皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

先月の記事の中で書きました、組織からの「謝罪は無用」という言葉について補足をいたします。↓本記事はこちら。

 

 

 

あるお方がTwitter(X)で他人である私が書いたブログの一部を切り貼りした文章をさらにコピーされて(^▽^;)”勝手に紹介させて頂きます”と表記しておられたのですが・・あの・・この行動、恥ずかしくは感じられないのかな?と正直思うところではあります(私のブログに限らず無断転載のさらに無断転載をされているご様子でしたので)

 

 

それはさておいて。上記の記事を書いた後、私は別の記事で何度か補足っぽい思い←組織に責任を求める必要がない理由・鞭の用い方のこと・当時の1世さんたちの置かれていた状況など、を書いています。気が向かれたらご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

私は理解の調整に関して「組織からの」謝罪は無用と思っています。他にも鞭の使用による児童虐待問題等についても同様です。理解の調整は今まで知らなかった、あるいは理解できていなかったことの理解が「深まった」喜びであり、エホバのお考えにさらに近づけた~良かったね!です。無論、前は違うことを言われてたのに~(>_<)という感情を引きずることは普通にあることでしょうし、ある程度納得させる時間は必要だと思います。

 

 

 

とはいえ、地上の組織はわざと違うことを指示してきたのではありません。どんな時でもエホバのご意思を知ろうとベストを尽くしてきたはずです。エホバはその真剣な努力をご覧になり、組織を構成する人たちが努力に伴った成長ができたときに初めて理解を深めさせてくださいます。なぜならそれが最もベストなタイミングの愛のある方法だからです。エホバはいつも私たちの最も益になるような仕方で行動をしてくださる方です。付け加えると私は自分の感情を整えて理解の調整についていくことは「謙遜さ」を培う訓練としてエホバが教えてくださっているように感じます。次回の記事で書く予定ですが「謙遜さ」は神との強い絆を結ぶのに極めて大事な特質です。私たちが幸せに生きていくため、幸せでい続けるためになくてはならない特質です。

 

 

 

私は組織の謝罪は「無用」と書きました。無用とは無益で必要がない、ということを意味します。つまり組織が謝ることは実は無益・・・といいますかエホバのご意思に反します。なぜなら「組織」は児童虐待を全く容認していませんし、責任転嫁もしていないからです。鞭を主導したと仰る方もいらっしゃるようですが、基本指針ガイドラインを教わって思考力を働かせた人が、どのように自分と家族に当てはめる(当てはめた)のかは各人の責任・家庭個別の問題だと私は思っています。

 

 

 

ずっと以前組織はクリスマスを祝っていた時期がありました。でも理解の調整を経て祝うのを止めました(1927年~)ではそれまで間違って祝っていたことを「組織」として謝罪する必要はあったのでしょうか?それはありません。なぜなら組織は一つの大きな家族(兄弟姉妹って言っていますよね)だからです。これって違うよね~お父さんは喜ばないよね~じゃあ皆で変えていこうか~の流れです。外部の一体誰に謝る必要があるのでしょうか。

 

 

 

「組織」と言うと何だか企業のイメージをする方が多いようですが、神の組織はそれとは異なります。弊社の○○の不手際をお詫びします、というようなことは発生しません。統治体も日本支部も雇い主ではありません。私たちは各々エホバと個人契約を結んだ子どもたちです。家庭内でいじめが起きたとき、謝罪する必要があるのはいじめた子供本人だけです。もしそのいじめに全く関係のない子どもがいじめられた兄弟姉妹に謝ったとしたらおかしくないですか?無益ではありませんか?

 

 

 

親御さんたち(おそらく機能不全家族に育ったのかもしれない)からの配慮の欠けた鞭や教育で酷い目に遭われた方々を本当に気の毒に思っていますが、私からの謝罪は全く意味がないですし、エホバはそれを望まれていません。いじめた&いじめられた人との間で事を正す(お父さんエホバの力を借りて=マタイの原則)ことがエホバの家族のルールです。だから「組織としての謝罪」は無益で不要なのです。

 

 

 

ちなみに当然のことですが、私たち「個人」は組織に属しているいないに関わらず、対人問題の解決を希求し、謙遜に謝って平和を作り出す努力義務があります。って、こういうの普通に判ることだと思うのですが・・?判らないものなのでしょうか??(転載された方のご意見を)ちょっと不思議に思いました。

 

 

 

以前に書いたことですが、聖書に人を許しなさい=怒りや恨みを捨てなさいと書いてあるのは、決してエホバが加害した人の行為を甘くみているわけではなく、「被害を受けた方」がきちんと回復できるようにするためのケアなのです。許す行為は被害を受けた方がその先の人生で本当に幸せになるのに欠かすことができない大切な大切なステップなのです。それは幸福な神エホバご自身がずっとなさってきたことなので、エホバはよ~くご存じなのです。エホバは故意に人を攻撃する人のそばにではなくていつも心の打ち砕かれた人のそばに寄り添っておられます。エホバはあなたを本当に助けたいのです。