エレカシ野音 2022 ~ 自然体のその先に | ラフラフ日記

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主に音楽について書いてます。

今年のエレカシ野音は配信で観た。チケットが取れれば会場で観たかったし、そうでなくても出来ることなら外聴きしたかったけど。

昨年は野音(日比谷野外大音楽堂)でのライブがなかった。エレカシが 1990年から毎年野音でライブをやるようになってからはじめてのことだ。宮本浩次が耳の病気になり中止になった 2012年でさえも、通常とは違う形ではあったがステージに立ったのに。コロナのこともあったろうけど、それだけではないだろう。昨年、宮本浩次はソロではツアーをスタートさせた。

そうして観たエレカシ野音。

最初の感想は、宮本はエレファントカシマシの宮本浩次を演じていないということだった。

そしてそれはメンバーも同じで、石森も高緑も冨永もエレファントカシマシの~を演じていないと思った。

なんだろう、自然体?

2020年に野音のライブを、同じく配信で観たときは(このときもチケットが取れなかった!)、こんなエレカシを待ってた!と大興奮した。今年もそれと同じようなライブというか、同じように感じてもおかしくないライブだったはずなのに、そうはならなかった。2020年が「こんなエレカシを待ってた!」なら、今年は「そら最高に決まってる」という感じか。

 

ある秋の夜長に ← 2020年の野音を観たときのこと

 

そら最高に決まってる。エレカシが野音でやり、おそらくエレカシファンの多くが聴きたいであろう曲をやるのだから。それとも私が偏ってるのか? いや違う。エレカシファンの多くが満足するライブであったはずだ。だから、そら最高に決まってる。しかしそれは、すごいことだ。最高に決まってることを本当に最高にやってのけることはすごいことなのだ。それを忘れてはならない。

しかし、その上で、こうも思った。これはかつての宮本が最も嫌った現状維持ではないのか?

そう思いながらも、配信にはアーカイブ期間があったので再び観る。

そしたら、バンド最高! バンドサウンド最高じゃん!ってなった。

いやこれ本当で、これ以上何を望む?

以前なら、これで満足していたかも知れない。でももし、これで満足できないのだとしたら、それは「宮本浩次ソロを知ってしまった」からだ。

私が怖れていたのはこれだ。ソロをやった後、エレカシを観たとき、今までのようにエレカシを観られなくなってしまったら…

つまりそれは、エレカシだけが世界じゃないと知ってしまうこと。

宮本浩次にとって、エレカシだけがすべてではなくなった。

逆に言えば、エレカシにすべてがあった。

そうではなくなってしまったとき、エレカシはどうなってしまうのかと。

しかし、その不安が「宮本浩次 縦横無尽完結編」で確かに消えたのを私は感じたのだ。

 

宮本浩次 縦横無尽完結編 on birthday

野音を観ても、その不安がよみがえることはなかった。


確かに、エレカシにはすべてがあった。「宮本浩次の無限の可能性」も「バンドのよさ」もすべてがそこに一極集中していた。だからこその葛藤、うねり、矛盾がエレカシにはあり、それらが渦巻き、パワー、爆発、どれをとっても他のバントにはない、唯一無二の輝きを放っていた。

以前、「ソロとバンドを分けるのはもったいないんじゃないか」と言っていたのは、それらを分けてしまうと、その輝きが削がれてしまうんじゃないかと思ったからだ。しかし、分けることで見えてくることもあるのかもと。

 

2010年くらいからかエレカシは、一体どこからどこまでがエレカシか、その輪郭がわかりにくくなっていたのかも知れない。すべてをエレカシに注ぎ込んで来たけれど、気が付くと、宮本浩次でさえ、一体どこからどこまでがバンドか(そして自身か?)わからなくなってしまうくらいにエレカシが巨大になっていたというか。それでも、これがエレカシだと思えれば良いけれど、ふとバンドの姿が見えないことに気付いてしまったのではないだろうか。

 

やりたいことがあるからソロをやる。当然そうだけど、バンドの姿が見たくてソロをやる。そういうこともあるのではないか? 宮本本人がそう思ってやっているかはわからない。しかしこれからは、宮本がソロを経た後の新しいエレカシを見せるのではなくて、「エレファントカシマシはこういうバンドだった」というのを発見していくことになるんじゃないか?

 

そしたら、どうだろう。今のエレカシは本当に現状維持か? 確かに新曲はないけれど、今までと少し違ってないか?

 

確かに今年の野音は、私がよく知ってるエレカシで、そら最高に決まってるエレカシだったけど、そんなエレカシ、いつぶりに観た? 本当に知ってた?

例えば、サポート。エレカシの 4人以外にキーボードとギターがいたけれど、くっきりと 4人が見えたライブだったじゃないか?

 

次に宮本が世に出す曲は、エレカシなのかソロなのか。それは私も気になる。

何せ、宮本がソロ活動をはじめてからエレカシの新曲は一曲も世に出ていないのだから。次のエレカシの新曲は緊張する。

 

けれど、宮本が 4人でやりたくなるときが自然に来る・・・と私は感じている。(もう来てるのでは?なんて)

 

それは、ソロでの経験が還元されてなくては…とか、エレカシでやる意義がなければ…とか、売れなければ…とか、そういうんじゃなくて、ごくごく自然に生まれるような。4人でやればエレファントカシマシになるよ、くらいの。

 

それじゃあソロをやった意味がないじゃないか? いや、それこそがソロをやった意味なのかも知れないじゃないか。

 

自然体のエレファントカシマシ。

 

その先に、エレファントカシマシの生きる道が自然と見えてくるような気がしている。

 

それは、今までに見たことがない新しいエレカシの姿であり、エレカシってこういうバンドだったんだという姿であるはすだ。

 

それは、そうだなぁ、

 

例えば、2006年の『町を見下ろす丘』。私はそれを聴いたとき、私は好きだけど、ファンじゃない人はどうだろうと思った。けれど今度は、ファンじゃない人にも自信を持ってどうだ!と言えるような『町を見下ろす丘』・・・とか?

 
(いや、『町を見下ろす丘』だってどうだ!と言えるよって意見もあるだろうし、この記事自体、いろいろと断言できないまま書いてるところあるんだけど・・・という言い訳)