大日本帝国のアジア侵略の本当 被占領国からの言葉その2 マレーシア・シンガポール編 | 熱血講師 ショーン 近藤 Leadership & Language Boot Camp

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前回は、大日本帝国が占領統治したインドネシアの声を紹介いたしました。今回は、マレーシアとシンガポールを見ていきたいと思います。

 

マレーシアは元々、イギリスの占領下にあり、マラヤと呼ばれていました。イギリスは1800年頃から占領政策をはじめ、華僑を入植させ、マラヤをコントロールしていました。原住民であるマレー人は、ここでは奴隷のように扱われておりました。また英国は、インドも手中に収めておりましたので、多くのインド人をも入植させておりました。こうした状況の中、華僑とインド人が経済を支配し、益々マレー人は虐げられていったのです。

 

日本は、真珠湾攻撃の際、同時並行的にマレー半島に攻撃を仕掛けておりました。

日本の侵攻はあまりにも早く、占領軍である英国軍は無条件降伏するしかありませんでした。

 

こうして日本軍の統治が始まります。

 

日本軍は、原住民であるマレー人の協力を得たことによって英国軍に勝利し、マレー人を優遇する政策を行います。逆に、英国軍から恩恵を受け入植してきた華僑やインド人は、日本軍の進駐に対し不安を覚えていました。このままでは、自分たちの地位が危ないのではないか、と。

 

このようなことから、日本の占領統治に対し、マラヤに住む人々は様々な感情を持っていたようです。

 

日本は、シンガポールは地政学上、非常に重要な地域であると考えており、また英国が堅固な要塞を築いていたため、ここの統制に最も努力を傾注しておりました。「和」を重要視した政策ではなく、強制的な政策を推し進め、結果、住人達の反感を買う羽目になりました。高圧的な日本語教育や国家神道の布教により、現地人の文化や宗教を無視する結果に帰結してしまったのです。これでは、誰も従うはずはないでしょう。

 

また、占領政策がうまくいかなかった原因の一つとして華僑の存在があります。華僑は、当時、中国大陸内で日本と中国が戦っておりましたから、はなから日本に対し良い感情は持っておりませんでした。更に、日本統制下においてテロ活動を行っていたため、この抗日的活動を武力で抑え込もうとした日本軍の手法が拙かったのです。結果、多くの華僑の命を奪うことになってしまいました。

 

人間は、感情の生き物です。従って、戦争行為において肉親や同胞の命を奪われれば、遺恨を残す結果となり、統治統制において障害となるわけです。

 

一方、マレー人に対しては、積極的に人材育成を行い、学校建設、政治政党の結党、宗教の容認等、マレー人の独立の素地を作り上げていきました。これによって民族の誇りを取り戻すことが出来たのです。日本は、ここに焦点を当てていたのでしょう。もともと、マラヤはマレー人のものであったのですから。華僑やインド人は英国の政策によって入植してきたよそ者であり、この土地を治め、この土地で生きていくべきはマレー人であったと考えていたのでしょう。

 

また、インド人は日本進攻時、日本軍に寝返り、日本軍と共に英国軍と戦うと決めておりました。日本の進攻があまりにも早かったため、インド軍は共に戦闘を行う機会を逸しましたが、その後、日本軍の協力を得て、インド国民軍の礎を築くことが出来たのです。

 

戦後、英国が再び占領政策を行おうとしましたが、日本軍の教育を受けた独立心と民族の誇りを取り戻したマレー人は、英国の政策に疑問を抱き、結果、マラヤ連邦として1957年に独立を果たします。その頃まで、マレー人をコントロールしてきた華僑は、マレー人が中心となった独立後の社会構成に反発。そしてシンガポールとして別個に独立を果たします。

 

マレーシア・シンガポールにおける声を総括いたしますと、マレー人からは日本軍の占領は好意的に捉えられていた一方、華僑にとっては受け入れ難く、多くの犠牲者を出す結果となってしまったのです。ここからも中国系の人々にとって日本軍の進攻は非難の対象となるのでしょう。

 

マレーシアの独立の父にラジャー・ノンティックさんという方がいます。彼が16歳の時、日本がマレーシアに進攻してきました。前述したとおり、日本は、マレー人に対し、教育を施し、訓練所を作り、そして日本への留学制度を作り上げました。彼も、この制度を利用し、日本へ留学し、多くを学び、そして独立の心を持つことが出来ました。しかし、彼は、戦後日本人がどんどん変わっていく様を見て悲しんでいます。彼は、こう言っています。「日本軍は、マレー人を殺してはいません。日本軍が殺したのは英国軍とそれと共に戦った中国共産ゲリラです。日本の将兵も多く血を流しました。日本はマレー人を虐殺したということはありません。そんな話は戦後のでっち上げです。」

 

彼の書き残した詩を紹介します。

 

かつて日本人は清らかで美しかった。

親切で心豊かだった。

何十万人の中には、少しは変な人もいたし、

怒りんぼや わがままな人もいた。

自分の考えを 押し付けて 

威張っているばかりの人だって

いなかったわけじゃない。

 

でも、その頃に日本人は、

そんな少しの嫌なことや

不愉快さを超えて

おおらかで 真面目で

希望に満ちて 明るかった。

 

そんな 今の日本人が心配だ。

本当にどうなっちまったんだろう。

 

日本人は そんなはずじゃなかったのに。

本当の日本人を知っている私達は、

いつも歯がゆくて

悔しい思いがする。

 

これが本当の日本人なんだろうか。

自分たちだけで集まっては、

自分たちだけの楽しみや

贅沢に ふけりながら

自分がお世話になって住んでいる

自分の会社が仕事している

その国と その国民を蔑んだ目で見たり、

馬鹿にしたりする。

 

どうして

どうして、日本人はこうなっちまったんだ。

 

戦後、日本が高度経済成長を遂げていた頃、マレーシアにとって日本は、再び輝く星として映っていました。その当時、マレーシアの首相であったマハティ-ル・ビン・モハマド氏は、「ルック・イースト政策」を掲げ、勤労精神に溢れた日本人の良い面を模倣することによって国を繁栄させようと考えました。この政策は、大きな効果を上げ、マレーシアは大発展を遂げました。しかし、彼は2004年に次のように苦言を呈しました。

 

「戦後、日本は無給だったり、一杯のご飯だけでも企業に忠誠心を持ち懸命に働きました。自己犠牲の精神です。その結果、日本は急速に発展し、国民は裕福になれたのです。ところが日本の若者は良き特徴を次々と失っています。例えば、会社に定着せず、楽しみを優先にしてまた別の会社に移っていく。生活を楽しむだけではこれからの国の発展は難しい。これは、彼らにとってもよくないことだと思います。」

 

マハティ-ル氏が憧れたのは、当時の日本人の姿であったのです。

 

話を元に戻しますが、マレー人は戦中・戦後、日本人に対し概ね好意的な感情を持っていたということです。

 

私達は、大東亜共栄の精神をもう一度確かめ、「八紘一宇」を思い起こし、そして当時の日本人達がやってきた共に成長Thriveしていくことを目指さなければならないのではないでしょうか。

 

次回は、フィリピンの声を考察していきたいと思います。