おかみさんは南向きに布団干す | ラフラフ日記

ラフラフ日記

主に音楽について書いてます。

エレファントカシマシ 新春ライブ
2010年1月8日(金)9日(土) 渋谷C.C.Lemonホール


21日に放送された、テレビ東京『空から日本を見てみよう』をエレカシファンの方は見ただろうか。文字通り、空から色々なところを見てまわり、気になる場所は地上からも紹介する番組なんだけど、21日は「京浜東北線第2弾」で東京~大宮間だった。そこで、あの「赤羽台団地」が取り上げられ、なんと家の内部にカメラが入ったのだ! ああ、こういう家で宮本さんは育ち、こういう部屋から「ファイティングマン」が生まれ、そして、エレファントカシマシが生まれたんだー! と、一人で興奮。録画しておけば良かった。

二日間行われたエレカシ新春ライブ@渋谷。

どんな曲が聴けるのかとワクワクしていったら、「Sky is blue」で始まり、アンコール一回目最後の「桜の花、舞い上がる道を」まで、あくまで “ユニバーサル移籍後の曲中心”。つまり、前作『STARTING OVER』と最新作『昇れる太陽』からの曲がメインで、“ここ最近のエレカシ” なライヴだった。

『昇れる太陽』に伴うツアーも終了したし、フェスでもたくさん最新作や前作の曲を演奏したのだから、年も明けたことだし、もっと新旧取り混ぜて、ユニバーサル時代だけじゃないエレカシも見せて欲しかったのだけど、まるで “ダメ押し” するかのようにユニバーサル時代中心できた。ここまで徹底するのだから、何かわけがあるんだろう。ここで一回、ユニバーサル移籍後=「俺たちの明日」以降を総括し、ケリをつけたかったのかなぁ。

“ここ最近のエレカシ” なライヴだったと書いたけど、決定的に違うところがあった。それは、「今宵の月のように」も「悲しみの果て」もやらなかったことだ。もし、最近のライヴと同じようにこの2曲が演奏されていたら、私も「ケリをつけたいのかな」なんて思わなかったかも知れない。最近は必ずと言っていいほど演奏していた、いわゆる代表曲というやつをエレカシはやらなかった。それを除けば、驚くべきセットリストではなかったけれど、その2曲がないというだけで「何かが違う」とは思った。
最近の延長、のようでいて、確かに何かが変わろうとしている!?

というものの、おそらく私はライヴで初めて聴いた「真夜中のヒーロー」だって、約10年前の曲なのだから、最近の曲ばかりってわけでもないんだよな。季節もあるけど、「真冬のロマンチック」だってやったし。「化ケモノ青年」も久しぶりに聴けたし。まぁとにかく、曲がいっぱいあるんだよ!
でも、そんな膨大な曲の中から、あえてユニバーサル移籍後を中心に選んだのだから、やはり意味があるんだろうなぁ。

二階席だったので、普段よく見えないトミ(ドラム)がよく見えて、改めてカッコ良いなぁ~と。ミヤジや石君がギターソロをキメているのに、トミばかり見てしまったりしました。エレカシは、ドラムとベースが格好良いと思うのですよ。リズムが格好良い。“鉄壁” って思うんすよ。表情や間というか、“呼吸” している感じがすごくする。

「おかみさん」、大好きなんです。大好きだからこそ、ライヴでは厳しい評価になってしまうんです。求めるものが大きくなりすぎて。でも、今回の「おかみさん」良かったと思う。

ところで、ライヴってなかなか “まっさらな状態” で挑めることってないですよね?
仕事のことを思ったり、家庭のこと、体調のこと、色々な雑念が邪魔しますよね。私はこの日、一週間ほど前に浜崎あゆみのカウントダウンライヴを観てきたものだから、そのことを引きずっていたんですよ。そのライヴの記事でも書いた通り、色々考えさせられるライヴだったものですから。
あゆのロックは時代錯誤なのか、あゆは進化しているのか、うんぬんかんぬん……。

しかし、思ったんです。

はたして、エレファントカシマシは進化しているのだろうか。

私は、あゆに対しては進化について考えたりするくせに、エレカシに対しては考えていたかな。

私は、ロックは進化しなくても良い、とは思わない。
古き良き音楽が好きだとしても、思わない。

エレファントカシマシは進化しているのか――そのことについて考えていなかったよ。
エレカシは、何か新しいサウンドや言葉を掲げているわけではないかも知れないけど、でも私は、“新しい” と思っている。それは、エレカシがいつも、同じテーマやコンセプトであっても、それをしっかり最新版に “更新” しているからではないだろうか。
と、最近はこんな風に思っている。

「おかみさん」なんて、ちっとも新しくないし、むしろ時代遅れかも知れない。それこそ、時代錯誤かも知れない。
エレカシのことを「昭和の匂いがする」と評している人がいて、それもわかる気がしてきた。そういや、最近のあゆのことを「ますます昭和化」と評している人もいた。

そうか。それならもう、昭和でいいやい。

そのかわり、昭和を舐めるなよ。

昭和の底力を見せてやる!

そんなことを思いました、「おかみさん」で。

今日も南向きに布団干すおかみさんを舐めるなよ~!

そして、「おかみさん」もそうだけど、エレカシの曲には、いや、この言葉が正しいかもわかんないけど、「凡人の意地」を感じる。
エレカシに「凡人 -散歩(そぞろある)き-」っていう大好きな曲があって、“もたれ合い、あざけり合いて、凡人の意地と意地、命がけなるそぞろ歩きよ” って歌っている。

でもね、「凡人 -散歩(そぞろある)き-」は決して凡人じゃないんだよ。詩人ってボードレールのことを言っているんだっけ? 誰か勉強不足の私に教えて下さいって感じの “うらやましきはカラス共に我が肉食えやと言いたる詩人よ” という出だしからヴォーカルから構成から、何から何まで凡人じゃありません。
天才でありながら凡人というか、凡人でありながら天才というか。

例えば、ポール・マッカートニーの『マッカートニー』のどこをどうお手本にすれば「珍奇男」になるのか、私にはまったくもって理解不能なんだよ。
だから、間違いなく天才であるはずなのに、エレカシの曲からは間違いなく凡人(おかみさんやおやじさん)の意地や誇りが感じられるんだ。

「俺たちの明日」でエレカシが “がんばろうぜ!” と歌う。
しかしそれは、ウルフルズが “ガッツだぜ” と歌うのとは違った響きを持っている。

『浮世の夢』~『生活』の頃のことを振り返って、宮本さんは、

「世の中のあらゆる答えがここにある、世界中の人間の悲しさの答えがあるって、大発見のつもりで。それをなんでみんなこんなキワモノみたいに言うんだ、と」

と語っていたけど、宮本さんは、残念ながら天才なんですよ! しかし、その天才が歌っているのは、世界中の人間の悲しさ、つまり、大衆なんだよ!

凡人が凡人を歌うのではなくて、天才が天才を歌うのでもなくて、天才が凡人を歌う。
そこに感動するのかなぁって。

しかし実際は、宮本さんは天才なのか?凡人なのか?って聞かれれば、私は「わからない」って答える。

「天才が凡人を歌う」から感動するって書いたけど、あるいは逆で、「凡人が天才になる」から感動するのかなとも思うから。
時として天才に、時として凡人に、その「天才性と凡人性を行き来する才能」に惹かれているのかも知れない。

おっと、全然ライヴの話じゃない。

今回、「悲しみの果て」も「今宵の月のように」もやらなかったけど、新曲を2曲やりました。

“幸せよ、この指とまれ~” って歌う曲と “赤き空よ~” って歌う曲でした。ユニバーサル移籍後の延長にあるような曲だとも思ったけれど、もっと渋いような気もした。

アンコール一回目の最後、「桜の花、舞い上がる道を」。

このときに私は、前に書いたように「いてくれるだけで良い」という感情の尊さというか美しさというか大きさというか、崇高さといったら大げさかも知れないけど、いやしかしそれも大げさではないという、そういう感覚を味わったんです。

前述したように、私には雑念がありましたから、結局、どんな作品を出そうとも、どんなライヴをしようとも、私は「好き」に負けてしまうのではないか、そんな私にはもはや審美眼など残っていないのではないかという疑念があったわけです。あゆのライヴをキッカケに色々考えているうちに、結局なんだかんだ言って「好き」に負けてるんじゃないか、エラそうなこと言ってるけど「好き」なだけじゃないか、そう思えてきて。

でもね、「好き」。これに勝る感情はないんじゃないかって思えてきて。
そこからすべては始まってるんじゃないかって思えてきて。

開き直りじゃないですよ。いや、開き直りと思われても良い。
だって、振り返ってみれば、私だって、何でも良いわけじゃないんだもの。
かつて、エレカシと同じくらいに、あゆと同じくらいに、熱くなった、好きになったアーティストもいた。
けれど、いつしか作品も聴かなくなり、ライヴにも行かなくなり、そういう人もいるんです。
けれど、エレカシやあゆは、なんだかんだ言って、またこうしてライヴに来ている。
それがすべてじゃないかと。

そういうことを言ってくれている演奏でした、「桜の花、舞い上がる道を」は。
って、どんなんじゃい! こんなん、私の個人的な思いだけじゃん。でも、ライヴで感じることなんてそんなもんかもね(←開き直り?)。
とにかく、パーッと視界が開けていくような、希望や光を感じさせる「桜の花、舞い上がる道を」だったんです。

最後の曲、「待つ男」。

ここで私は自分の “心の声” に気が付きました。

「また4人のエレカシが見たい」

サポートの、蔦谷好位置さんやヒラマミキオさんも含めてエレカシなんだという考えもわかるんです。いや、これはライヴに限った話ではありません。最近のエレカシの作品では、蔦谷好位置さんや亀田誠治さんなどの強力なプロデューサーが関わっていて、それによってエレカシの4人だけでは出せなかった音が出せ、しかし、それも含めてエレカシなんだという、それはそれでわかるんです。どんな人が関わろうとも、エレカシの4人がドシッと核にいればエレカシなんだと、「総和でひとつになればいい」、「バンドが大きくなった」と宮本さんも言っていたけれど、それもわかるんです。

いや、当事者じゃない私には宮本さんやバンドの苦労なんて知る由もないから、わかってないのかも知れない。けれど、強力なプロデューサーと出会い、バンドが大きくなっていく過程には、落とし穴だってあるはずなんだ。「楽をしてしまう」という落とし穴だって…。

音楽は根性論じゃない。技術だって必要だ。
しかし私は、あの剥き出しの『俺の道』や起死回生の『DEAD OR ALIVE』が大好きだ。
「待つ男」の、蔦谷さんとヒラマさんの入る隙がない感じ(私にはそう見えた)が痛快にも見えたんだ。
しかしもちろん、「絆」だって「桜の花、舞い上がる道を」だって素晴らしい曲だし、絶対に必要な曲だ。

さぁ、どうなる、次のエレカシ!!

あ、これ楽しみです。

http://natalie.mu/news/show/id/26157