嘘をつくのは悪い? | 統一原理の生活化

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仏教では「嘘も方便」と言う話がある。法華経にある三車火宅の喩えから生まれた言葉である。ある長者が、火の燃えさかる家にいる三人の子供達にいくら「火事だ!出てこい!」と叫んでも出てこないので、嘘をついて、それぞれが好む羊車、鹿車、牛車を与えよう約束して出てきたという話。(話では出てきた子供たちにそれぞれに最も良い大白牛車を与えたとある)。

この説話で、長者の知恵で嘘をついたと言う話である。ガン患者にガンではないと伝えるのも嘘も方便。動機が善か悪かの問題としている捉え方である。

教会の中でもヤコブがエソウを騙したのも善の動機で神も認めていると言う考え方。私は嘘は善悪の問題以外の考え方も持っている。

嘘という漢字は「口と虚」と書くが虚は中身がないもの、実力がない、実が入っていないとなる。いわゆる「張子の虎」である。

原理的に考えると外的から内的になる。責任者の位置を与えて責任的な人間になる。条件を立ててから実体になるなど。

ヤコブはなぜエソウを騙してでも位置を奪ったのか?アベルとしてカインを復帰する人格も実力がなかったからである。そのままヤコブとエソウが一緒にいたら、イサクが亡くなる前に長子権を復帰できなかったかも知れない。その為、神も許可したのかも知れない。

しかし嘘をつくと言うのは、一時的には簡単に復帰てきる。しかし蕩減にはならない。その為、ヤコブはラバン叔父さんの所に行き、10度も騙されながら、苦労する中で人格を磨きアベルとなった。

何故10度も騙されたのか?これは1度の嘘の償いのため10倍蕩減で騙されるからだ。嘘は悪いと言うより、嘘をついて何かを上手くやっても、最終的には実質的な歩みをしないといけないのだ。

教会では良く条件的に勝利した立場に立てられるが、それでは最終的な勝利にはならない。氏族メシアも本来の勝利基準は430家庭の氏族を食口として自分が祝福する事になる。今は実体の時代であるので、実質的な基準を立てる事を認識するべきだと思う。