こんにちは!😄この度、私は再びアマゾンキンドルで電子ノベルを出す事となりました!今度はホラーです。

 

【霊能者がいきなり帰りだした殺人現場で起きた最狂の話】

 

「霊能者が逃げ、刑事が狂い、村が滅びる」

 

霊能者すら逃げ出した、封印が解かれた村に潜む、名状しがたい「首回し」の恐怖。

 

一家全員が密室で不可解な死を遂げるという異常事件。

 

呼ばれた霊能者は、屋敷の門前で青ざめ、そのまま逃走。

 

事件の解決を託されたのは、超常現象を一切信じない刑事・望月圭介でした。

 

屋敷に残された異様な痕跡、首が180度回転した死体、封印された「邪悪なもの」。

 

捜査が進むにつれ、村の古い伝承「首回し」の存在が明らかになります。

 

だが、真の恐怖は、解決後に待ち受けています――。

 

やがて刑事の中に芽生える“内なる悪”。

 

崩壊する理性と、首回しに取り憑かれた肉体。

 

村の人々が次々と消え、世界を覆う絶望が始まります。

 

これは、恐怖の本当の終わりを知らない者たちの物語。

 

封印は果たして可能なのか――あなたは、この最狂の結末を直視できますか。🫠

 

 

霊能者がいきなり帰りだした殺人現場で起きた最狂の話

(本作はキンドルアンリミテッド読み放題対象・会員無料作品となります。)


 

連続企業爆破事件で1975年に指名手配されていた桐島聡容疑者(当時21歳)。

 

彼の写真は、当時の長髪、眼鏡をかけた若い学生姿でした。それから50年──まるで別人です。その差こそが、警察にとっての“無理ゲー”の核心でした。予防


1. 経年による容貌の変化


桐島の指名手配写真は1970年代の「笑顔の学生」そのもの。白黒写真は色気もなく、皺もシミもない平均的な顔立ちに見えます。

 

だが、実際には70代となり、長い潜伏生活で顔つきは大きく変化していました。警察が頼れるのは「半世紀前の顔」だけ──これでは見つけようがありません。

一部ニュースも、写真の顔が「ずっと貼り出されてきたが、追跡には無力だった」と報じています。


2. “思い込み”を生む写真のイメージ力


指名手配写真はイメージを固定します。「こんな顔だったはず」と、無意識に刷り込まれ、現物と認識できない事態を招きます。

ある報道も「写真の若い笑顔は、実際には構築された“昭和の学生像”で、今の本人とは全く異なる」と分析しています。


3. 写真更新の遅れ=情報の陳腐化


桐島ケースでは、警察が写真を更新することはできませんでした。「指名手配から50年」間、捜査資料はほぼ更新されず、最終的に本人が病院で名乗らない限り発見できなかったのです。

一部、病院で容疑者が自ら名乗らなければ捕まえられなかったと報じています。


4. “平凡で溶け込む”生活との落差


桐島は「内田洋」として現金生活・偽名・身分証ナシで働き続けたと言われます。まるで普通の労働者。あの写真の学生が、こんなおじさんになって地元に馴染んでいるという落差──そこに捜査の“死角”が生まれました。


5. 指名手配写真の限界と必要性の矛盾


昭和から令和に移り変わる間、顔は歳を取り、体型も変わる。警察の高度な捜査網も、根幹となる「顔照合」に頼らざるを得ませんでした。

手をこまねいていたわけではない──しかし、写真と本人の乖離、古い情報のまま更新がなければ、指名手配写真は道具としても“死んでいる”状態だったのです。

 

教訓:「写真・情報の更新なくして追跡なし」


桐島聡容疑者追跡の“無理ゲー”は、単なる追跡ミスではなく、制度そのものの限界を示しました。指名手配写真を使うなら、定期的な更新やAI顔認識の統合といった工夫が不可欠です。

写真は“断片”にすぎず、それをどう育てて更新するか。追跡の鍵は、過去の情報に縛られず、変化を許容するシステムを作れるかどうか──そこにあるのではないでしょうか!!真顔

 

PDCAサイクルの錯覚──努力してもヒットしない理由とは?

こんにちは。
今回は、多くのビジネスパーソンが信じて疑わない「PDCAサイクル」について、少し違った角度から考えてみたいと思います。

よく「PDCAを回せば成功に近づける」と言われますが、果たして本当にそうでしょうか?
特に、「商品開発」や「ヒットを狙うマーケティング」のような分野では、必ずしもPDCAが効果を発揮するとは限らないのです。


■ PDCAとは何か?そして、なぜ信じられているのか? 泣き笑い


まず基本的なおさらいです。 PDCAとは、

Plan(計画)
 

Do(実行)
 

Check(評価)
 

Act(改善)

という4つのステップを繰り返しながら、業務や製品を少しずつ改善していくという考え方です。

この手法はもともと、製造業や品質管理といった「再現性」のある業務において強力な効果を発揮してきました。その成果が広く評価され、今ではビジネス全般で使われるようになっています。

しかし、ここにひとつ大きな落とし穴があります。


■ 商品がヒットする理由は、PDCAとは限らない


たとえば、ある商品が何年も売れなかったのに、ある年から突然ヒットする──こんな話を聞いたことがあるのではないでしょうか? 悲しい

一見、これは「PDCAの成果」と考えたくなりますが、実はそうとは限りません。

というのも、商品がヒットする背景には以下のような「偶然の要素」が強く関わっていることがあるからです。

- 時代やトレンドの変化

- SNSなどでの拡散(偶発的なバズ)

- たまたま影響力のある人物が使った

- 社会的なムードや空気との一致

つまり、いくらPDCAで地道に改善しても、ヒットしたその本当の理由が「偶然」や「文脈」といったコントロール不可能な要素であることも多いのです。



■ FXや株と似ている? 「再現できない世界」の話


この構造は、投資の世界──たとえばFXや株式取引にも似ています。

投資の世界では、「分析して行動しても、必ず儲かるとは限らない」「過去の成功は未来の利益を保証しない」というのが当たり前の考え方です。

同じように、商品や企画も「PDCAを回したから成功する」というような単純な話ではなく、むしろ「回していたら偶然ヒットした」というケースのほうが多いのではないでしょうか。


■ PDCAの有効な場面、そうでない場面
 

誤解のないように申し上げますが、PDCAそのものを否定しているわけではありません。
むしろ、以下のような場面では非常に有効です。

A 「適した場面」         B 「理由」 とすると・・・・。


A 製造業・品質管理    B 不良率などが数字で管理でき、再現性がある
A 飲食店の接客改善    B 顧客の反応が安定しており、改善しやすい
A 定型業務の効率化    B 手順が明確で、改善点が可視化しやすい

一方で、以下のような場面ではPDCAが錯覚に近くなることがあります。

A 「適した場面」         B 「理由」 とすると・・・・。


A 商品ヒットを狙う    B 流行や感性が大きく、数値化しにくい
A SNS施策のバズ狙い    B 拡散の構造は予測不能
A 若者向けカルチャー商品    B 感情・直感・空気感が支配的


■ 努力の正当化ツールとしてのPDCA ちょっと不満


PDCAがもたらす最大のメリットは、「やるべきことが見える」安心感です。
しかし裏を返せば、それは「頑張っている感」の演出でもあります。

現実には、どれだけ回しても成果が出ないこともある。


でもPDCAを信じていると、「もっと回せば結果が出るはずだ」と思ってしまう。
このとき、PDCAは努力の正当化ツールになってしまうのです。


■ 終わりに ~ ヒットは「狙って出す」ものではない


成功する商品には、努力や改善の成果もあります。
しかし、それ以上に「偶然の一致」や「時代の波」による側面が強いのが現実です。

だからこそ、PDCAを盲信するのではなく、

運を受け入れる柔軟さ

再現できない成功を過信しない冷静さ

直感や偶然の価値を軽視しない姿勢

が、これからの時代には求められているのかもしれません!!指差し

 

■はじめに


私たち日本人は、日常の中で言葉に深い意味を求めがちです。ときにその意味づけが、あたかも「漢字の成り立ち」そのものに根ざしているかのように語られます。ちょっと不満

例えば――
「人という字は、人が支え合っている形だ」
「音楽は音を楽しむと書く。だから楽しめばいい」
「志は士の心と書く。だから武士のような志を持て」

こうした表現は、学校の授業や自己啓発本、スピーチ、SNS投稿に至るまで、さまざまな場面で使われています。一見すると味わい深く、感銘を受けそうになりますが――よくよく考えると、これはとても危うい思考パターンではないでしょうか。

 

■漢字の意味に「真理」を見てしまう日本人


漢字は、本来は象形や指事などの記号的な成り立ちをもつ道具にすぎません。
「人」という字が、人の脚に似ていたり、立ち姿を表していたというのは、古代中国で偶然に形成されたものです。それが「支え合う」形に見えるからといって、「人間は助け合う存在である」と断言するのは飛躍です。

同様に、「音楽」は「音+楽」であって、「音学」ではないことをもって「音を楽しめばよい」とするのも危険な論理です。楽譜も楽器も知らずに、果たして音楽が成り立つでしょうか?



■言葉遊びが、思考を止めてしまうとき 悲しい


「〇〇という字は、〇〇と書くから~なんだ」という言い回しは、道徳的な説教や精神論を補強するための便利なレトリックです。聞く側も、字を目で見て「なるほど」と納得してしまいやすい。

けれどもこれは、文字に「意味の必然性」があるという幻想です。たまたま漢字がその形で成立しただけであって、そこに真理があるわけではない。

これを別の例に置き換えると、そのおかしさがよくわかります。

「田中さんは『田』と『中』と書くんだから、田んぼの中に住むべきだ」
「山田さんは山の近くに住まなければならない」

こんな話が真顔で語られたら、私たちはすぐに「それは違う」と気づきます。けれども「志は士の心」や「愛車と書くから車は他よりも愛すべきもの」といった話になると、なぜかその“嘘”が心に響いてしまうのです。


■過剰な「字義信仰」は思考停止を招く 目がハート


こうした「字面による意味づけ」は、言葉に宿る本来の多義性や流動性を失わせ、思考の幅を狭めます。「この言葉はこういう意味であるべきだ」という先入観が生まれ、その言葉が持つ他の可能性や文脈を遮断してしまうのです。

言葉や漢字は、道具であり、記号であり、時代とともに変化する文化資産です。それを固定化し、「文字がそうだから人間もそうであるべきだ」とするのは、思考の自由や言語の豊かさを損ねることになります。


■おわりに


「〇〇と書くから〇〇だ」と語られる言葉には、注意が必要です。
その言葉にどれだけ感銘を受けても、それは単なるレトリックであり、根拠のある真理ではないことを忘れてはならないのです。

もちろん、そうした言葉遊びに美しさやロマンを見いだすことを、完全に否定するわけではありません。しかし、その一時的な感動や納得感を“真実”と取り違えない姿勢こそが、成熟した言語感覚と言えるのではないでしょうか。指差し

 

こんにちは。さて私たちは時々、精神を病んだ人に対して「どうして自分が病気だと気づかないの?」と思うことがあります。ちょっと不満

 

とくに薬物によって引き起こされる精神病(薬物精神病)や、統合失調症などの症状を目の当たりにしたとき、その疑問は強くなるかもしれません。

私は最近、薬物精神病について調べる中で、興味深い一種の答えにたどり着きました。

 

それは、「専門家(精神科の医師など)であっても、自分自身が精神病になったときに病識(=自分が病気であるという認識)を持つのは難しい」という事実です。

一見すると不思議ですよね。精神科医や研究者のように、その病について豊富な知識を持つ人であれば、なおさら早く気づけるのではないか?と感じるのが自然です。

 

ところが実際には、知識が豊富であることが逆に気づきを妨げる要因になることさえあるのです。

薬物精神病では、脳内のドーパミン放出が異常に高まることで、現実に対する不安や恐怖が増幅されます。

 

そして、目の前で起きている「科学的にはあり得ないこと」が、頭では否定できても、「直感的には確かだ」と思えてしまう。これは、もはや思考が始まる前の段階で“現実認識”そのものがズレてしまっている状態です。

このとき、専門家であればあるほど、その直感に整合性を与えようとします。「こんなことは説明できない…でも、これは陰謀かもしれない」「自分は狙われているのでは」など、豊富な知識の中から“病気ではない理由”を理論的に組み立ててしまうのです。

つまり、直感(感覚)と知性(知識)が別方向を向いてしまうのです。

こうした背景から、精神病においては「自分が病気である」と自力で認めることは、想像以上に難しい。

 

だからこそ、医療機関による第三者の視点が必要不可欠になります。冷静で客観的なフィードバックがなければ、いくら頭脳明晰でも、自らの異常に気づくのは困難です。


~ 終わりに ~


精神疾患に対する誤解はまだまだ多く、「自覚がないのはおかしい」「怠けているだけだ」という偏見も根強くあります。

 

しかし脳の仕組みや実際の症状を知ると、それがどれほど非現実的な期待であるかが見えてきます。

たとえ医師であっても、あるいは高い知能を持つ人であっても、人の脳は一度バランスを崩すと、自分の「常識」そのものが塗り替えられてしまう。

 

この事実を知っておくことは、身近な誰かが苦しんでいるときにも、偏見ではなく理解で接する第一歩になるのではないでしょうか。真顔