◎若林強斎『瀧津亭の記』に見える「はらへ」
そもそも心身の罪咎をはらひきよめて、
かの清々之のさかひにいたらむ事、
まことに、おのれが心の八十曲にまがれるをさとりなげきて、
ただちにさくなだりに落瀧津のはげしき心ざしをふるひたてて、
祓清むるにあらざれば、
その根をぬき、その源をさらへる事をえがたうして、
たやすく再犯なりやすし。
*垂加神道における「はらへ」の厳しさ、その心構えと覚悟のほどが伺えます。
伊勢:内宮の向かいの山:鼓ケ岳(標高355m)
◎鹿持雅澄の祝詞論
天皇の神祇(かみたち)に宣祈給へる大御詔の類と、王臣天ノ下ノ公民に宣教給へる大御詔の類は、上古より、歌詞にまさりて麗しくめでたく文(かざ)り給ひて物せさせ給ふことは、かの古語に、言霊のたすくる国、言霊のさきはふ国、とある意ばへにて、もとその言のうるはしく文あるに、神祇(かみ)も感(かまけ)てうづなひ給ひ、人民もめでゝまつろひしたがはむがための、御しわざの伝りたるものなり。(『萬葉集古義』総論)
*鹿持雅澄は「祝詞」の本質は「言霊」信仰であると考えています。
◆鹿持雅澄は、
生年: 寛政3.4.27 (1791.5.29)
没年: 安政5.8.19 (1858.9.25)
江戸後期の国学者,歌人。土佐(高知)藩の下級武士柳村惟則の子。妻菊子は土佐勤皇派武市瑞山の叔母。本姓藤原氏,その支流飛鳥井家の流と自称。鹿持は本籍地の名。名は雅澄のほか深澄,雅好など。通称原太,藤太。号は古義軒ほか。藩儒中村世潭に漢学を,宮地仲枝に国学,和歌を学んだ。生涯を微禄貧困のなかに送ったが,藩家老福岡孝則によって藩校の講義聴講,藩庫の蔵書閲覧の便宜を与えられた。『万葉集』注釈に生命をかけ,生涯国を出ず,ほとんど独学で学問研究に励んだ。その著『万葉集古義』141冊は,本文の注釈にとどまらず,枕詞から地理にいたるあらゆる分野の研究を網羅している。近代以前の万葉研究の最高峰といっても過言ではなく,維新後,天覧の栄に浴し,宮内省から出版された。また,万葉研究の過程で体得した復古精神は瑞山に受け継がれ,土佐の勤皇思想に大きな影響を与えた。<参考文献>尾形裕康『鹿持雅澄』,鴻巣隼雄『鹿持雅澄と万葉学』
(白石良夫)
http://kotobank.jp/word/%E9%B9%BF%E6%8C%81%E9%9B%85%E6%BE%84
より。
◎賀茂真淵『宇比麻奈備』序
皇學館大学では、初年度導入教育の一環として「初学び」という科目が設定されています。
http://www.kogakkan-u.ac.jp/html/literature/p05.php
「初学び」の命名は、賀茂真淵の「にひまなび」によると伺ったことがあります。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/niimanabi.htm
同じ賀茂真淵の著作に、そのものズバリの『うひまなび』もあります。
『うひまなび』は、『百人一首古説』の欠点を補うため晩年に改稿したものです。
http://libir.mukogawa-u.ac.jp/dspace/handle/10471/499
どちらが典拠なのでしょうか。『うひまなび』の序文を紹介します。
宇比麻奈備序
古ぬる世々の事をまなばんとするは、深き山に入が如し、
故其はじめをまさしくせざれは、しぎ山のみ霧にまどひ、
行道の責(まけ)にあひて、奥所もしらず成ぬなり、
落たぎつ清き瀬に身滌をし、脚日木の山口を斎ひて、
いさゝけも枉つことにまじこりせず、口まぜゝず、
神なほびの直きを心として、問放見さけ行ときぞ、
天雲の雲ゆうへなる、おく山の眞さか山にも登りたらめ、
しかのぼりては、山の曾支、海のそき、見明らめぬ處なく、
うつしみの世間の事をも、ひとり思ひあきらめたりなん、