熱血講師 ショーン 近藤 Leadership & Language Boot Camp

熱血講師 ショーン 近藤 Leadership & Language Boot Camp

日本人精神を復古させ、日本人が真のリーダーシップを発揮し、世のため人のため活躍出来るよう、語学教育とリーダーシップ研修を通して皆様と大きな力を作り上げていく熱血講師 ショーン・近藤の公式ブログです!

Welcome to Leadership & Language Boot Camp, LLBC


LLBC provides you with not only quality English and Japanese language courses but leadership education and training. For both Japanese and foreigners, our leadership education and training will develop your leadership skills and competences to lead people by examples in any situation. Our language courses support your Japanese and English language development to prepare for your future job opportunities. The future of your country requires your leadership and skills you gained based on your seamless efforts. For the noble call, you need to develop your language skills!

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You Can Do It!



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新年、明けましておめでとうございます。

 

今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

 

 

今年は、昨年に引き続きアジアの旅や、その他、日本人が発揮すべきリーダーシップについてブログをアップしながら、より世の為、人の為に活躍してまいりたいと思っています。

 

また、近くリーダーシップ研修を開催していきたいと考えております。多くの方々と想いを共有しながら、人の為、社会の為、国の為、アジアの為、世界の為に一つでもお仕事が出来ればと考えております。

 

昨年末まで、大東亜戦争について多くの時間を割いてまいりました。多くの日本兵がアジアで、国の存亡を賭けて戦った歴史について紐解いてみました。

 

今年は、紹介させていただいた先人の想いを胸に、共に日本の発展のために頑張っていきましょう。

 

前回までのブログでは、日本人はアジア諸国の独立のため、日本国存亡のため、多くの大義を心に抱き、血を流したというお話を検証してまいりました。

 

 

 

多くの日本人が今想っている戦争行為や侵略行為はいけないことであった、という考えを否定するわけではありません。しかし、実際はどのような経緯で何故そのような結果になったのか、そして、当事者であった日本の先人の想い、アジア諸外国の人々の想いを知ることによって、自虐史観を皆さんの心から排除していただきたいと思ったのです。

 

確かに、本当に戦争行為はいけないことです。

 

しかし、日本は、武器を取らざるを得ませんでした。取らなければ、亡国となったのです。

 

この事実を、責めることが出来る日本人がいますか?

 

ことは複雑で、更に狡猾な罠に嵌められたのが日本なのです。今までの数々の戦争は、狡猾な罠でした。金儲けの為、私利私欲の為、行われてきた行為です。歴史を多角的見地に立ってよく考察しても、米国や英国、その他の西欧の国々の思惑が強く反映されたものでした。その西欧列強を動かしたフィクサーは、現代社会でも依然強力な影響力を誇っています。

 

世界を見てみますと、多くの問題が山積しております。一人一人の個々の力では、小さすぎてどうにもならないかもしれない。だから、今の時勢に乗ってつつがなく人生を過ごせばいいではないか、という想いを持つ方々も多くいることはよく分かっております。

 

しかし、一人一人が、多くの事実に背を向けるのではなく、それらを知り、事実に如何に対応し、我々が生かされている地球を維持・管理していくかについて目を向けていく必要があると思っています。

 

 

少しずつでもいい、でもそれを次世代に繋げながら長い目で見て大きな力になっていき、地球をより良い錬磨の道場として維持・管理していかなければならないと思っています。

 

多くの人々が苦しんでいる状況を如何に見るべきか考えなければなりません。努力をしてこなかったから、その報いを受けているのだと考えるのか、社会におけるシステムに原因があると考察し、そこを変革し、そのように苦しむ人々を救いだせる仕掛けを考え、同時並行的に、実際、救いつつ、共に成長する機会をイノベートしていくべきなのか、オプションは我々の手の中にあるのです。

 

きちんと物事を考察し、事実を理解し、人間として、魂として共存共栄を目指すことの重要性を理解し、御魂磨きをしていくべきなのか。はたまた、今の政に関し、疑問も持たず、日本国の崩落を見ながら、しょうがないよな、と思い生きていくのか、ここが大きな分水嶺なのです。

 

本当に私達がしなければならないことを見つめていけるようブログをアップしていきたいと思います。

 

勿論、アジアの旅についてもアップしていきたいと思っています。次回は、ミャンマーの旅についてアップしますので楽しみにしていてください。

 

では、今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

 

さて、前回はフィリピンの声について紹介いたしました。今回は、ミャンマーです。

 

ミャンマーは、旧称ビルマです。未だに英語ではビルマ(発音はバーマ)を使う方が多いかもしれません。

 

実際、ミャンマーにおける日本の進攻についてミャンマーの人々は同感じていたのでしょうか。

 

ビルマは、1824年から約60年間、英国と戦争をした結果、敗戦し、英国の植民地とされてきました。マレーシアのところで紹介したように、英国は、自国の力の及ぶインド人と華僑をビルマに入植させます。従って、マレー人のようにビルマ人も職を奪われ、ほぼ奴隷のような扱いを受け、貧困の中生きていくしかありませんでした。そのような時、日本の日露戦争での勝利はアジア各国に大きな影響を与えておりました。勿論、ビルマの独立運動家達も例に漏れず、触発され、更なる独立に向けた動きを活発化させようとしていました。その筆頭が現在の国家最高顧問であるアウンサンスーチー氏の父、タキン党のアウンサン書記長でした。

 

当時、日本は中国大陸で中国共産党及び蒋介石率いる中国国民党軍との戦いを繰り返しておりました。中国の軍事組織を陰ながら応援していたのが米国、英国、そしてソ連です。日本は、中国のほとんどの港湾を掌握していたため、蒋介石は、支援を陸路からのみ受けるほか軍事行動を継続させることが出来ませんでした。その陸路が、援蒋ルートです。日本は、中国国内の中国軍事勢力を抑え込むためには、この援蒋ルートを封鎖するしかありません。この任務を任されたのが、鈴木大佐です。彼は、ビルマに送られ、活動を開始します。先ず、大佐は、タキン党に接触。そしてアウンサンら30名余りを国外に脱出させ、軍事訓練を施します。この軍事訓練を経て、鈴木大佐及びアウンサン以下のビルマ人はビルマ独立義勇軍を結成します。

 

鈴木大佐は、日本政府に対し、ビルマ独立義勇軍中心の臨時政府の樹立を含むビルマ独立を進言しておりました。これに、アウンサン以下、ビルマ人たちは独立が一歩近づいたと期待に胸を膨らませていました。

 

しかし、日本政府は、英国の影響やビルマ独立義勇軍の組織構成の年齢を考慮して、ビルマの独立延期を決定していました。この決定に、ビルマ人たちは落胆し、そして、彼らの心は日本から離れていってしまったのです。日本は、この状況に焦りを感じ、1943年にビルマの独立を認めます。初代首相には、アウンサンではなく英国占領時に首相を務めていたバ・モウをすえました。この政権は、間違いなく日本の傀儡政権であったため、アウンサンは不満を持ち続けることになります。

 

この頃、インドも英国からの独立を考えておりました。独立運動が活発に行われており、独立活動家が日本に亡命したり、また日本が支援したりと、関係が密接になっていました。そこでインドに隣接するビルマを日本が奪取したことも彼らの独立への運動が更に加速する要因となったのです。ここで、一計を案じたインド人は、日本軍にビルマからインドに進攻してもらい、インドから英国軍を追い出してもらおうと画策し始めたのです。この考えに乗った日本はインパール作戦を策案します。しかし、このインパール作戦は日本軍の補給がうまくいかなかったことから10万の兵のうち、7万の兵が餓死等により戦死してしまい、十分な兵力を維持できないまま、作戦を決行した結果、失敗に終わります。様々な状況における相次ぐ敗走の中、英国軍は勢力を取り戻し、ビルマに再侵攻します。日本軍の力を見限ったアウンサンらは、クーデターを起こし、英国に寝返ったのです。

 

このビルマの裏切りは、日本の敗戦を見越した上で、自国が生き延びるためには仕方のない決断であったのでしょう。

 

しかし、初代首相であったバ・モウは次のように述べています。

「真実のビルマの独立宣言は、194814日ではなく、194381日に行われたのであって、真実のビルマの解放者はアトリー氏とその率いる労働党政府だけではなく、東條大将と大日本帝国政府であった」

 

このように、多くのアジアの国々は、日本の占領や日本の戦いについて様々な受け止め方をしています。しかし、総括すれば、日本の戦いは、アジアの国々の真の独立ということにおいて、ある意味、少なからず影響を与え、それぞれの民族の動機付けにはなったと言えるのではないか、と思うのです。

 

アプローチやプロセスは、それは正解だと言えるものではなかったかもしれません。しかし、与えられた環境・資源・条件・状況の中で日本軍は最善を尽くしたのであろうと推察できます。日本軍は武士道精神を根幹とした日本人精神をもって、進軍していったに違いありません。それぞれの国の人々の、このような率直な言葉を聞いても、尚、皆さんは、まだ自虐史観を持ちますか?

 

日本人の欧米の搾取行動に対抗する姿を、どのように感じましたか?

 

今が、平和だから良いのではないのです。

 

日本人の真の勇気と他国との協同によるアジア共栄の為の努力を、私達は今見習うべきではないでしょうか。

 

 

 

 

さて、前回に引き続き被占領国からの言葉を紹介していきます。今回は、日本が占領政策において最も失敗した国フィリピンです。フィリピンにおいて日本が行った政策はことごとく失敗しました。

 

ここでその理由を解き明かしていきましょう。先ずは、歴史的背景について考察する必要があります。

 

フィリピンは、1500年代初頭からスペインの植民地となっておりました。かなり、古い時代から植民地にされていたようです。フィリピンの民族は、スペインの支配に対抗しておりましたが、結局、スペインの力による圧政の前になすすべはありませんでした。

 

1890年を過ぎる頃、米国は力を付けてきており、西へ西へと覇権を拡大してきました。ハワイを騙し討ちにし、米国に併合し、またスペイン領だったキューバ、そしてプエルトリコも領土にしたのです。そして、次にスペイン領であったフィリピンを領土にすべくスペインと戦争を起こします。スペイン艦隊を撃破し、最終的にフィリピンを領土に組み込みました。

 

フィリピン人は、またも、理不尽な占領に対抗するために革命政府を樹立、独立軍を編成しアメリカに対抗しようと試みます。この試みに日本は陰ながら支援を行います。それは、武器弾薬・艦船の譲渡でしたが、それらは日本を出港した後、中国沖で嵐に遭い、結局、それらはフィリピンに届くことはなかったのです。

 

米国は、当初、抵抗を抑えるため武力で制圧、結果、数十万人規模の大虐殺を行います。しかし、米国は、ここから占領方針を大転換。融和政策を取り、フィリピンの将来的な独立をちらつかせ、フィリピン人の人心掌握を達成します。

 

そのような時期に大東亜戦争が始まります。米国は既にフィリピンのインフラ整備を実施し、教育を普及していたため、フィリピン人は米国の占領政策について概ね満足していたのに日本が「フィリピン解放」を掲げて進攻してきました。

 

米軍には、米兵とフィリピン人兵が混在しており日本の進攻に対し徹底抗戦しておりました。しかし、日本は攻め続けます。マッカーサー中将に率いられていたアメリカ極東陸軍(米軍とフィリピン軍の統合部隊)は何とか持ちこたえるように奮闘しましたが、真珠湾を攻撃された為フィリピンへの補給が途絶えた状況であり、日本軍に対抗し続けることは難しかったのです。そして、本土からオーストラリアへ脱出するよう命令が出ていました。マッカーサーは、10万人余りもの米兵とフィリピン兵をフィリピンに残したまま、オーストラリアに脱出。その際、マスコミに対し発表した言葉が、かの有名な、I shall return. なのです。これは、マッカーサーが日本軍の進攻に耐えきらえず敵前逃亡した、彼の長い称賛されるべき軍歴の中での大きな恥部となってしまったのです。

 

さて、日本軍はフィリピンの占領を行うわけですが、ここで大きな計算違いにより難題を突き付けられることになります。日本軍は、在フィリピン米軍を過小評価しておりました。多く見積もっても残存兵力は25,000名程度と考えていたのですが、実際には80,000名以上の米兵が残されていました。日本軍は、彼らを捕虜とした後、食料を与える等適切に扱い収容する必要がありました。当時、米軍と比軍の残兵は、バターン半島に籠城しており、食糧不足の為、軍馬を食べ、野生の猿やその他の動物を食べて生き永らえていました。日本軍にとっても補給が豊富にあったわけではありません。米兵・比兵を食わせていくことは難しく、従って、サンフェルナンドという120キロ離れた都市へ移動させることになりました。この移動の為トラックを準備しましたが、車両が足りず、結果、行軍で移動することになったのです。フィリピンの熱帯気候の酷暑の中、徒歩行進は地獄の行進となりました。結果、1万人以上の捕虜兵(POW = Prisoner of War)げ命を落としたのです。この日本が苦慮しながら行った捕虜の移動が、米軍から日本軍の残虐性を指摘されることとなるのです。

 

この他、マニラにおいては、現代のテロとの戦いにあるように抵抗ゲリラが一般市民に交じって攻撃してくるため、日本軍は誰を標的にすればよいかわからず、無差別に攻撃せざるを得なくなっていきました。これが、後にマニラ虐殺となっていったのです。また、このゲリラは米軍が洋上から物資支援をしていたため、徐々に力を復活させ、日本軍を苦しめます。また、米軍は艦砲射撃によって洋上からマニラを無差別攻撃したため、米軍の攻撃ではありましたが、多くの市民が犠牲になったのは確かな事実です。

 

このような状況は、日本軍にとって不利に働いていき、フィリピン人の人心を掌握することは出来ませんでした。

 

日本は、米国が認めていたフィリピンの独立を引き続き認め、将来的に独立を承認する形を取っていました。戦後、フィリピンは独立を宣言しますが、米国はそれを認めず、再び占領政策を押し進めました。1946年に正式に独立を認められましたが、不平等条約を締結させられるなど不利な状況下でフィリピンは苦しむことになったのです。

 

フィリピンは、「米国は解放を行ったのではない。再占領した。私達は、日本軍に対して戦ったように米国に対しても抵抗すべきだった。」と考えていたようです。

 

日本が、フィリピンで行った政策はほぼ上手くいきませんでした。しかし、心情的に日本が欧米に対抗して戦ったことは、欧米の植民地支配への抵抗として捉えられていたことは確かです。従って、日本に対しては加害者としての悪感情と日本の植民地支配への戦いと言う好感情が入り混じった複雑なものとなっていったのです。

 

次回はミャンマーの声を届けたいと思います。