■はじめに


私たち日本人は、日常の中で言葉に深い意味を求めがちです。ときにその意味づけが、あたかも「漢字の成り立ち」そのものに根ざしているかのように語られます。ちょっと不満

例えば――
「人という字は、人が支え合っている形だ」
「音楽は音を楽しむと書く。だから楽しめばいい」
「志は士の心と書く。だから武士のような志を持て」

こうした表現は、学校の授業や自己啓発本、スピーチ、SNS投稿に至るまで、さまざまな場面で使われています。一見すると味わい深く、感銘を受けそうになりますが――よくよく考えると、これはとても危うい思考パターンではないでしょうか。

 

■漢字の意味に「真理」を見てしまう日本人


漢字は、本来は象形や指事などの記号的な成り立ちをもつ道具にすぎません。
「人」という字が、人の脚に似ていたり、立ち姿を表していたというのは、古代中国で偶然に形成されたものです。それが「支え合う」形に見えるからといって、「人間は助け合う存在である」と断言するのは飛躍です。

同様に、「音楽」は「音+楽」であって、「音学」ではないことをもって「音を楽しめばよい」とするのも危険な論理です。楽譜も楽器も知らずに、果たして音楽が成り立つでしょうか?



■言葉遊びが、思考を止めてしまうとき 悲しい


「〇〇という字は、〇〇と書くから~なんだ」という言い回しは、道徳的な説教や精神論を補強するための便利なレトリックです。聞く側も、字を目で見て「なるほど」と納得してしまいやすい。

けれどもこれは、文字に「意味の必然性」があるという幻想です。たまたま漢字がその形で成立しただけであって、そこに真理があるわけではない。

これを別の例に置き換えると、そのおかしさがよくわかります。

「田中さんは『田』と『中』と書くんだから、田んぼの中に住むべきだ」
「山田さんは山の近くに住まなければならない」

こんな話が真顔で語られたら、私たちはすぐに「それは違う」と気づきます。けれども「志は士の心」や「愛車と書くから車は他よりも愛すべきもの」といった話になると、なぜかその“嘘”が心に響いてしまうのです。


■過剰な「字義信仰」は思考停止を招く 目がハート


こうした「字面による意味づけ」は、言葉に宿る本来の多義性や流動性を失わせ、思考の幅を狭めます。「この言葉はこういう意味であるべきだ」という先入観が生まれ、その言葉が持つ他の可能性や文脈を遮断してしまうのです。

言葉や漢字は、道具であり、記号であり、時代とともに変化する文化資産です。それを固定化し、「文字がそうだから人間もそうであるべきだ」とするのは、思考の自由や言語の豊かさを損ねることになります。


■おわりに


「〇〇と書くから〇〇だ」と語られる言葉には、注意が必要です。
その言葉にどれだけ感銘を受けても、それは単なるレトリックであり、根拠のある真理ではないことを忘れてはならないのです。

もちろん、そうした言葉遊びに美しさやロマンを見いだすことを、完全に否定するわけではありません。しかし、その一時的な感動や納得感を“真実”と取り違えない姿勢こそが、成熟した言語感覚と言えるのではないでしょうか。指差し