暑い夏が長すぎて、今年はことのほか秋が駆け足で過ぎてゆきます。

行事ごとも多い季節ですので、いつものリズムが乱れ中間テストの間際に体調を崩す子、

また、中学生では学校の提出物を仕上げておらず、

塾でも授業を潰し学校のワークをやらざるを得ない子ども達も居ました。


2学期の立ち上がりがあまり上手く出来ていません。

学校の提出物が指定日までに出せなければ、

テストで100点取っても通知表に『1』が付く場合もあります。


それは義務教育では、偏差値以上に「約束を守る」という人間性を育てることに

重きを置いている公立学校の特徴かもしれません。

ですから、テストの結果は平均点以下であっても授業態度で学習意欲を認められ、

提出物やノートに一生懸命さが感じられれば『4』になった子もいます。

たとえば、学校の予習・復習をキチンとやり、

定期テストで弱点を克服する為に学校の提出物を3回以上あるいは

暗記までやっていれば、(たとえ基礎の理論、文法が解らず応用まで解けなくても)

平均点以上の点数は取れますし、

熱心さは学校の先生にも感じ取ってもらえるからでしょう。


ただし、実力テストや受験は別です。

本当の実力が問われるテストでは、

基礎・基本の定着を踏まえ応用問題まで出来るようになっていなければ

高得点は望めません。また、「実力テストは内申に付かないから。」と軽くみられがちですが、

実力が定着していなければ高校から伸び悩みます。

この事も踏まえ特に中3生は実力テストも高校選択の基準として学校側も対応します。

ですから公立高校入試に内申は重要ですが、

定期テストの点だけ取れれば良いという考えは危険です。

こういう気持ちで定期テストを捉え、テストが終わると記憶も白紙に戻り

ちっとも実力が定着しない子、付け焼刃な勉強しかやってこなかった子達が、

高校からの勉強の仕方が解らず入塾するケースも多々あります。


はっきり申せば、中学の定期テストでそこそこの点を取らせる事は

さほど難しくありません。上述したように日々の予習・復習とパターンを覚えれば

家庭学習で充分です。でも、高校からは丸暗記は通用しません。

問題の一問一問が複雑になるからです。

思考のセンスとギブアップしない粘りが必要になります。

そして、この力は「高校になったら付いてくるものでしょう。」では無く、

中学生までに鍛え上げておかなくては固まってしまうのです。

中学まで徹底的なパターン人間で受動的に仕上げらた思考は、独創的思考、想像力、

忍耐力を拒みます。なぜなら中学まで「このパターンを覚えれば良いから。」と

言われた通りにしかやらず点を取り、それなりの評価を受けていた子ども達は、

高校に入って何処からも指示出しがもらえ無いと、

自分で積み上げてきた基盤が無いため自分の判断が正しいかの自信が持てないのです。


「解らなければ自分から聞きに行くしか無いでしょう。もう高校生なのだから。」は

出来なくなっています。それまで、勉強に於いて能動的に動くチャンスを逃して来ましたし、


1つの問題の解き方が解らない前に勉強の仕方がわからない。

自分の勉強法で良いのか自信が持てないのです。


自信とは『自らを信じる』と書きます。

では、何が子ども達の自信になるのでしょう?

私は、それは『継続』だと思っています。ちょっと頑張って、まぐれで点が取れたでは、

弾みのきっかけにはなるでしょうが、自らを信じるには至りません。

自分の立つ土台は自分が築き上げたからこそ信じて立つことが出来るのです。


単語が中々覚えられない子がいました。10個の単語を10回書いても覚えられない。

再テストで20回練習しても合格しない。30回書いても…。

次の単元の単語に移ったとき、その子は「私は、30回練習しても覚えられないから、


50回書いて覚えてきます。」と言い、継続しました。1年後、

テストの得点は平均点+20点以上取れるようになっています。

でも、テストの点はその子の粘りに対する御褒美です。

なによりもその子は出来るまで諦めない事を学んだのです。


これが生きる力に繋がります。そしてこの事を重々感じて見えるからこそ、

基礎・基本を徹底的に演習し、応用問題が解ける迄の実力を塾に求められていると思うのですが、

いかがでしょうか?


無論その分、子ども達には負荷が掛かります。

①学校→②部活・習い事・クラブチーム→③学校の宿題→④学校の予習・復習。の上に

⑤来塾日か塾の宿題が加わるのですから、時間管理は大変です。

学校の宿題、予習・復習だけでも普通は1~2時間掛かります。

(英語で、予習なら本文の音読、意味、単語調べ。復習なら学校での板書の文法チェックと本文、

単語の暗記。学校ワークをやる、等)ラピスの宿題は(1~2時間/日)をベースに

配分しています。(学年、教科、時期によって違いますが)ですから


1日平均3~4時間は集中して勉強しなくては、「勉強しているのに…。」とは言い難い。


これを、365日です。お正月や、病気、用事等で出来ない日は前後で調整します。

それを、中学3年間やり遂げたということが自信になるのです。

『魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えろ!』と中国の諺にあるように、

ただ、点を取れればではなく、

勉強の仕方と継続へのサポートでラピスは子ども達に自信を付けさせたいと思います。





ウサギ2010年11月 通信~ニュースレター~①ウサギ


中3の国語特訓が強行に続いています。

中3生だけでなく、全ての生徒に国語は必須なのですが、

どうしても、数・英が中心になり、秋風が立つ頃からやっと佳境に入ります。


そして、例年の如く痛感するのは子ども達の国語力の無さですが、


14~15歳にもなる子達の聞く耳が育っていないこと、
語彙数の少なさ、

そしてその事になんの懸念を抱かないことにこちらが戸惑います。

ですから強制的に、とにかく沢山の文章に触れさせようと試みるのですが、

まず、じっくり文を読むことが定着するまで、2ヶ月以上掛かります。

「全文読むのは疲れる。」「大事なとこだけ教えて。」

「こんなに長いと何かいてあったか忘れちゃう…。」

あくまで問題文は何かの本の抜粋ですから、長くても2ページ程。

そのたった2ページを腰を据えて読むことに、多くの中学生が慣れていません。


文の中に入り込むということは、ある程度自分本位を捨て、

筆者の気持ちに沿うコツが必要です。それが、出来ない。

また、斜め走り読みで済まそうとしますから、要約もままなりません。

こちらが、「よく、読んで!」「注意深く、何度も確かめて!」と繰り返しても、

私達の思う「読む」と子ども達の「読む」は違うのです。

(眺める)に近いかもしれません。


これでは、どの教科に於いてもケアレスミスは減りません。

筆者が(設問者が)何を伝えたいのか(聞きたいのか)を読みとろうとはしないのです。

子ども達の「解らない。」には解き方が解らないのではなく、

問われていることが分からないことがよくあります。

一緒に読んだり本人の解る言葉に置き換えて伝えると、

「なんだ、それなら知ってる。もっと解りやすく書けばいいのに…。」

この言葉が使えるのは(噛み砕いて伝えないといけないのは)

幼い人ばかりでは無いのが現状です。

それでも国語以外の教科はその子その子に解り易い解説をすることが出来ますが、

国語に於いて感じ方や捕らえ方はその子のバックボーンや情緒に深く根ざします。

国語の平面的なこと(漢字や文法、構成)は国語以外の教科と同じく図式にし易くても、

想いの深さを教えるのは難しい。


たとえば、「あかとんぼ 筑波に 雲もなかりけり」という俳句を詠んだ

正岡子規は体を少しでも動かせば激痛を伴う「脊椎カリエス」を患いながら、

病床から裏庭を眺めこの短歌を詠んだそうです。

『この時の正岡子規についてあなたが感じることを200字程度で書きなさい』という問いには、

自身の奥行きの深さで答えるしかありません。

残念ながら、今の中3生はこれにどれだけ答えられるでしょうか?思考を停止し、

「先生、はやく答え教えてよ。」と待機中の顔が浮かびます。

あるいは、「先生はちっとも答えを教えてくれない。」と不満気な顔も。

その子ども達に子規の臥してなお、馳せ廻る想像力の豊かさ。心の自由さ。切なさ。

愛の深さ。をどうすれば感じさせることが出来るのか、と私は、毎晩膝を抱えます。


それでも、諦めるわけにはいかない。人の心の深遠を知り、

理解しようと模索し続けることは人として生きていく上での大きな課題です。

「わからん。」「うざい。」「受験の為に仕方なく。」では無く。

世代、人種、性別を超えて様々な想いを知り。

お互いを認め合うことに一歩踏み出すことが大切です。

出来れば、時間のゆとりの無い受験生であっても出来るだけ本は読んで欲しい。

それもジャンルを問わずに。世の「文学」と言われるものにも。

人一人の限りある命では出会いにも経験にもまた、限りがあります。

この翼の無い私達に代わり、時空間を羽ばたき、性別を越え、

思いもしなかった思慮の深さや感情の波に唸り、泪し、

数多の気付きを照らしてくれるものが本にはあります。散りばめられた言葉に、

行間に耳を澄まし、心を震わせてみて下さい。

それはきっと子ども達にとって生きる力になるでしょう。

だからこそ、多くの文に出会わせる糸口になる国語をおざなりにするわけにはいかないのです。

塾では、個別指導が全盛になって来ました。

「家の子に合った教え方で。」の要求が時代に呼応しているのでしょう。


でも、合わせられるのは、時間帯や上述した、

平面上での教え方(理論、数式、公式。解き方、しくみ)等を

その子のスキルに合わせて、工夫し教えることです。

それを、社会が定めた時間内に(テストや受験迄)使えるように覚え、

演習し出来るように合わせるのは子ども達。

その過程で、大人になれば、常識として求められる約束、時間を守ること。

与えられた課題に真摯に取り込む姿勢を身に付けていかねばなりません。

いかに、子ども達それぞれのペースであっても、です。

仕事に於いては求められたことを的確に迅速に答えることは鉄則です。個性はその答え方に活かされます。

ここで、人間的誠実さや幅、魅力をいかに表現出来るか、或いは、

求められたもの以上のものが表せるかは、

社会との関わりをどう見ているかにも連結します。

このことを、子ども達は受け止めなければなりません。

いままで、何かと自分本位に過ごしていた子ども達にとっては、

とても不自由さを感じるやもしれません。安易に答えは教えてもらず、

キリキリする程考え、体調不良や自分の都合で出来無い、は言い訳にせず、

限られた時間の中で達成させることを覚える。健康管理に自己責任を持ち、苦しくて、

何度もギブアップしながら、大人の階段を登って行きます。

でも、それは何のため?繰り返しますが、それは少しでも、

自分がお金持ちになって楽な暮らしをするためではありません。

自分を含む人を理解しようとし、ともに築く社会を歩む為です。


だからこそ、国語は必要なのです。自分がどんな社会を築きたいか

(最小単位は家庭ですが)どんな形で社会と交わり貢献していくか。

想いを馳せて下さい。想像力こそ人間が生きる最大の力です。

そして、その道しるべはふんだんに本の中にあるのです。



私はできれば、国語は個別にではなく授業が出来れば良いと思っています。

それも、ディスカッション形式の。


「家の子は人前で発言出来ないから個別を選んだのに…。」と思われるかもしれません。

でも、それでも私は一つの文章をディスカッションやリベートしたい。

他者の意見を聞く耳。それを咀嚼し自分の考えを掘り下げ、

いかに意見の相違を自分の中でまとめるか。自分の考えを伝えるか。を育てていきたい。

そこには先生×生徒とは違う自分が発見出来るでしょう。

難しい授業ですが、いつかはやってみたいと思います。





ウサギ2010年10月 通信~ニュースレター~ウサギ

自分が大切に思う人の笑顔を見ることが自分の幸せであり、自分の夢によって、

その笑顔を守りたいと願うこと。その尊さはたった一人の人であっても、

たくさんの人であっても変わりません。


私はよく、巡り合えた子供達がやがておじいちゃん、おばあちゃんになり孫を抱く風景を想い描きます。

その時、子供達は幼子が健やかに育つ事を祈らずにはいられないでしょう。

願わくば、抱かれた孫も年を取りその孫を抱く時も世界が平和であるように、と。


100年後の子供達がその100年後の世界も平和に、

豊に穏やかに発展していくことを望めるように祈ります。


今、このときだけ、自分だけが良ければ良いのでは無く。

人の中で生かされていることを知り、たくさんの大切な人たちと巡り会い、

自分の大切な人が住む世界が思い描き。子供達の子供達の子供達の為にまで、

志を抱いた子供達の夢が馳せていくように。


勉強は子供達が大志を抱き、それを叶える為の1つの手段です。

そして、どの子も等しく、勉強を通じて、努力を学び、誠実を知り、達成の喜びを覚えながら、

夢に近づく手応えを感じて行けます。大人が子ども達に語り継ぐこと。それは、子ども達が、

夢を=希望を=あこがれを=大きな志を持てるように、

明るい未来を構想させる力(愛)を育むということです。

今いる子供達と、子供たちの子供たちの子供たちの為に…。


ここに、同志社大学の創始者、新島襄の言葉を綴ります。


わが校の門をくぐりたるものは、

政治家になるもよし、

宗教家になるもよし、

実業家になるもよし、

教育家になるもよし、

文学者になるもよし、

且つ、少々角あるも可、

気骨あるも可、

ただかの優柔不断にして安逸を貪り、

苟も姑息の計を為すが如き

軟骨漢には決してならぬこと、

これ、予の切に望み、

ひとえに希うすることである。


100年後の子供達に想いを馳せれる子供を育むために。


ラピス ド エコールはこれからも志塾を目指して往きます。

ウサギ2010年8月 通信~ニュースレター~②ウサギ