ミャンマーを含むアジア諸国現地調査の旅 その7 | 熱血講師 ショーン 近藤 Leadership & Language Boot Camp

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ヤンゴンでの旅程初日は、先ず日本人墓地での慰霊です。先の大戦で亡くなった日本兵をはじめとするミャンマーで亡くなられた日本人の方々の墓地へ先ずお参りに行くことから旅を始めようと考えていました。

今現在でもヤンゴン(旧首都)は、ジャングルが多く残っている都市です。また、一歩ヤンゴンの市街地に出たら、戦前の日本のような街並みと、多くの露店、そして田園風景が広がっています。これを、大東亜戦争時代に戻ったらどんな風景が広がっていたことか。こんなジャングルと広がる田園風景と農村の中を帝国陸軍は、ビルマの独立とインパール作戦を視野に入れた戦線拡大でこの地に展開したのでしょう。日本から遠く離れたこの地で多くの日本兵は命を落としたのです。このかの地で命を落とされた我々の偉大なる先人達、英霊の御霊に祈りを捧げなければならないと思っていました。

 

ミャンマーへの渡航前、私は靖国神社に詣で、お札を購入しておりました。彼らは、国家存亡の危機の中、命を捧げ、大陸に渡ったのです。勿論、死を覚悟の遠征です。特攻隊と同様に多くの兵士は悪化する戦況の中、死を覚悟せざるを得なかったのではないでしょうか。亡くなられた残存兵の小野田少尉が語っていました。「私達は、靖国で再び会おうと約束して散っていったんだ。」命を賭して戦いに臨み、心は、かの大和の国にある靖国に置いて行ったのでしょう。靖国に眠る英霊の御霊の意を乗せたお札を墓地に捧げることが彼らの慰霊になると考えての行動です。

 

ミャンマーでの作戦を振り返ってみますと、本当に帝国はビルマの真の独立を考えてここまで侵略戦争を拡大していったのか?という疑問にたどり着くと思います。そこには疑念があることは否めません。しかし、かの大東亜戦争は、もともと人種戦争であり、英米の対日工作に抗しなければ帝国は亡国にならざるを得ない状況に追い込まれていたのです。西欧列強とアメリカは、最終的にアジアの植民地支配を画策しておりました。多くのアジアの国々は西欧列強の植民地支配下に置かれ、いよいよ中国の支配に乗り出していました。

 

この辺の事情は、多くのページを割き日本及びアジアの近代史をきちんと学ばなければなりません。日本は、現代の歴史観が教えている通り、アジアの暴君で多くの国々を侵略していったのでしょうか?それは、真逆です。大航海時代に遡り多くの西欧諸国がアフリカやアジアで行ってきたことをよく学べば見えてくることがあります。ヨーロッパやアメリカの白人は、黒人や黄色人種は、白人とは異なり、脳の構造も違う。白人が優性であり、白人以外の人種は劣性で、白人が主人で、その他の人種は彼らに仕えることが当たり前と考えていたのです。それを正当と考え、次々と多くの国々を侵略し、植民地支配し、多くを搾取し、自国の繁栄を第一に考えてきたという経緯を知らなければなりません。

 

読者の皆様には、日清戦争、日露戦争、日中戦争、そして大東亜戦争の流れを今一度振り返っていただきたいと思います。中国の真の独立のための援助、中国大陸及び朝鮮半島の近代化の手伝いなど率先して行っていました。日本はアジア安定のために立ち上がり、隣国との協同が欠かせないと考え、動いておりました。それを裏付ける資料として、既に亡くなった中国や朝鮮半島の方々の親日や日本への感謝の証言が多く残っています。これらの事実を今一度皆様に認識した頂き、命を賭して戦った英霊に感謝の気持ちを持っていただきたいのです。

 

私は、感謝の気持ちと戦友の祈りがこめられたお札を日本人墓地に捧げてきました。私が墓地に参拝したのは11月中旬の朝の9時半ごろでしたが、既に気温は余裕で35度を超えていたと思います。当時の日本兵の苦労が窺い知れます。軍服に背嚢、武器弾薬を装備しての炎天下の行軍を余儀なくされていたでしょうから、それは想像を絶するものであったのではないかと思います。現役自衛官当時に行軍訓練を幾度か経験しておりますが、比にはならないでしょう。

 

この日本人墓地には、管理人らしきおばさんがいます。彼女は線香を売っていました。線香を購入し、また日々管理していただいている感謝の気持ちを込めてチップを置いてきました。英霊の墓地を後にし、いよいよミャンマーの人々との交流開始です!