こんにちは。
アルです。
とうとう、前世について書いてみようかと思います。
前世は難しいものですので、多分長くなります。
前置きだけで3回は引っ張る予定です。
こういう話は他人様に強要するものではありませんから、見たくなければ見なくていいのです。
でもまあ気になるわというあなた様はよろしければお付き合いください。
ちょっと暗い内容のように感じるところもあるかもしれませんし、前に書いた内容と被るところもあるかもしれませんが、
小さい頃はよく近所の塀に登って
「東村山三丁目」とか
「カラスの勝手でしょ」とか
デカい声で叫んでいましたので基本的には明るかった子でした。
求道していた頃、、、30歳になるくらいまでは死ぬの生きるのがあまりにも多くてその度にやはり色んな事を考えましたよね。。
そっち系のアイデンティティが確立した辺りから気楽になりましたが、今では気楽になり過ぎて怒られます。
。。。。。
私が初めて前世を思ったのは一歳の時です。
「ばぶう」と発した辺りから前世を思いました。
ある時、ハイハイをしていました。
ハイハイは非常に苦しく全力で前進せねばならない大変なものでしたが、私は
「怠けてはいけない、前進せねば」という本能のような感覚で必死で進んでいたのですが、その時に叔母が遊びに来て母とお喋りを楽しんでいました。
母はハイハイで色んな方向に行く私に気を取られ、触ってはいけないものを私が触ると、叔母との会話を中断して私に構っていました。
叔母はお喋りが中断する度に「うむ…」という顔になり、
なかなか楽しめない為
「ちょろちょろして目が離せないから歩行器に乗せたらいいじゃない」
と言いました。
でも母は
「しっかり運動させないといけないのでは?」という風に答えたのですが、叔母は
「コンセントに指を突っ込んたりしたら危ないから乗せたら?」と母に言うので、
母は「そうね、そうしよう」と私に近づきました。
私は、私の危険よりも本心はお喋りに集中したいのが丸わかりだなと思いつつも、
「いや、怠けてはいかん、常に努力しないといけないのに!歩行器はいかん、楽をしてはいかん‼️」と強く思い小さくいやいやをして抵抗しましたが、
逃げようとする私を母はすっと持ち上げて、
スポッと歩行器にはめました。
いやいやと抵抗しながらも歩行器に乗せられると、足で軽く地面をかくと体力を使わなくても楽に移動できるので、
スイ〜っと動いた途端
「ああ〜、また今回も怠けてしまったのか…」
と言う風に感じました。。。
その瞬間、全ての頑張る事を諦めました。
一通り会話をして母が仕事で事務所に行ったら、叔母が遊んでくれました。
私は叔母が好きでした❤️。。
それは母が叔母を好きそうだからでした。
母が喜ぶから、「今日は面倒だなぁ」というタイミングでも、叔母に笑いかけられたら、キチンと愛想を振り撒くのです。
手を叩いて叔母が呼ぶので、歩行器に乗って叔母が呼ぶ方に進みました。
「あんよは上手〜」と手を叩きながら呼び寄せるので真っ直ぐ叔母の方向に進みますが、歩行器のコマが床のちょっとした電気コードカバーの段差を乗り越えられず、少し手前で進めなくなりました。
私は体力を振り絞って前に進もうとしていた時に、
「ふぬぬぬぬ、、、なんでこれしきの事ができないんだろう?
ついこないだまで、膝の高さくらいの障害物はなんて事なくヒョイっと越えられのに‼️」
という、自分が大人の身体で足で🦵塀を越える感覚と記憶がはっきりとありました。。自分がちょうど大人の身長くらいで自分の足元を眺めている映像も浮かびました。
それが私の人生での最初の前世を思った、というか感じた経験です。
。。。。
それから幼稚園の時の事です。
3歳児の私は、私立の幼稚園に3歳から入れて貰い、4歳の子のクラスに通いました。クラスには何人か3歳児が混ざっていて、発育が1年違うのでミソッカス的に生活していました。
幼稚園の学芸会みたいな会にするお芝居の練習の時に
7匹のこやぎ?という内容の芝居でヤギになりましたが、
狼にヤギが食べられるシーンになると、毎回気を失うほどに泣きました。
床にうつ伏せになり号泣するワケです。
理由は自分では分からずにただ悲しみが深いところから湧いて来て止まらないのです。
先生も困り果てて、年長組から姉を呼んで来て慰めるように言っていました。
それから毎日ヤギが食べられるシーンで中断し、姉を呼ばれ、、、の繰り返しでしたが本番前にやっと慣れて泣かなくなりました。
またある時は、ムートンが好きで冬にムートンを敷いて寝ていましたが、
ある日、父がムートンを敷き直そうとしてくれた時にムートンの裏を見た私はゾッとして
「それ何?」と父に尋ねました。
幼いのでムートンとは毛布やセーターなどの糸でできていると思っていた私は、父の口から出た
「これは羊🐑の皮なんよ」
と言う言葉に心底怯えてしまい、
「ど、動物の皮‼️」
「いやいやいや、使わん❗️」
と皮製品を拒否しました。
これらは後になってわかった事ですが、一つ前の前世に関わる事でした。
。。。。
2歳か3歳の初めに臨死体験をし、幽体離脱をしたのですが、その時の話をしたら母に
「そう言う事は言わん方がいいんよ」
と言われたので、
不思議な事や、あの世の事は口にしないようにしていましたが、
たまーに悩みすぎると幼稚園で
「死んだら地獄に本当に落ちると思う?」
と尋ねたり、
また大怪我をした時には
「死神が迎えにいつ来るん?
あと何分?仏様は多分来んよな、素行悪いから、、、。死神が迎えに来たらそしたらやっぱ地獄行く?」と本気で怯えたり、
とにかくよく悩みました。
そして、前世の番組を見た翌日、
前世が本当にあるのか、学校が終わって1人夕日を見ながら考えました。
生まれ変わりがあるとしたら次の事は、まあいいとして、
前の事も済んだ事だから自分が覚えていない事も辛くはないからまあいいとして、
問題は今だという答えが出ました。
今、この自分。。。
10歳に満たないのに既に成績は悪く、休みがち、面倒な事はサボり癖がついていて、既に出遅れており将来は不安要素しかないという事実だけでなく、
自分という存在が100年先には誰からも忘れられているのが悲しくてたまらない。
そう思いました。
それが苦しくなりました。
終わって行く命も儚すぎるし、
誰からも、この地球上の人間誰1人の記憶から自分が消えてしまう。
自分という存在がなくなってしまうという事に辛さと危機感を感じ、夕日の赤さが一層胸に刺さりました。
誰かの記憶に残るには、
歴史に名を残さねばならない。
歴史に名を残すには、総理大臣になるか、
犯罪者になるかしか思い浮かばない、、、。
どちらにもなれない。
一体どうすれば❓
…名を残さねば‼️
…悩んだ小学3年生の私は、
「そうだ、中村紘子になろう!」
とピアノ🎹を弾くようになりました。
「普通のピアニストではダメだ、中村紘子でなくては、何も残らない‼️」
と悪い頭で思ったのでした。
それから「名を残さねば」と言う思いから外れた時、特に音楽が上手く行かない時には、自暴自棄になり人生が悪い方向に行きました。
。。。。。
小学生が終わる頃、キリストの教えを学びました。
初めて読んだ聖書の教えのほとんどが「愛」を実行する事にあります。
愛とは何かを日曜にわざわざ集まって自分の為に学ぶ人々が存在する事にショックを受けましたが、
初回で
自分の中に、たったの1ミリも「愛」が無い事に更にショックを受けました。
これは心底落ち込みまして、
「穴があったら入りたい」と口にしました。
今まで、自分はこんな大切な事を知らずに生きて来たことも傷つきましたが、自分の心の中も、行いにも、
どこを探しても、本当に愛のかけらが全く見当たらないのです。
それから聖書を読み、3回ほど日曜学校に行った私はまた、する〜っと行かなくなりました。。
でもそれから中学、高校短大、40歳くらいまでずっと「愛」はこうではないか?と学び続けました。
何か問題が起きたり厳しい状況や揉め事があると、
「愛は自ら発するもの」だとしたらどうすべきか?
と考えて実験?したり色々行動し続けました。
不良に囲まれた時に、
「顔が許せない」という理由で
1発殴られたのですが、その時に
「左の頬も殴られたら愛が何かわかるだろうか?」
とわざわざもう1発殴られてみたりするほど、
私は「愛」とは何かという答えが知りたかったのです。
そういう事をやっていた間の16歳の時、
ある神の法力を頂いているという教祖と出会った私は神様の法力について修行をしました。
元々神道の家に生まれて、そういうものには慣れていましたが、
これぞ「ザ・神の力」という本物思考の方でした。
めちゃめちゃ奇跡が起きるのを間近で見ました。自分の虚弱体質もいつのまにか治っていました。。
1年ほどは必死でやりまして、、
「まだ更に先の世界があるような気がする」
という感覚を覚えて、すっと離れて行きました。
その辺りから色々な体験も増えました。
他人の病気を感知したり、予知したり、閃きによって何かしら危険を免れたり。
その頃には
「くじらとウツボ恐怖症」である事を自覚しました。
それは15年ほど経ってから自分の前世全てに関係する生き物だったとわかりました。その頃には治ってましたが。
そして、
「外国に怖くて出られない」自分がいました。
という感じで、
「そもそも何故前世の事を書くの?」
というところから初めてみています。
それは、それだけ真実まで辿り着いたからだよって力説したいんだよー。
…。。
気になりますか?
いかがでしょうか?
前振りが異常に長いのですが、
まだまだ前振りがありますよー。
では。