題は未定

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「企業は、もはや成長時代のような年功序列的賃金上昇あるいは企業内福利厚生を実施することは困難になりつつあるが、それに代えて個人の多様な生き方や知的要求の充足を可能な範囲で認め、かつ支援するならば、個人も企業に対して新たな期待感をもち、また意欲と積極性をもつようになるであろう。そのためには、企業は個人に対する過度な拘束を排し、また個人の自由時間の活用による創造的活動について極力干渉を慎むことが必要である」

 

このタイトルと文章は最近書かれたものではない。

昭和55年(1980年)に経済同友会がまとめた提言である。

 

41年も前に当時の企業経営者側が危機感を抱いてここまで言っているのに、2021年の現在、この提言は日本社会においてどれほど実現したであろうか。

○レジデントだとか東■経済といった、「ビジネス・ジャーナリズム」と呼ばれる媒体はひたすら、その時々で成功した個人や企業が、なぜうまくいったのかを後付け・追認するだけであることに気づく。

例えば、△ニクロが成功したのは…、柳○社長は…という、「エライ人はエラかった」と権威に追随するのが「ジャーナリズム」だと確信しているようだ。

 

この40年間の変化はジャーナリズムの媒体が(紙からインターネットに)変わっただけのようだ。当時、新入社員であったり大学生だった、今の60歳代前半の人たちを観察していても、「個人の自己実現」だとかを意識していたような人は寡聞にして知らないし、今の大学生の多くも未だに企業内福利厚生や年功序列的賃金上昇を実施できる企業が「良い会社」だと考えているようだ。

 

「失われた30年」とか言われるが、個人が「モノ」を考えない社会が成長するわけがない。なぜなら、すでに前を走っている「お手本」もなく、自ら創造していくしかないからである。

41年も前の企業経営者団体の提言を「新鮮」に感じるようでは日本の未来は暗いだろう。

 

失業して4日目。一昨日、ハローワークで応募した会社から

面接に呼ばれて行ってきた。出てきたのは総務部の部長と課長。

 

総務部長とのやりとり。

部長:「貴方自身を電化製品にたとえると何ですか?」

自分:「すみません・・・質問の意図が理解できません。

    …敢えて言うなら、蛍光灯みたいに『明るい』人間とでも」

部長:「キミは俺を馬鹿にしているのか!」

自分:「質問返しは良くないとは思いますが、敢えてお尋ねします。

    ○○部長ならどのような回答をされますか?」

部長:「他人に聞くから意味があるんで、俺だって答えられないよ!

    そのくらい判んねえの??」

自分:「すみません。自分は履歴書の通り、しがない高卒なもので」

 

ここで総務課長が見かねて、

課長:「部長、あまり応募者の方に抽象的な質問をされても・・・」

部長:「なんだと!俺のやることにいちいち口を挟むんじゃねえよ!」

課長:「申し訳ありません!」

 

応募者の意表を突く質問をして、反応を観察する「外し」の質問は

今でもたまに遭遇するが、ここまで答えようのない質問をされたのは

久しぶりである。少なくとも2010年以降では一度もない。

 

こんな御仁が採用責任者なんて危なっかしい。

帰宅してから口コミサイトで検索したら、複数の元社員が、

「部長クラスは考え方も行動も悪い意味でバブル世代そのもの。

親会社がしっかりしているので当分は何とかなるだろうが・・・」

という趣旨の書き込みをしていた。

 

案の定、その日のうちにお祈りメールが送られてきた。

今度は失業期間が長引きそう・・・。

 

 

 

 

 

 

やっと1社、面接に進んだ。今年初だ。

 

久しぶりにワイシャツと背広を着る。

 

同じく久しぶりにヤッシャ・ハイフェッツ/シャルル・ミュンシュのメンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」を聴いた。

 

これだけ速く弾くハイフェッツも凄いし、それについていくミュンシュやオーケストラもまた凄い。

 

明日も生きていいけそうな気がしてきた。