中3の国語特訓が強行に続いています。
中3生だけでなく、全ての生徒に国語は必須なのですが、
どうしても、数・英が中心になり、秋風が立つ頃からやっと佳境に入ります。
そして、例年の如く痛感するのは子ども達の国語力の無さですが、
14~15歳にもなる子達の聞く耳が育っていないこと、語彙数の少なさ、
そしてその事になんの懸念を抱かないことにこちらが戸惑います。
ですから強制的に、とにかく沢山の文章に触れさせようと試みるのですが、
まず、じっくり文を読むことが定着するまで、2ヶ月以上掛かります。
「全文読むのは疲れる。」「大事なとこだけ教えて。」
「こんなに長いと何かいてあったか忘れちゃう…。」
あくまで問題文は何かの本の抜粋ですから、長くても2ページ程。
そのたった2ページを腰を据えて読むことに、多くの中学生が慣れていません。
文の中に入り込むということは、ある程度自分本位を捨て、
筆者の気持ちに沿うコツが必要です。それが、出来ない。
また、斜め走り読みで済まそうとしますから、要約もままなりません。
こちらが、「よく、読んで!」「注意深く、何度も確かめて!」と繰り返しても、
私達の思う「読む」と子ども達の「読む」は違うのです。
(眺める)に近いかもしれません。
これでは、どの教科に於いてもケアレスミスは減りません。
筆者が(設問者が)何を伝えたいのか(聞きたいのか)を読みとろうとはしないのです。
子ども達の「解らない。」には解き方が解らないのではなく、
問われていることが分からないことがよくあります。
一緒に読んだり本人の解る言葉に置き換えて伝えると、
「なんだ、それなら知ってる。もっと解りやすく書けばいいのに…。」
この言葉が使えるのは(噛み砕いて伝えないといけないのは)
幼い人ばかりでは無いのが現状です。
それでも国語以外の教科はその子その子に解り易い解説をすることが出来ますが、
国語に於いて感じ方や捕らえ方はその子のバックボーンや情緒に深く根ざします。
国語の平面的なこと(漢字や文法、構成)は国語以外の教科と同じく図式にし易くても、
想いの深さを教えるのは難しい。
たとえば、「あかとんぼ 筑波に 雲もなかりけり」という俳句を詠んだ
正岡子規は体を少しでも動かせば激痛を伴う「脊椎カリエス」を患いながら、
病床から裏庭を眺めこの短歌を詠んだそうです。
『この時の正岡子規についてあなたが感じることを200字程度で書きなさい』という問いには、
自身の奥行きの深さで答えるしかありません。
残念ながら、今の中3生はこれにどれだけ答えられるでしょうか?思考を停止し、
「先生、はやく答え教えてよ。」と待機中の顔が浮かびます。
あるいは、「先生はちっとも答えを教えてくれない。」と不満気な顔も。
その子ども達に子規の臥してなお、馳せ廻る想像力の豊かさ。心の自由さ。切なさ。
愛の深さ。をどうすれば感じさせることが出来るのか、と私は、毎晩膝を抱えます。
それでも、諦めるわけにはいかない。人の心の深遠を知り、
理解しようと模索し続けることは人として生きていく上での大きな課題です。
「わからん。」「うざい。」「受験の為に仕方なく。」では無く。
世代、人種、性別を超えて様々な想いを知り。
お互いを認め合うことに一歩踏み出すことが大切です。
出来れば、時間のゆとりの無い受験生であっても出来るだけ本は読んで欲しい。
それもジャンルを問わずに。世の「文学」と言われるものにも。
人一人の限りある命では出会いにも経験にもまた、限りがあります。
この翼の無い私達に代わり、時空間を羽ばたき、性別を越え、
思いもしなかった思慮の深さや感情の波に唸り、泪し、
数多の気付きを照らしてくれるものが本にはあります。散りばめられた言葉に、
行間に耳を澄まし、心を震わせてみて下さい。
それはきっと子ども達にとって生きる力になるでしょう。
だからこそ、多くの文に出会わせる糸口になる国語をおざなりにするわけにはいかないのです。
塾では、個別指導が全盛になって来ました。
「家の子に合った教え方で。」の要求が時代に呼応しているのでしょう。
でも、合わせられるのは、時間帯や上述した、
平面上での教え方(理論、数式、公式。解き方、しくみ)等を
その子のスキルに合わせて、工夫し教えることです。
それを、社会が定めた時間内に(テストや受験迄)使えるように覚え、
演習し出来るように合わせるのは子ども達。
その過程で、大人になれば、常識として求められる約束、時間を守ること。
与えられた課題に真摯に取り込む姿勢を身に付けていかねばなりません。
いかに、子ども達それぞれのペースであっても、です。
仕事に於いては求められたことを的確に迅速に答えることは鉄則です。個性はその答え方に活かされます。
ここで、人間的誠実さや幅、魅力をいかに表現出来るか、或いは、
求められたもの以上のものが表せるかは、
社会との関わりをどう見ているかにも連結します。
このことを、子ども達は受け止めなければなりません。
いままで、何かと自分本位に過ごしていた子ども達にとっては、
とても不自由さを感じるやもしれません。安易に答えは教えてもらず、
キリキリする程考え、体調不良や自分の都合で出来無い、は言い訳にせず、
限られた時間の中で達成させることを覚える。健康管理に自己責任を持ち、苦しくて、
何度もギブアップしながら、大人の階段を登って行きます。
でも、それは何のため?繰り返しますが、それは少しでも、
自分がお金持ちになって楽な暮らしをするためではありません。
自分を含む人を理解しようとし、ともに築く社会を歩む為です。
だからこそ、国語は必要なのです。自分がどんな社会を築きたいか
(最小単位は家庭ですが)どんな形で社会と交わり貢献していくか。
想いを馳せて下さい。想像力こそ人間が生きる最大の力です。
そして、その道しるべはふんだんに本の中にあるのです。
私はできれば、国語は個別にではなく授業が出来れば良いと思っています。
それも、ディスカッション形式の。
「家の子は人前で発言出来ないから個別を選んだのに…。」と思われるかもしれません。
でも、それでも私は一つの文章をディスカッションやリベートしたい。
他者の意見を聞く耳。それを咀嚼し自分の考えを掘り下げ、
いかに意見の相違を自分の中でまとめるか。自分の考えを伝えるか。を育てていきたい。
そこには先生×生徒とは違う自分が発見出来るでしょう。
難しい授業ですが、いつかはやってみたいと思います。
2010年10月 通信~ニュースレター~![]()