再び飛行自粛措置
「ブルーインパルスのソロ2機が墜落した!」という情報が基地中を巡り、捜索救難作戦が開始されようとしていました。
皆、慌ただしく動いており、自分は心拍数が上がりっぱなしだったことを覚えています。
基地の医務室前に第1次陸上捜索救難隊が集合し、必要な資機材を揃え、車両に積み込みし、急きょ編成された救難隊長の指示を待っている様子でした。
航空自衛隊が編成する救難捜索隊だけでは捜索に時間を要する可能性があるので第4航空団は、近隣の陸上自衛隊への応援も要請しているようでした。
我々も救難捜索隊の動向については無線通話が一斉放送されていたので逐一掌握することが出来ました。
捜索救難隊の必死の捜索により、牡鹿町の光山山頂付近で機体の破片残骸を発見したのです。
そこでパイロットと機体の回収が行われました。
その詳細については触れないでおきます。
さて、この事故現場がかなり問題でした。
この墜落は、飛行制限空域として定められた女川原発の周辺空域をかすめ飛行していたことが問題視されました。
以前のブログでも紹介した3月のT‐2の墜落事故、その事故調査委員会の報告は依然調査中であるという状況でのブルーインパルス2機の墜落ですから自治体関係者からの非難は大きかったのです。
また、この年の6月には美保基地から離陸したC-1輸送機が整備後のテストフライトのため離陸、テストの最中に日本海に墜落した事案がありました。
この時のコパイロット(副操縦士)は女性自衛官でした。
また、前年の1999年8月には、F-4EJ改が対領空侵犯措置中、長崎県沖に墜落。
また、11月には入間基地からT-33 がエンジントラブルのため墜落した事故もありました。
この事故の時、パイロット2名は住宅地へ墜落を避けるべく航空機を河川敷までなんとか飛ばし墜落しました。
この際、送電線を切断したため広域停電を引き起こしましたが、その送電線切断がなければ付近の橋に衝突し民間人の死傷事故を起こしていた可能性がありました。
なんとか機を操り死傷者のでない地域まで到達し、脱出を試みましたが失敗、2名の尊い命を失ったのです。
この短い期間に複数の墜落事故が発生したことを受け航空自衛隊は航空自衛隊安全の日というのを制定しました。
毎年7月3日に、主に慰霊行事や安全教育が実施され、事故の風化を防ぎ、安全の重要性の認識を隊員に持たせることが主たる目的となったのです。
これら一連の事故により空自機の飛行は最小限にされました。
松島飛行場は全面飛行禁止でした。
基地では、部隊葬が執り行われました。
このときのことは今でもはっきりと覚えています。
ものすごく心が苦しかったのを思い出します。
パイロットはまだ30代半ばで若く、まだ彼らのお子さんが小さかったのです。
沢山の隊員が集まり、葬儀を粛々と行っていた傍で子供たちは沢山の人々が集まってきていたため無邪気に興奮気味であったのがより悲しみを深くさせました。
このように、私が陸上自衛隊から一時的に航空自衛隊に移り、訓練させていただいてる期間にT‐2の1名、C-1の5名そしてブルーの3名の尊い命が失われました。
本当に他人事とは感じませんでした。
心は当事者でした。
この事故の後、かなり重苦しい空気が基地全体を包んでいました。
基地に隣接する官舎地区もそうです。
亡くなったパイロットのご家族がしばらくの間そこに住まわれていたのです。
いずれは、官舎を出る必要がありましたが、その準備のためにも猶予があったのではないかと推測します。
間もなく、我々は事故に関し管制サイドから情報収集を開始しました。
レーダー装置は航跡を図示することが出来ます。
そこでブルーのソロ2機の航跡を視覚化させたり様々な情報を調査委員会及び警務隊の捜査に協力する形で出していきました。
また、関係管制官への聞き取りも行われていました。
当該管制官はみるみる憔悴しているのが分かりました。
このような状況ではGCA訓練などできる状況ではありませんでした。
飛行自粛ではありますが、飛行場は通常通り24時間運用されているため管制官は上番していました。
そこでは、噂話ばかり飛び交っていました。
ブルーインパルスはもう復活できないかもしれないとか、あの管制官は転属になるとか、様々な噂が飛んでいました。
私は自分なりに事故当時を回想していました。
私はGCA 席に上番していたため、特段、ブルーインパルスがGCAリカバリーを要求してこない限りコンタクトすることはなかったのですが、もし、レーダーピックアップの席に上番していたら、この事故を避けるべくどのような情報を送っていただろうか、など自分なりに如何に航空安全に寄与できるかを考えていました。
ここでの教訓を如何に陸上自衛隊の航空管制に生かすことが出来るのかを考えるようになっていました。
この時、飛行中の決心は基本的にパイロットにあるため、安全な航行に資するため、パイロットの身になってどのような情報を発出してあげればよいのだろうか、ということを深く考えるようになっていました。
階級、地位、任務は違っても、同じ空から国を護る同士の死は哀しいものです。
私は、ここでのこの事故の経験から航空安全のため、仲間を守るため、しっかりとした管制技術を身につけよう、パイロットのかゆい所に手が届くような気配りの出来る情報提供できる管制官になろうと考え始めていました。
その為には、様々な状況を短切に英語で表現し、その情報によりパイロットがしっかりとイメージできるよう適切な英文を準備し、発音も改善していこうと考え始めていました。
この事故が、初めて自分の管制技術と管制で使用する英語能力を磨いていこうと決心させたのでした。
それまでの自分の管制や英語は自惚れたものだったと思います。
驕りがあったと思います。
こっちは管制官なんだから、という感じで相手の身になってない仕事の進め方、また「航空安全」を念頭に置かない自己中心的な情報伝達の仕方で任務についていたと思います。
恥ずかしい限りです。
この職務はノリでやってはいけないんです。
しっかりと真摯に任務に向き合って、パイロットと共に任務完遂しなければなりませんから。
心が幼稚だったんですね。
しかし、彼らの命が私に本当に大切なものを教えてくれたと思っています。
これら一連の事故で亡くなった英霊に哀悼の意を表したいと思います。
続く