今日は、志村正彦とのお別れの会「志村會」が中野サンプラザにて行われている。
フジファブリック・志村正彦さんのお別れ会「志村會」開催 【オリコン】
2010年になってから20日が過ぎようとしていますが、早くも挫けそうになることってありますよねー。でも、そんなとき思うんです。2010年、これは志村くんが迎えたくても迎えられなかった年なんだ、今日という日は志村くんが知ることのできなかった日なんだ、と。こんなことを尊く受け止めてたく思えるようになったのは、志村くんのおかげであり、あゆの「RED LINE ~for TA~」のおかげでもあります。
私は、今でこそこうして、浜崎あゆみのことを書いているわけですが、以前は浜崎あゆみのことなんて気にもしていなかったんですよ。いや、すみません、嘘つきました。気にしていなかったんじゃなくて、「嫌って」いました。つまり、気にはしていたんですねー、なんて涼しい顔して言えません。嫌っていたんですから。
それが、あるとき、何かが逆転してしまったんです。そのことを書き出すと長くなってしまうので今回はやめておきますが、それからというもの、それまで信じてたものが嘘っぽく見えたり、嘘だと思ってたものが違って見えたり。虚の中に実を見つけたというか。でも、すべてが逆転してしまったのではなくて、繋がっていたというか。
まぁ、だから、嫌っていたからこそ、浜崎あゆみに対して否定的なスタンスに敏感かつ過剰に反応してしまうところがあります。
そして、かつての自分がそうだったからに違いないのですが、浜崎あゆみ以外の自分が好きな音楽と浜崎あゆみは全く別次元の音楽であり相容れないと思われているんじゃないか、という勝手かつ余計な先入観がいまだに私の心を邪魔します。
簡単に言っちゃうと、ビートルズとかレディオヘッドとかビョークとかエレカシとかくるりとかゆらゆら帝国とか好きな人には浜崎あゆみは好きになってもらえないだろうなぁっていう思い込みです(何だそんなことか)。
世界は広いのにね。
そういうの、ビートルズにもレディオヘッドにもビョークにもエレカシにもくるりにもゆらゆら帝国にも浜崎あゆみにもそれらを好きな人にも失礼なのにね。
私はそれをわかってない!
音楽に失礼だ!
フジファブリックの志村正彦くんが亡くなって、志村くんやフジファブリックについて書いているブログをたくさん見かけました。
それだけ志村くんが愛されているということですが、その中で、フジファブリックの「若者のすべて」と浜崎あゆみの「You were...」を繋げて書かれている方がいました。
こういうものに出会う度に、私は自分の浅はかさを思い知り、反省します。
音楽を舐めるな!
○○好きにはわかってもらえない?
ばかやろー! 音楽はそんなもんじゃない!
音楽は、私が思う以上に、大きくて、深くて、果てしなくて、すごい。
その方のブログは以前から読んでいたんです。その方は「言葉に深く関わる仕事」をされていて、そんな方があゆのことを「天才詩人」だと書いていました。あえて歌詞でなく詩と書いていました。
白状ついでに、私はこれまで「歌詞」を軽視していたように思います。聴くのはもっぱら洋楽って時期もあったし、歌詞が英語なら直接的には伝わってこないので尚更気にしていなかったと思います。
けれど、何にも気にしていなかったわけではなく、ビートルズが「ヘルプ!」と歌えば、こんな明るく陽気に「助けて!」と歌うそのバックグラウンドに色々な心情や情景を重ねてみたりもしてたわけです。
だから、これからはもっと「歌詞」に心を向けよう!
特にあゆは、「歌詞」が注目されることが多いし。
上記のブログでは、「You were...」に「今のフジファブリックファン、志村正彦ファンの気持ち」を重ねていました。それを読んでから改めて「You were...」を聴いてみたら、また違った風に聴こえました。
こんな風に、あゆの歌詞は、そのときそのときの気持ちに不思議とリンクしてしまうところがある。そのときそのときで表情を変えるというか、どうとでもとれるというか。でも、芯がしっかりあるんですよね。どうとでもとれるのに、芯がブレない。ブレないからこそ、どうとでもとれるのかも知れない。
そして、私が気になったのは、フジファブリックの「若者のすべて」にも浜崎あゆみの「You were...」にも共通して出てくる「夢の続き」という言葉。「若者のすべて」では “途切れた夢の続きをとり戻したくなって”、「You were...」では “いつか話してた夢の続きも” って出てくるのですが、“夢” ではなく “夢の続き” ってところが良いなぁって思いました。“夢” ではなく “夢の続き” とすることで、多くのことを語れてる気がする。夢が途中で途切れてしまったことも、それでも夢の続きを描くことはできるかも知れないという希望も。
そして、「夢の続き」というフレーズで思い出した歌がありました。
浜崎あゆみの「Dolls」です。
この歌、そんなに思い入れがあるわけじゃなかったけど、これを機に歌詞を読み直してみたら、なんかものすごく胸にせまってくるものがありました。
志村くんの死、「若者のすべて」、「You were...」、そして、「Dolls」という順に巡り合ったら、また違った表情を見せました。
“人生(トキ)が刹那の夢であるなら” と、それを “花の様なものでしょうか” と例えるなんて、エレカシの「桜の花、舞い上がる道を」と同じじゃないですか!
…と、寄り道は置いといて(笑)、思い入れがあるわけじゃなかった「Dolls」ですが、下記のフレーズは当初からすごいと思っていました。
“此処が世界の果てであっても
夢の続きを見せてあげたい”
なんかこれ、すごくないですか?
前述したブログの記事でも、「You were...」は「女の抒情詩」と表されていましたが、これもまさに「女性ならでは」のような気がする。
いや、私も、此処が世界の果てであっても夢の続きを見せてあげられる女でありたいよ、まったく(笑)。
いやぁ、やっぱり、これからはもっともっと「歌詞」に心を向けていくぞ!
じゃなきゃ、もったいない!
ちなみに、私が初めて浜崎あゆみ(の歌詞)ってすごいかもって思ったのは、おそらく「TO BE」です。
“自分自身だったか 周りだったか それともただの
時計だったかな 壊れそうになってたものは”
ここで “時計” が出てくるのがすごい!
なんか私、「すごい」って言葉でしか表現できてない気がする(笑)。
これからは「歌詞」についてもっとちゃんと表現できるようになりたい。
ほら、ビートルズだろうがレディオヘッドだろうがビョークだろうがエレカシだろうがくるりだろうがゆらゆら帝国だろうが浜崎あゆみだろうがフジファブリックだろうが、すべては繋がっているよ。
その手がどんなに遠くても繋がっているってことを「赤い糸」って呼んでみたんだ。