さて、前回同様、日中戦争のお話を続けていきます。1937年に勃発した日中戦争ですが、日本軍は快進撃を続け、中国の北部から中部に渡って支配下に置くことに成功しました。しかしながら統治に関しては親日であった汪兆銘の南京政府に任せていました。この汪兆銘は、蒋介石と袂を分かった人です。蒋介石は自己の基盤の強化のみに動いていたのに対し、汪兆銘は、日本と共に動き、中国の近代化を目指した人物です。
南京政府影響下にあった地域は安定した情勢を維持することが出来ました。従って、多くの外国人が上海に逃げ、暮らしていました。
一方、敗戦と闘争を繰り返していた蒋介石率いる国民党軍でしたが、彼らを陰でサポートしていたのがアメリカです。毛沢東は、ソ連のコミンテルンの支配下にあり、蒋介石は米国支援なしでは存続も危うくなっている始末。明らかに、ソ連と米国は近い将来、戦争後における中国大陸における覇権を狙って暗躍していたのです。
日本は、米国の蒋介石を支援するための兵站ルートであった「援蒋ルート」を何とか遮断しなければ、彼らは米国からの物資補給で必ず盛り返してくると考えていました。
従って、帝国陸軍は、援蒋ルート遮断のために南方へ展開していくことになるのです。
さて、次回から、日本と米国のやり取りに注目していきましょう。
大東亜戦線において、日本軍が何故ミャンマーにまで戦線を拡大していかなければならなかったのかが理解していけます。
日中、日韓に関する史実を洗ってみても、決して我々の先人は、他国を領土化しようという意思の下、動いていたわけではなかった、というのが理解していただけたのではないか、と思います。
我々、日本人の思想の根底にあったのはアジアの西欧植民地化からの独立と共存共栄だったのです。
今も、私達は、そこを目指さなければなりません。紛争を起こす芽を摘み、そして平和で共存するための愛の芽を育てていかなければなりません。
だから、私は、今の日本人が立ち上がり、武士道を根幹とした日本人精神を中心としたリーダーシップを発揮していかなければならないと思っています。このリーダーシップと日本人の愛を西欧列強は恐れていたのです。いや、今でもこの博愛と友愛の精神を恐れているのです。
続く