。

 

 

参考文献:

「踊るヴィーナス -イサドラ・ダンカンの生涯」 フレドリカ・ブレア著

「オーギュスト・ロダン 彫刻と素描」 ジル・ネレ著

 

 

ルイ14世(1638 - 1715)は、ブルボン朝第3代のフランス国王で、

バレエを奨励しました。

自らもバレエの名人で、メヌエットを宮廷舞踊に取り入れ、

最初に踊った人だと言われています。

 

ルイ14世

 

宮廷バレエ(バレ・ド・クール)はルイ13世の時代から14世の時代にかけて

全盛をきわめた今日の劇場バレエのルーツとなるものです。

 舞踊だけでなく朗読や声楽などが一体となり、豪華な衣裳や舞台装置なども用いた

本格的なエンターテイメントで13時間以上もの長時間続くものでした。

 

 太陽王に扮した14歳のルイ14世

 

ルイ14世は4歳で即位した王でしたが、国政の実権は、

母マリ・テレーズ・ドートリッシュと、

その愛人とも言われるジュール・マザラン枢機卿が握っていました。

 

王が14歳の時に太陽王に扮して踊った『夜のバレエ』は、

若き国王の存在をあらためて

高らかに知らしめる政治的プロパガンダでした。

 

王の寵愛を一身に受け、音楽の力で絶対王政をより強固なものにした

宮廷作曲家が、ジャン=バティスト・リュリ( 1632-1687)です。

ジャン=バティスト・リュリ

 

 バレエ楽曲を作曲するとともに自ら舞台に出演し、

音楽とバレエと劇を融合させました。

 

「バレエ」というよりは「オペラ」に近いものでしたが、

「夜」「時」「月」「眠り」「沈黙」など寓意的な役柄が登場し、

最後に金色に輝く「太陽王」ルイ14世がまばゆく登場するのでした。

URL: youtu.be

(映画"Le Roi Danse" (The King Is Dancing))

(ベルサイユ宮殿 鏡の間)

 

ルイ14世が積極的に踊りに励んでいた頃、

宮廷での出し物には貴族たちも出演していました。

しかし1670年代から、王は人前で踊ることを控えるようになったため、

必然的に貴族たちも、出し物に出演するほどの踊りを極める

必要はなくなります。

 

  1669年、ルイ14世は、詩人のピエール・ペランに対し、

フランス語のオペラを上演するための独立したアカデミーを

設立する特権を与え、王の勅使によりペランはオペラ・アカデミーを

創立しました。

 そして、このアカデミーが複雑な経路を辿って、

パリ・オペラ座となったのです。

 

  【ルイ14世によるアカデミー設立の趣旨】

ダンスという芸術は体によく、また、体を使う種々の鍛錬の基礎訓練としても、

たいへん好ましいものであることは周知の事実である。

また、武芸を尊ぶ者たち、武芸は貴族として欠くべからざるものであるが、

即ち戦の時、我々に伺候する栄誉を授かる者たち、

あるいは平和な日々にもバレエを観せる者たちにとり、

ダンスを習うのは大切なことである。

 

 (パリ・オペラ座 ガルニエ宮)

 

 この頃のバレエは、まだ宮廷での余興としての踊り、

という様子から抜けきっておらず、

オペラの中に出てくる中休み的な扱いでしたが、

オペラ・アカデミーの設立によってプロフェッショナル・バレエ発展の歴史が

始まるのでした。

 

この頃のオペラ座で踊ることができたのは、

当時はまだ男性のみに限られていました。

 

女性バレリーナの誕生

 

 

 

 

 

 

参考文献: マーゴ・フォンテーン著 バレエの魅力

 

 

バレエとダンスの歴史について、

ブログに記してゆくことにしました。

 

18世紀から19世紀にかけて華開いたクラシックバレエ。

ここの部分はまた後に書かせていただくこととして、、

 

クラシックバレエに続き芸術表現としての「踊り」が

20世紀にさらに大きく変貌を遂げ

現代のコンテンポラリーダンスにいたるまでを

先にまとめたいと思います。

 

イザドラ・ダンカンから始まったアメリカのモダンダンスや

ドイツ表現主義舞踊を経て、フランスで始まるヌーベル・ダンス

そしてコンテンポラリーバレエとコンテンポラリーダンスへ。

 

西洋の劇場芸術におけるバレエとダンスの歴史をたどりたいと

思います。

 

 

というのも現代はもう21世紀(笑)

googleで「コンテンポラリーダンス」と打ち込んだら

「コンテンポラリーダンス

とは、振り付けがなく、

表現方法やテクニックにも決まりがない自由なダンス。

ひとことでまとめると、「基準を持たない何でもありのダンス」」

と、出てきました。

 

驚きました。

 

舞踊、美術、音楽、どんな芸術でもそうですが

現代になるほどよくわからない「これが芸術なの?」という

難解な表現方法になるものですが

 

決して「なんでもあり」なわけはありません!

 

世界の歴史、人類の歴史と同じように

先人達が先人から学び、反抗もし、試行錯誤しながら

より良いもの、より新しいものを探し続けて

たどりついた「今」なのです。

 

その歴史を知ることで

バレエやダンスを観る楽しみも

レッスンする楽しみも面白味も

うんと増えるのではないかと思います。

 

モダンダンスの母 イサドラ・ダンカン

 

 

クリスタルボウルを演奏するときは、

頭の中をからっぽにして

今までに行ったことのある

自然の中や静かな空間や

心地よさを感じた場所を

思い浮かべて演奏をしています。


演奏という言葉を使っていますが、ほかの楽器の演奏とは違うなという感じです。


演奏している自分を消していくような感じがしていて、

音の響きに浸りながらそこにまた違う響きを重ねてゆく、

それだけに集中しています。


実際には自分が鳴らしているのに、

自然の中で風の音や、波の音や、遠くで鳥が鳴く声が聞こえる、

そんな感じがすることもあり、とても不思議です。


サウンドバスに来てくださった方に、「響き」だけを届けたい。

届けたい響きを組み合わせているのだと思います。


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