エホバが持たれる「感謝の大きさ」について
皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪まずはこちら↓の動画をご覧ください(^-^)え~冒頭から感涙させてしまいました(?)でしょうか・・・申し訳ありませんm(_ _)m店のご主人の全く見返りを求めない優しい愛情と、少年の受けた恩は決して忘れない厚い感謝の念の表れが本当に素晴らしいですよね(このCMは実話に基づいているものらしいです)私、何度かこの動画を見てるのですが毎回涙腺が崩壊してしまいます。動画の少年のように、感謝の気持ちをずっと抱き続ける姿勢にぜひ見倣いたいところでございます(まだまだですけどね~私は・・)お店のご主人は少年を助けたことで後に大きな報いを受けることになります。ここから「まいている種の種類は大事」ということも改めて感じました。ところで、ご主人は1度きりしか少年を助けてはいません。それでも少年は30年の間決して忘れることはなかった、ということにフォーカスいたします。このことと比較しまして(普段私たちはあまり考えることは少ないかもしれませんが)天のお父さまエホバの持たれる「感謝の念」というのはどれくらいのものだと思われます?動画に登場する少年より大きいのでしょうか?それとも小さいのでしょうか?実はエホバの人への感謝の念はこの少年よりも遥かに大きくて遥かに深いのです!!もちろんエホバは人間から「恩」を受ける方ではありません。でもあえて判りやすく表現するならば「受けたご恩は決して忘れない」方なのです。私などは特に、エホバに大した「恩」など差し上げていないでしょう。もう本当に微々たるものだと思います。でもエホバはその私に厚い&熱い感謝の気持ちをいつも抱いてくださっています。私の僅かの示した愛を犠牲を神はいつまでも忘れることはなく、貴重な宝として私が思うよりも遥かに高く高く評価してくださっていることを私は知っています。エホバにしてあげた(←あえてこういう表現です)ことで本人が忘れているほどのごく僅かな「恩」にさえ、エホバがとても感謝してくださったからこそ、今の私が存在しているのです。ところで、イエス・キリストの贖いによっても覆われることがない罪が一つあるのをご存じのことと思います。それはエホバ神の聖なる力(聖霊)に対する罪です。神の霊の働きに対して故意に反逆することは許されることはありません。であるならば!です。今はJWに好意的ではない方々が、過去JWを離れる前に差し上げたエホバへの「恩」をエホバがもう忘れている、なんてことが果たしてあり得るのでしょうか?こたえはもちろん「否!」です。エホバ神は人から受けた「恩」を決して小さく見ることはなく、忘れることもなく、ずっと感謝し続けてくださいます。だからきっとあの人も、あの人も、あの人たちも・・・一人残らず救いたいのではないでしょうか(^-^)♪私は、JWの変わり者かもしれませんが・・・そう思います。なぜなら私たちの天のお父さまエホバは、宇宙で一番感謝してくださる方だからです(≧▽≦)補足になりますが、エホバとイエスの人間に対する愛の大きさを汲み取ってみてください。イエスはたくさんの人を助けてこられたのに、みんなから見捨てられて最期の時を誰の助けも来ない孤独状態で臨みました。イエスが生涯ラストの賛美の歌を歌いオリーブ山に出て行って、苦しみの杭で亡くなるまでの間、イエスを擁護した人間は一人もいなかったのです。地上の家族同然の弟子たちは、イエスがとても苦しんで悩まれているときにまともに取り合おうとしませんでした。眠気に襲われるままになって、苦しんでいるイエスのことを神に祈ろうともしませんでした。イエスを見捨てて逃げましたし、イエスへの不当裁判の救出に駆け付けようともしませんでした。バラバよりイエスの解放を公に支持することもなく、苦しみの杭(=処刑道具)をイエスに持たせたままで、処刑を止めようとする行動も起こしませんでした。もし自分がイエスの立場だったなら、一番肝心な時に離れていく人たちのために悪態もつかず、激痛を甘受し、喜んで命を差し出せるだろうか??と私は思います。でもご存じの通り、イエスは天のお父さまへの従順を全うされ、冷たいとも思える人々を愛し続けました。弟子たち(人々)の良いところを見続けて、先の希望を確信して、それを手放しませんでした。本当にすごい!深い深い愛の持ち主だと私は思います。その方が今、私たちとエホバ神との間を仲介してくださっているのです。安心感半端ないですね~(*^▽^*)♪エホバもイエスも私たちをみんな助けたい、幸せになって欲しいと望まれています。望まれているからこそ、聖書がこの世に存在するのです。さらに言うならば規則集にしてしまった方が遥かに簡単で楽に済むにも関わらず、あえて私たちの長期的な益・幸せのために自由意思で考える原則で教えてくださっています。時々神は創った人間のことを本当のところは理解できない、人の苦しみは判らない、知ろうともしないという意見を耳にすることがあります(そう仰るのはもしかすると愛情の裏返し?神に期待されていらっしゃるからのようにも思えます)けれど、私は違うと思います。また、神は寂しいから自分を崇める人間を創った、というのも私は否定します。エホバは全ての意味において、人を骨の髄まで以上に理解しておられます。髪の毛が何本から毛細血管が何本で、細胞分裂が正確に一日何回でといった身体的部分はもちろんのこと、生涯に関わってきた人間の数、電車で、街で、半径1000m以内になったことのある人間の数や、その一人一人の歴史や家族構成その他に加えてこれまで何回笑った、泣いた、心から感動した、泣けなくなるほど辛かった、怒った、良いことも悪いことも全部ご覧になりました。もしエホバが特定の人間の伝記をお書きになるとするなら、正直本人さえ思い出せないことを、世界の図書館のすべての本のページを合わせた数よりも多いページ数でお書きになれるでしょう。神はいつでも、生まれる前からその人にずっと寄り添ってきました。その人が人生の過程で本当に神を探そうとするなら、必ず見出されるようになさいました(神の側にそうする義務は実のところはありません)神の言葉「聖書」は謙遜(であろうと努力する)でなければ、理解することができない、世界でも類を見ない特殊な本でもあります。だから・・私は皆さんお一人お一人にエホバの温かい愛情と想いが届くことを切に願っています。エホバはご自分が崇拝してもらいたくて人間を創ったのではありません。遥か昔に宇宙の設計を決めたときから描いておられた、いつか誕生してくる私たちに対する無私の愛の気持ちからなのです。そういう天のお父さまからの愛情をいつか受け取れますように(^-^)♪