タイ🇹🇭北部、メコン河沿いのラオス🇱🇦との国境の街、チェーンセーンを拠点に、周辺を散策した。
チェーンセーンを出発し、チェーンセーンに戻る、と言う旅。
以前、空手家Kさん親子とは、ゴールデントライアングルに行って、そこから、ボートにメコン河の中洲のラオス🇱🇦領の島に行った。又、ミャンマー🇲🇲国境の街メーサイに行き、そこから徒歩で、ミャンマー🇲🇲側の街、タチレクに行った。
今回は、それらとは違う所に親子を連れて行こうと考えた。
日本🇯🇵では味わえない場所で、その空気感を楽しんでもらおう。
朝練習と朝のカフェの後、ゆっくり目の出発となったが、最初の目的地は、タイ🇹🇭とミャンマー🇲🇲の国境線。
国境線と書いたが、別に線が引かれているわけではないけど、線がある。
その線とは、塹壕。
山岳地帯にあるタイ🇹🇭ミャンマー🇲🇲の国境のタイ側の陣地から、国境を眺めてもらう。
海に囲まれた日本🇯🇵では、まず味わえないであろう。
この場所は、日本人観光客には、まだ余り知られてない場所だと思う。
ナビを頼りにに山道を登って行く。
頂上付近の尾根が陣地となっている。
トーチカからミャンマー🇲🇲側を見る日本🇯🇵の小学生Ks君。
眼下は、ミャンマー🇲🇲。
日本人には、陸続きの国境と言うのは珍しい事だろう。
塹壕を走る日本🇯🇵の小学生
次に向かったのは、タイ🇹🇭の中の中国。
中国と言っても、今の中華人民共和国🇨🇳ではなく、中華民国🇹🇼である。
中華革命で、毛沢東率いる中国共産党は、中国本土で、蒋介石率いる国民党との戦いに勝利した。
蒋介石率いる国民党の主力は、台湾に逃れたが、雲南省にいた部隊が、共産党に降伏せずにミャンマー🇲🇲、タイ🇹🇭へと南下して来た。
その部隊、第五軍段希文将軍の率いた部隊が実効支配していた場所、ドイ メサローンに行った。
空手家Kさんは、大興奮。
「ここは中国や、中国や。」と。
そして、日本🇯🇵にいる娘さんにも動画を撮って送られていた。
ドイ メサローンに、自分が最初に行ったのは、30年位前になるだろうか。
北タイバイクツーリングのオプショナルツアーで、スーパーカブに乗って、チェンマイ、チェンライ、チェーンセーン、ゴールデントライアングル、メーサイと行って、その後、ドイ メサローンに来たのを覚えている。
あの頃は、まだ、麻薬王クンサーもいたし、共産ゲリラもいた。ドイ メサローンには、亡命政府がある、なんて言い方もされていた。
道路も、舗装されていない場所が多々あり、軍や警察の検問が何箇所もあり、検問所の人間は、目が座っていたのを覚えている。
怪しく、危険なエリアだったのである。
そして、今は、茶畑が広がり、リゾートホテルやカフェがあったりして、立派な観光地となっているのである。
最初は、このドイ メサローンに一泊しようと考えていたが、値段を調べて見て、ちょっと高いな、と感じたので、泊まるのはやめた。
ドイ メサローンの中心と思われる段将軍のお墓近くの駐車場に車を止めて散策である。
住んでいる人々の顔立ち、言葉から、タイ🇹🇭なのにタイじゃない雰囲気である。
ここで、空手家Kさんは、
「本場の雲南麺が食べたいですね。」と言われた。
自分も麺には目がない。
何軒かあった食堂には、メニューの写真があるのだが、それは、タイ料理も載っていて、タイ料理と中華料理のミックスであった。
味が、タイ化している可能性がある。
空手家Kさんが、タイ語を少し話す自分に、
「雲南麺の専門店があるかどうか聞いてくれませんか。きっと、観光客相手ではない、地元の人が行く安くて美味い店があると思うんです。」と、言ってくれた。
ダメ元で、屋台でお菓子を売っていた女の人に聞いて見た。
すると、
「セブンイレブンの近くに、自家製麺の雲南麺専門店があるよ。」と教えてくれた。
ドイ メサローンは、標高約1200mの山の尾根沿いに作られた山上都市である。
日本🇯🇵の高野山のような町と想像してもらえたら、と思う。(ドイ メサローンは、感覚的には、高野山より規模は大きく感じた。)
そんな所にもセブンイレブンがあると言うは驚きではあるが。
麺屋は、セブンイレブンから少し坂を下った所にあった。
雲南麺専門店。
店の前のこの絵を見て、期待か膨らむ。竹を使って麺を打つ、手作り麺。
雲南手打ち麺。おかわりさせて頂きました。
普通なら食べ歩き旅行記で終わるのだろうが、そうはいかないのが自分である。
そこには、大国の思惑に翻弄された人々の人生があったのである。
北タイには、100以上の中国人村がある。
チェンマイの熱水塘村と言う温泉♨️のある中国人村がある。
そこにも手作り雲南麺があって、自分は、その村に行った時には、必ず行く。
その麺屋の前に、『泰緬孤軍博物館』と言うのがあった。
自分は、その孤軍と言う言葉に引っかかった。
孤軍と聞けば、孤軍奮闘。
中国の共産革命で敗れた国民党のグループが、孤軍奮闘、つまり、ずっと戦い続けているのか?と。
それにしては、北タイの中国人村は、散在していて、一箇所に固まっているわけではないので、孤軍と言われてもなんか変やな、と。
今回、このブログを書かせてもらうに当たって、段希文将軍の事を調べていたら、京都大学の若松大祐先生が2014年に発表された論文『現代台湾史における泰緬孤軍イメージ』を拝見させてもらった。
それで、今まで持っていた疑問が、解けた。
1949年、中国共産党との戦いに敗れた国民党軍の主力は、台湾に逃れた。一方、雲南省に居た国民党軍は降伏せずに南下して、ミャンマー🇲🇲で反撃の機会を伺った。(この時、国民党軍の家族も一緒に移動した。)
そんな中、朝鮮戦争が勃発。朝鮮半島北部に展開しようとする中国人民解放軍を牽制すべく、アメリカが、台湾とミャンマーにいた国民党軍に働きかけた。
1950年代、短期ではあるが、ミャンマーにいた国民党軍は、雲南省の一部を制圧した。(補給が続かず撤退)
ミャンマーは、自国に他国の軍隊が駐留しているのを快く思わず、国民党軍と二度戦ったが、二度とも国民党軍が勝利した。
ミャンマーは、国連に訴えた。
アメリカ、タイ、ミャンマー、国民党の話し合いで、ミャンマーから国民党軍は撤退。一部は、台湾に帰国した。
帰国した、と言っても、故郷雲南より遥かに遠い島台湾に、愛着もなく、だから、行く気も起こらず、それなら故郷雲南に陸続きのタイに、と残ったグループが居た。
それが、チェンマイの李将軍率いる第三軍と、段希文将軍率いる第五軍だった。
1950年代は、国民党軍として、台湾の国民党が本土奪還を狙う中、後方撹乱部隊として軍事行動をしていた。
1960年代は、表向きは、撤退していない事になっていたので、台湾本国でも知られてない存在だったが、秘密裏に本国からの支援はあったようであるが、見捨てらた存在ではあった。
タイは、タイで、他国の軍隊が実行支配しているのを望まず、共産ゲリラとの戦いに彼らを利用しようと考えた。
共産ゲリラと戦って功績を上げた者には、タイの国籍を与える、とされた。
そんな中、『異域』と言う本が台湾でヒットし、泰緬孤軍と言う言葉が、台湾で使われ、知られるようになる。
中国共産勢力に対して、孤軍奮闘している人々として。
が、実際は、国民党軍だけではなく、周辺の民族と混血が進んだり、文化大革命から逃れて来た人々も加わったグループになっていた。
『異域』と言う本は、大ヒットして、映画化もされ、1980年代には、タイ北部の中国人は、共産勢力から逃れた可哀想な難民と言うイメージに台湾でなり、彼らを支援すべきである、との運動が起こった。
茅葺の屋根がレンガに変わり、道路などのインフラも整備され、学校も建設された。
テレサ テンがタイ北部に度々訪れていたのは、それが理由かも知れない。
1990年代には、台湾自体が、中国本土奪還の野望を捨てて、台湾として生きて行く方向に舵を切った。
そんな中、タイ北部の中国人も、タイ人として生きて行く方向になる。
元国民党の兵士だった人には、年金が支払われ、台湾として、タイ北部の中国人村への支援は打ち切られた。
そして、その流れの上に、今がある。
今は、雲南省にルーツを持つ、在タイ華僑としての位置付けとなっているのではないだろうか。
お茶を始めとした農作物、観光開発。自活して行く為に、まさに孤軍奮闘している姿がここにある
。