中村 勝五郎 メモ | ひびのおと

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中村 勝五郎 氏 (なかむら かつごろう)

大正2年生まれ。元味噌醸造所代表。
戦後の混乱期に父勝五郎(2代目)とともに、私財をなげうって、若手芸術家の育成や美術界の興隆に力を尽くされた。また、東京駅前広場に世界平和を祈願する「愛の像」(アガペの像)の建立に奔走された。さらに、財団法人市川市高齢者事業団を設立し、初代理事長として、市川市の社会福祉の向上に貢献された。享年80歳。




もとをたどると中村勝五郎家は、中山競馬場周辺の名家であり、いまから100年前の大正9年(1920年)に誕生した中山競馬倶楽部、さらにはその前の総武競馬会から代々馬主をされておられる方。4代目の勝彦氏も継続しておられるようで、本書は昭和59年(1984年)、そこから現在までとなると100年以上になるのでしょうか、100年も継続して馬主という事業をされている、素晴らしいと思います。


で、3代目勝五郎氏、馬主になったのが昭和の初めで、戦前は各競馬場の競馬は倶楽部組織によって運営されていたという。そして、その入会は厳しいものだったらしく 


『 ご存知のように戦前の競馬は各倶楽部組織によって運営されていた。

横浜の日本レース倶楽部、東京競馬倶楽部、中山、京都、阪神、札幌、函館、福島、新潟、小倉、宮崎の各倶楽部があったのだが、この倶楽部の入会資格がなかなか厳しいものだった。

人格、識見、社会的地位の資格条件を満たさなければいけないと規約にうたっているが、そのほかに調教師、騎手など厩舎関係者とのつきあい、競馬関係者から競馬のためになる人間と認められてはじめて賛助会員となり、数年をかけて正式に入会を認められるというものだった。(同書p53)』


こうした倶楽部から大きく変わったのは、太平洋戦争後、昭和21年秋、東京・京都で競馬が再開、主催は倶楽部を束ねた日本競馬会。しかし、当時のGHQが、この形態を「独占的」としてアンチトラスト扱いをする。この根拠は、「日本では賭博は刑法で禁じられている。これがために特別に競馬法を作って行っているのだから、日本競馬会は私的な独占団体ではない」(p81)というロジックを振りかざすものの、GHQもなかなか折れないなかで、著者の父である二代目勝五郎氏が競馬を健全に発展させるためには民営化でなくてはならいという強い意志のもと、「民間移管とその形態は日本放送協会のような特殊法人が適当」という主張が通り、昭和29年、中央競馬会法案が成立、いまの運営となりました。





ハクセツ(白雪)やセッシュウ(雪舟)といった馬名から察せられるように、中村勝五郎はまた芸術を愛する人だった。戦後GHQが、軍部に協力したとして芸術家たちの戦争責任を問わんとした際も、2代目と3代目は彼らを守るべく交渉の最前線に立っている。

また幅広く芸術家を支援したことでも知られ、加藤英三(画家)や大須賀力(彫刻家)といった若手が市川を拠点に活動した。冒頭に述べた中山競馬場の中村勝五郎像は大須賀力の手によるものだ。

そんな芸術家たちの中でも特筆すべきなのが、風景画の巨匠として名を知らしめる東山魁夷である。

東山魁夷と中村勝五郎の親交が始まったのは昭和14年ころで、戦争末期に魁夷が軍に招集された際は、来られなかった家族に代わり、中村家の人々が出征を見送ったという。

東京の自宅を焼失した魁夷は昭和21年、市川市鬼越の中山家の事務所2階を夫婦で間借りする。当初は数ヶ月の予定だった仮住まい生活は結局7年余にも及び、その間に『残照』『道』といった名作が生まれているのだった。昭和29年には当時の中山競馬場の門構えを描いた作品も残している。

『道』はシンプルな構図ながら、自分が進むべき未来への決意を見事に表現し、魁夷の代表作の一つとなった。その舞台となったのは青森県八戸市の種差海岸、当時のタイヘイ牧場沿いの風景。タイヘイ牧場は競馬評論家として時代を築いた大川慶次郎氏の父が拓いた牧場であり、静内に生産の軸足を移した近年にゴーカイやサニングデール、シルポートなどの重賞馬を産んでいる。

中山競馬場の正門から県道59号線(木下街道)を西に向かうと、途中に東山魁夷が住んだ自宅と隣接する東山魁夷記念館がある。さらに進めば鬼越の交差点に石造りの中村勝五郎旧邸が残されている。魁夷が自宅を建てるまで間借りしていた建物だ。

東山魁夷は『残照』『道』以降、日本国内や北欧、中国などの美しい自然を、キャンバスに静謐と映し出す風景画で独自の境地を開いた。そこには人物や動物が表現の対象として扱われることは殆どなかったが、唯一の例外とも言えるのは昭和47年の作品群である。この年に描かれた『緑響く』『森装う』『白馬の森』など何れ作品にも、馬が登場するのだ。

「ある時、1頭の白い馬が、私の風景の中にためらいながら、小さく姿を見せた。すると、その年に描いた18点の風景の全てに、小さな白い馬が現れたのである」

魁夷は画集で語っている。

「白馬は、明らかに点景ではなく、主題である。そこには、やはり必然的な動機が内在していると、思わないではいられない。それは、心の祈りを現わしている。描くこと自体が、祈りであると考えている私であるが、そこに白馬を点じた動機は、切実なものがあってのことである。しかし、ここから先は、私自身に問うよりは、この画集を見る人の心にまかせたほうがよいと思う。」

小さな白馬が象徴するものは、生命の煌きか、あるいはその儚さか。

そして東山魁夷は白馬シリーズを描いた後、『唐招提寺障壁画』という大仕事を完成させ、未踏の高みに達するのである。



かの名画家の心中に突如現れたという白馬とは何だったのかと思案するとき、ひとつの妄想めいた考えが浮かぶ。

魁夷が画家として歩むべき“道”を見出そうと格闘した大切な時期に、物心両面での支援を続けた中村勝五郎。昭和47年(1972年)に現れた魁夷の白馬は、えにし深い中村勝五郎のハクセツとジョセツが「心の祈り」として昇華した姿だったのではないだろうか。白い姉妹がターフで活躍したのはまさに、1969年から72年にかけてのことなのである。