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always from scratch

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前回2社目で働き続けることに黄信号が灯って転職に至るといった内容で終わったのでその続き

 

5年目の私は社歴で見ても上位の方であった。もともとが小さなベンチャー企業であった為5年も努めたら上に上がって来るのはある程度自然な流れではあるが…私より上は10年戦士達であり年齢においても40代であることからこのまま勤め上げるのではないかと思う。

 

何でこれだけ長く勤められた会社、待遇も良く生活していく上で何一つも不自由しないのに不満を感じたかと言うと単純に言ってしまえばもっと仕事がしたいのだ。求めるのは質と量両方で5年勤めた後に分かっていたのはこの会社では得られないものだった。

 

そんな事を思いつつも会社を移るのは1年は先かなと考えていた矢先の出来事だった。いつもの客先で仕事をこなしているとそこの担当者から声をかけられた。その内容がもう察しが着くと思うが仕事の紹介だった。

 

私はお客さんの顔を立てるつもりで快諾し、一先ず話を聞く事とした。どこの会社か分からないが今よりもいい条件で仕事が出来るものかと行った感じで本当に軽い気持ちだった。

 

結論から言うと面接をカジュアルなものも含めて3回ほどこなした後に受かってしまった。そしてその条件がまた驚いたもので今よりもいい条件、年収は10%以上アップで仕事についてもその当時自分が興味があると常々感じているものに比較的近く、それもエンタープライズクラスの規模で働けるので気持ちがとても揺らいだ。

 

今までお世話になって、自分がここまで自身を付けられたのは紛れもなくこの企業で働くことが出来たからであり恩も感じていた。結論はシンプルで、もっと大きな環境でチャレンジしたいとの一心で転職を決意した。

 

第3社目へと続く…

前回2社目での順風な滑り出しをしたところまで書きましたのでその続き

 

1年目の目標を無事クリアした私に待っていたのはご褒美の褒賞金と新しい仕事のチャレンジだった。

まずは資格取得ボーナスの50万、これは前回書いた資格取得のプロセスで結構自腹を切ったのでありがたい話である。

 

そして重要なのはヘルプデスクからの脱却と新しい仕事へのチャレンジである。具体的には今までの週5日の出向から週3へシフト、残りの週2日を自社内で過ごし別の仕事をするといった変更が下された。そしてやりたかったサーバーやネットワーク差し詰めインフラのお仕事が徐々に出来る環境がそこに出来上がりつつあった。

 

ここからはうろ覚えになっているのと長いので割愛させていただくが2年目から4年目までは色々な仕事を経験させて頂き成長を続けた。会社にも評価され年収は800万程度になり、チームの中核にもなりつつあった。この頃の私は自社に戻ったり出向したりを繰り返していてお客さん企業である出先にてサーバーエンジニアを主にこなしていて、自社では主にネットワーク関連の案件にあたるといった幅広い業務をこなしていたと思う。

 

お給料も増え、仕事も充実はしていたが4年目後半のあたりから疑問というか不安といった類の気持ちが時々自分の中に現れるようになった。それは自分の志向と会社の方針の違いであったり、やりたい仕事がなかなか無いといったフラストレーションであった。またこの頃から会社のスタイルがガラリと変わり、採用される人の毛色が変わり多くの既存の人間が会社に対して疑問を頂くようになっていた。

 

そして自分のこの会社における将来に対して段々と希望を持てなくなっていってしまったのだ。

 

そして新たな転機が訪れる、そう再度の転職である。

 

その6へ続く…

2社目でのスタートを切って私は希望、期待に満ちていた。心機一転頑張ろうと心に決めたからだ。

 

当時、チームは2つあり、アメリカ人がリーダーのチームと日本人がリーダーのチームで私は日本人のリーダーここではIさんとさせていただき、Iさんのチームで業務をさせてもらう事になった。

 

その時私のほかに、同い年のAさん、ちょっと年上の曲者Tさんがいた。小さなチームだが日本人で構成されたこの環境に新鮮味をもっていた。なんせ前社では全員外国人であり、チームという名はあったもののロクに協力した作業はなく、各々仕事をこなしていたのでよく言えば自立していたが逆にいうとチームプレーとかはなかった。なのでちゃんと上の人がいて、周りに協力してもらえる人が居るというのはこんなにも心地いいものかと思ったものだった。

 

そんな庇護のもと、徐々に仕事を覚えていこうというところだったがそんなに甘くはなく、すぐに出向させられる事となる。

製薬会社でのヘルプデスクである。ここで当分は会社に貢献してその間に資格など取った上でヘルプデスク以外のもっと構築だとかそういった類の仕事を徐々に頂けるといった口約束をいただいた。

 

面接の中でも話して、今だから納得出来る話だがこのヘルプデスク関連の”出向”というのは出してる方も出されている方も美味しいので特に入ったばかりのペーペーをアサインするにはもってこい。

 

以前までの自分だったらここで腐ってまたデスクトップ周りのサポートか~、となっていたがモチベーションを高く保ち、自宅では毎日学習、職場でも暇な時間は同様に学習を続けて当時会社から課せられた最初の目標であるMCITPエンタープライズアドミニストレーターというMSのサーバー資格を約1年かけて取得した。初心者の自分にはとても大変な資格であり、そもそもこの肩書を得る為には合計4,5個のテストを受けてパスする必要があり、入社時に1個は持っていたがその1個を取るのに4回も落ちているのである。

 

当時1回あたりの試験費用が2万円くらいするので5回目で取得した自分は既に10万円を使っていた。会社は試験代を負担してくれるが使用期間である為そこが当てはまらず自腹を切って受験を繰り返していたのを覚えていて、金に困っていた時期であった。

 

IT系、特にインフラ系の資格試験は数が多く各々お金がかかるのである。基本的に以下のような費用が通常かかってくる

試験代 1万~3万(資格による)

教科書 2千円~5千円くらい

模擬テスト費用 1万前後

学習用の動画 1万程度(無くてもよい)

 

こんな感じで更に極めると、それに必要な実機の導入だったり青天井になる。ちなみに私が使ったテスト環境への投資額は通じて50万程度にはなっていると思う。これでも節約をしている方である。

 

少し話はそれたが、そんなこんなで課せられた目標を達成し会社にも評価してもらう事が出来、ここから加速して成長する事となる。

 

次回へと続く…

 

前回1社の会社を辞めるところで終わったのでその続き

 

当時29歳だった自分はともかく転職市場へ

転職活動はおろか就活自体ロクに経験の無い自分はとりあえず1社目の時に使ったCareerCrossと、その他にリクナビとかDodaを使って転職活動を始めた。

 

とりあえず履歴書をアップデートして、転職エージェントに合ってどんな仕事を紹介してもらえるかといったところだったのだが現実は予想に反して非常に厳しいものだったのを今でもよく覚えている。

 

当時辞める理由も特になく、もっと高度な事がしたいといったある意味世間知らずな頭で転職活動をしたもんだから恐らくエージェントにも足元を見られていたんじゃないかと思う。エンジニアとしての技術スキルはあまり身についておらず、唯一の武器は英語が得意、それくらいだった。

 

仕事自体の斡旋はしていただけるが、その時はある程度名前のある会社、トレンドマイクロとか、ANA関連のシステム会社とか、後は中堅のSierを紹介されていた記憶があり一先ず手当たり次第に受けていたと思う。だが結果が伴わず大体1次面接で落とされていた。

 

唯一面接を通り条件提示いただいた会社(KSKという会社)については会社自体悪くなさそうだったがいかんせん条件が厳しかった。そもそも当時の私の年収は500萬(年俸)をもらっていて(中身が薄いのに貰いすぎ)そこからどの程度まで落とすといった話ではあったが提示されたのは400万程度(ボーナス込み)、月の手取りが10万以上減ってしまう想定。なので30目前にして月の手取り30から10万円台への大幅ダウンを呑まなくてはいけない状況だった。

 

別に贅沢がしたい訳じゃないが非常に難しい決断だった。

ただそれとは別途もう1社内定に至った会社があり、後にそちらの会社に進むことになるのだがそちらは規模的には1社目よりも更に小さい50名程の会社。ただエンジニアの育成には力を入れているという話を面接でも伺い、その当時面接してもらった部長の人柄とその話に心を打たれて入社を決意したのを覚えている。

 

KSKについては日系の会社で歴史も古く、みんなで並んで頑張ろうといったいかにもな社風に映った。だが、同時の自分にはそういった仲間といった言葉を交わせる同僚エンジニアはおらず、孤独を感じていたためその入社用のイメージビデオか何かを見た時に涙腺が緩んだのも事実だった。自前の研修センターもあったりしてそこで技術研修など受けられたりと、私の理想がある程度用意されているように思えた。しかし、ここでもう1社の面接を受け、詳細には覚えていないのだが口頭で技術質疑と、実技試験を行い、その後フィードバックを貰ってエンジニアである為の姿勢であったり、根本的な心構えについて話を聞いているうちに自分の何がいけなかったかを気づかされ目がぱっと覚めた。いつも自分の成長を他力本願にしていた自分の間違い、簡単な事で当たり前であったがそれに気づけず、そしてそれに気づかせてくれたこの会社へ行ってこの人の下で働いてみたいと思った、目標が出来た瞬間だった。

 

年収は少し下がった、確か50万程度だったが少ない下げ幅で良いと思える会社への転職に至れた。

そしてその旨を上司へ話、退職し転職に至った。やはり私の辞め方に不満があったのか当時の先輩メンバーは迷惑そうな顔でこちらを見ていたのが今でも印象に残っていて、後味の良くないものだった。

 

だが私はその事や悔しさを胸に次は使われるだけのエンジニアではなく自立した、技術力で勝負出来るエンジニアになる事を目標に2社目へと進む事になる…

今回は書きかけていた帰国後から1社目での経験だったり、その時印象に覚えている事について書きたいと思う。

 

そもそも帰国するきっかけとなった1社目、今振り返ると外国人が始めたベンチャー企業でオフィスは港区、三田の辺りの雑居ビルの1フロアに入っていて、華やかなIT企業とはかけ離れたものだった。

 

私はインフラ系エンジニアなんですが、この会社が得意としていたのは俗にいうSESで人を自社で雇いつつもお客さん先に常駐させてお金をいただくという嫌われがちな業態で稼いでいたんじゃないかと思います。その証拠に自社オフィスに行っても人は10数人しかいない。会社全体で5,60人程度だったことから考えても半数以上が外に出されていたんじゃないかと思う。

 

私自身当時26,7で学校出たばっかりで全然わかってないかつ、責任感もあまりなかったので回される仕事はろくでもないものばかりでした。中でもひどかったのは南府中のBCPサイトに飛ばされて毎日古いPCのイメージングとか何百台とかやっていた。仕事自体は楽だったのであまり疑問も持たなかったけど今考えるとエンジニアとして大事な時間を浪費するハメになったなーと感じる。

そのほかにもPC交換の保守業務だったり、エンジニアとしてとしての成長はあまり出来なかったと思う。決してそういったエンジニアとして成長出来る仕事がなかった訳ではないが、少なかった。尚且つ私自身の考えが甘く、貪欲ではなく、考えが幼かった。働く事も大事だがまだ青春を楽しみたいといった部分がより強くて業務外の方ばかり充実させようとしていた。

 

海外で学校を卒業して、英語をしゃべるエンジニアとかなんとかいってかっこばかりの中身が伴わないエンジニアだったと深く反省してしています。

 

そんな会社で2年を過ぎてようやく自分の愚かさに気づき始めておかしいぞと思い始めても既に遅し。自分の評価なんて大した事ないし、昇給なんて一度もなく、いつになったらもっとエンジニアらしい仕事が出来るのか、教えてもらえるのかと随分他責な自分がそこにいて、それが間違った姿勢であった事を気づかされるのにそこからそれ程時間はかからなかった。

 

結果、若干メンタルがやられてしまい、その会社にそれ以上い続けるのは無理であり転職をしました。

ですが、その程度の経験しかない29歳のエンジニアに対する評価はとても厳しいものでした。

 

その2へ続く