大日本帝国のアジア侵略の本当 被占領国からの言葉その3 フィリピン | 熱血講師 ショーン 近藤 Leadership & Language Boot Camp

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さて、前回に引き続き被占領国からの言葉を紹介していきます。今回は、日本が占領政策において最も失敗した国フィリピンです。フィリピンにおいて日本が行った政策はことごとく失敗しました。

 

ここでその理由を解き明かしていきましょう。先ずは、歴史的背景について考察する必要があります。

 

フィリピンは、1500年代初頭からスペインの植民地となっておりました。かなり、古い時代から植民地にされていたようです。フィリピンの民族は、スペインの支配に対抗しておりましたが、結局、スペインの力による圧政の前になすすべはありませんでした。

 

1890年を過ぎる頃、米国は力を付けてきており、西へ西へと覇権を拡大してきました。ハワイを騙し討ちにし、米国に併合し、またスペイン領だったキューバ、そしてプエルトリコも領土にしたのです。そして、次にスペイン領であったフィリピンを領土にすべくスペインと戦争を起こします。スペイン艦隊を撃破し、最終的にフィリピンを領土に組み込みました。

 

フィリピン人は、またも、理不尽な占領に対抗するために革命政府を樹立、独立軍を編成しアメリカに対抗しようと試みます。この試みに日本は陰ながら支援を行います。それは、武器弾薬・艦船の譲渡でしたが、それらは日本を出港した後、中国沖で嵐に遭い、結局、それらはフィリピンに届くことはなかったのです。

 

米国は、当初、抵抗を抑えるため武力で制圧、結果、数十万人規模の大虐殺を行います。しかし、米国は、ここから占領方針を大転換。融和政策を取り、フィリピンの将来的な独立をちらつかせ、フィリピン人の人心掌握を達成します。

 

そのような時期に大東亜戦争が始まります。米国は既にフィリピンのインフラ整備を実施し、教育を普及していたため、フィリピン人は米国の占領政策について概ね満足していたのに日本が「フィリピン解放」を掲げて進攻してきました。

 

米軍には、米兵とフィリピン人兵が混在しており日本の進攻に対し徹底抗戦しておりました。しかし、日本は攻め続けます。マッカーサー中将に率いられていたアメリカ極東陸軍(米軍とフィリピン軍の統合部隊)は何とか持ちこたえるように奮闘しましたが、真珠湾を攻撃された為フィリピンへの補給が途絶えた状況であり、日本軍に対抗し続けることは難しかったのです。そして、本土からオーストラリアへ脱出するよう命令が出ていました。マッカーサーは、10万人余りもの米兵とフィリピン兵をフィリピンに残したまま、オーストラリアに脱出。その際、マスコミに対し発表した言葉が、かの有名な、I shall return. なのです。これは、マッカーサーが日本軍の進攻に耐えきらえず敵前逃亡した、彼の長い称賛されるべき軍歴の中での大きな恥部となってしまったのです。

 

さて、日本軍はフィリピンの占領を行うわけですが、ここで大きな計算違いにより難題を突き付けられることになります。日本軍は、在フィリピン米軍を過小評価しておりました。多く見積もっても残存兵力は25,000名程度と考えていたのですが、実際には80,000名以上の米兵が残されていました。日本軍は、彼らを捕虜とした後、食料を与える等適切に扱い収容する必要がありました。当時、米軍と比軍の残兵は、バターン半島に籠城しており、食糧不足の為、軍馬を食べ、野生の猿やその他の動物を食べて生き永らえていました。日本軍にとっても補給が豊富にあったわけではありません。米兵・比兵を食わせていくことは難しく、従って、サンフェルナンドという120キロ離れた都市へ移動させることになりました。この移動の為トラックを準備しましたが、車両が足りず、結果、行軍で移動することになったのです。フィリピンの熱帯気候の酷暑の中、徒歩行進は地獄の行進となりました。結果、1万人以上の捕虜兵(POW = Prisoner of War)げ命を落としたのです。この日本が苦慮しながら行った捕虜の移動が、米軍から日本軍の残虐性を指摘されることとなるのです。

 

この他、マニラにおいては、現代のテロとの戦いにあるように抵抗ゲリラが一般市民に交じって攻撃してくるため、日本軍は誰を標的にすればよいかわからず、無差別に攻撃せざるを得なくなっていきました。これが、後にマニラ虐殺となっていったのです。また、このゲリラは米軍が洋上から物資支援をしていたため、徐々に力を復活させ、日本軍を苦しめます。また、米軍は艦砲射撃によって洋上からマニラを無差別攻撃したため、米軍の攻撃ではありましたが、多くの市民が犠牲になったのは確かな事実です。

 

このような状況は、日本軍にとって不利に働いていき、フィリピン人の人心を掌握することは出来ませんでした。

 

日本は、米国が認めていたフィリピンの独立を引き続き認め、将来的に独立を承認する形を取っていました。戦後、フィリピンは独立を宣言しますが、米国はそれを認めず、再び占領政策を押し進めました。1946年に正式に独立を認められましたが、不平等条約を締結させられるなど不利な状況下でフィリピンは苦しむことになったのです。

 

フィリピンは、「米国は解放を行ったのではない。再占領した。私達は、日本軍に対して戦ったように米国に対しても抵抗すべきだった。」と考えていたようです。

 

日本が、フィリピンで行った政策はほぼ上手くいきませんでした。しかし、心情的に日本が欧米に対抗して戦ったことは、欧米の植民地支配への抵抗として捉えられていたことは確かです。従って、日本に対しては加害者としての悪感情と日本の植民地支配への戦いと言う好感情が入り混じった複雑なものとなっていったのです。

 

次回はミャンマーの声を届けたいと思います。