私が高校のラグビー部に入部して一番驚いたことは「あのY先輩がいる」ということでした。何しろ、Yさんは中学の時から学年トップを争う秀才で、中学生とは思えない大人びた風貌と相まって相当に有名な人でした。勉強で身をたてるタイプの代表みたいな方だったのです。

 

 近寄りがたい神さまのような存在だったYさんは部活で実際接してみると本当にやさしくて寛容で、私共後輩全員何ひとつ怒られたことはないと思います。我々の子供っぽい所業に呆れられることは多々ありましたけれど、Yさんは他人に自分と同様の努力を要求するということがなかったのだと思います。17歳くらいの年齢で、部員ひとりひとりの個性や存在を尊重し、受け入れていたというのは、生まれ持った性質なのか、ご両親の教育の賜物なのか、おそらくその両方なのでしょうが、今考えても驚きでしかありません。Yさんのひとつ上のKさんもすばらしいキャプテンでした。Yさんは、何をやってもさまになり格好よいKさんとはまた違ったタイプで、私は生来のリーダーという意味でYさんのような人を他に知りません。

Kさんは40歳を前に亡くなりました。それから四半世紀がたち、実は昨日命日で私はお墓参りをさせていただきました。Kさんの墓前に行って思いうかぶのは当たり前ですけどYさんのことばかりなんです。そこで現実を初めて意識したわけで、Yさんもこんなに早くと思うと本当に信じられなく、正直受け入れがたい気持ちです。Kさんの次の主将がYさんで、次が私です。次は私かもしれませんけれど、でもおふたりとは人間のできが天と地ほども違うので心配はしていません。

私は1年の夏合宿を越してようやく部員になれたような気になりました。その時聞いたSさんの「北の宿」とYさんの「高原列車はゆくよ」は本当に忘れられません。間違いなく自分の中でのベストメモリーです。できればまた聞きたかった。

 

 先輩方本当にありがとうございます。Yさん本当にありがとうございました。

 

 ラグビー部員減少の話にいつも心を痛めておりますが、外科医師減少も厳しい問題です。特に腹部、これは全手術の8割を占めますが、そこを担当する医師が減っています。日本全体で10年後には2割減り、20年後に半分になる予測です。将来、がんになって手術という場合に、半年待たなくてはいけなくなります。それにラグビーもそうでしょうが、全体が減るとどうしてもレベルを保ちにくくなります。

 

 この地域の外科医減少はすぐにやってきます。今不足が目に見えないのは高齢で働いている医師がいるからで、このままいくと10年で半分になるようです。外科に進まない理由はさまざまですが、外科医は修練のため手術の多い都会に出て戻らないということも問題です。

 

 さて、私は10年あまり前に今の病院に勤めましたが、外科医が大幅に抜けたあとで最初実働4名でした。現在は11名です。私以外は50歳未満で平均年齢37歳です。こういう病院は全国的にも少ないと思います。

 

 いくつかやってきたことがあります。大学と一緒では難しい面もあり、大学と一線を隔して病院独自に取り組むことにしました。今の若い医師の目標というのははっきりしていて早く「一人前」ということで、具体的には専門医資格を取って認められることです。資格取得のための環境整備やら他職種との折衝やら様々なことをしました。ITも大事で、今はカルテを自宅でみられますし、相談もチャットでできますので、皆外出先から意見を言ったりします。当院では上も下も同じ仕事をするようにしています。労働は公平性を保てば、少々のことで文句は出ないと思っています。

 

 ですが、一番の難点はラグビーで培われた“昭和の体育会系”という私自身の根本を消し去ることでした。その対極にある“ゆるさと合理性”を運営方針としたからには「いいから文句を言わずにやれ」とは決して言えません。そのうちに資格をとる若い先輩を見て後輩が入ってきました。少なくとも病院単位では患者さんに迷惑をかけずにやっていけるという目途がつきつつあります。今後は資格後の成長戦略をしっかり立てることが大事になります。「外科専門医」の後も「消化器外科専門医」、その後さらに「内視鏡外科技術認定医」や「肝胆膵外科高度技能医」そしてロボット手術の免状など、10年近くかかるコースが続きます。そこまでいって資格のうえでは本当の「一人前」と言えます。

 

 運営はワールドラグビー憲章にある”情熱・品位・尊重”を重視し、無益な内部の争いや競争を避けるのが大事です。”規律”を守り”結束”して一歩一歩進むことができれば、よいチームとして成長できると確信しています。

 臨床医にとって基礎研究は必要か? お金、時間、労力をかけて取り組むべきものなのか? 

 

外科医は、腹腔鏡からロボットへと進んだ技術を極めるのにかつてよりも時間を要するようになり、数年の基礎研究がその後の臨床医としてのキャリアにどう影響を及ぼすのか、ややこしい問題である。研究の期間、内容などが人それぞれのため、一般論で論じにくく、個別の経験をどう自分にあてはめて考えるかという問題なのである。自分の場合大学で20年以上を過ごし、臨床・研究・教育のうち最も時間をかけたのも研究であった。種々の手技を自ら行い実験の原理を学び、それがおそらく思考の土台になっている。実験対象にしても核酸・蛋白、分離・培養細胞や組織、動物はネズミ・イヌ・ブタと多種で場所も国内外で様々経験をした。自分にとって、研究は何物にもかえがたい経験であり、臨床医としての立脚点である。

 

かつて医師にとっての学位は「足裏についた飯粒」と言われた。私の聞いた解釈は「とらなければ気になる。しかしとったからと言って、それで腹が満たされるわけではない(給与にひびかない)」というものである。生化学講座での基礎研究で学位をえた同期がいたが、大学には勤務せず市中病院勤務ののち開業し成功している。研究がその後のキャリアに役立ったとは言えないが「医学博士」である。医局の仲間は学位をとるため研究し例外なくとった。その半分は研究目的で留学した。しかし帰国後研究を続けたものは10人に1人もいなかった。恩師は医局に長く残るのは201と言っていた。留学中に論文を書いた者は3割程度かもしれない。このようなプロセスを経ているうちに研究者としての適性の有無が教室の指導者にも本人にも明らかになり、大学の教官として残るかどうかも自然に決められていったのだと思う。

 

話が横道にそれたが、今、若い専攻医に訊くと「研究に興味がある」と答える者は少なくない。しかし学位となると診療科や大学の事情、近しい先輩の動向などによりバラバラの答えになる。「学位を取りたい」と言う医師がいる。「学位はあったほうがいい」という先輩の意見が多かったため自分もそうしたいと言う。学位を持ち損をしたと感じる場面はない一方、持たない者はどうしても劣等感を持ちやすい。専攻医には、いかに短期間に苦労をせずにとるかが関心事で、「おいしい話」に乗りたいと思っている。まるでドイツ語よりも中国語で単位をとるほうが楽という話のようである。「学位」も「専門医」も資格のひとつでその違いを見出していない。その先輩をみると学位を持つ者が臨床や学会活動に活かしているかというと首を傾げたくなる。自ら論文を書くことはないし後輩の指導も難しい。一方研究に脇目もふらず手術を究めようとしている医師には流石と思うことがある。強い覚悟を持って臨床に対峙している場合が多い。

 

結論を出すつもりもないが、少なくとも私は学位を専門医資格のように考えるのには反対だし、研究の延長線上に学位があると考えてほしい。研究は失敗と成功の反復であり、その過程を経なければ研究したと言えない。技術認定のシステムが乗り審査を通ることもあろうが、システム化された研究に意味がないとは言わないが自己の向上にはつながらないだろう。「昭和な考え」と笑われるかもしれない。しかし研究に身をおいた者として、このことに関しては譲れない気持ちを持っている。

 

2024916日)


 

 20年余りの大学勤務を思い起こす時、やはり入局当時の記憶が鮮烈である。それは笑いと恥と怖さに満ちている。

 市中病院での研修後院生として教室に戻った時、肝臓班に所属しKupffer細胞をテーマに研究するよう指示された。病棟オーベンに「何をやればいいでしょうか?」と尋ねると「クッパ知らないの?」と言って連れて行かれた所は焼肉屋だった。そこで初めて「クッパ」を学んだ。

 

 教室ではブタの低温肝灌流実験(通称S実験)が毎週行われていた。まず養豚業者に買いつけに行き、実験前日に食肉センターにバケツ2杯分の輸血用血液を集めに行った。保健所での野犬取りにもかり出され、トラックの運転が自分の主な仕事になった。S実験は肝臓を体循環から分離し2時間冷却灌流し血流再開するというもので、体温保持が難しく再灌流直後の心室細動のため大変な死亡率であった。運よく手術を乗り切ってもシバリングが続き、布団乾燥機で温めながら寝ずの番をした。夜中、犬たちが悲しげに遠吠えする施設にS先輩とふたり。なぜだかそこで怖い話を聞かされていた。極めつけは医局に出入りしている女性がLeiche*となり大学に運ばれたという話だった。施設に向かう途中に法医解剖室があり、その前でこの話を聞かされたとき、本当に背筋が凍る思いがした。それ以降、私は夜そこを通れなくなった。

 

 実験では当時循環器内科から重要な依頼を受けており、ブタが死亡したら解剖し大動脈を渡すというものだった。循内では血管内皮の培養を行っており大動脈をとったら夜中であろうとT医師に電話し新鮮なうちに渡すのである。ある時、S先輩が暗い声で「この間なあ」と言うので、また怖い話かと私は身構えた。「T先生に渡したaorta**、食道だったよ。」培養されたのが扁平上皮であるため判明したのかどうかまでは知らない。ただ、この時、「この実験は果てしなく続くのではなかろうか」そんな不安が頭をよぎった。

 

 施設暮らしが長くなるにつれ設備は充実した。手術台、麻酔器、モニターをもらい受け、レーザードップラーの他トランソニックという最新血流計にバイオポンプが配備され、人工肺付き臓器灌流装置を買った。蛍光観察システムの前進近赤外線分析装置を購入し組織ヘモグロビンやICG測定に用いた。また、実験室内に血液ガス分析器を配備し血流計とPCをつなぎ肝酸素需給動態を自動記録するという画期的システムを組んだ。4000万円は下らない機器で部屋を埋め尽くしたうえ、ブタにheat shock proteinを誘導するためのサウナを科研費で購入しようとしたが、これは非常識と教授に却下された。

 

 苦労したのは麻酔である。顎が小さいと挿管困難だがブタには顎がない。26cm長のブレードを使っての挿管はある意味特殊技能であった。一度麻酔科医に来てもらったが挿管が上手くいかなかったうえに全身に血を浴びせて次はない状況をつくってしまった。私は臀部に筋注するため「ブタに馬乗り」になるのが何とも不合理に思い、吹矢を使っての注射に変更した。しかしある時危くK医師の臀部に矢が刺さりそうになり、その後は馬乗りに戻した。今考えると怖い話だが当時は笑い飛ばしていた。

 

 大学院を修了し私は肝移植実験のリーダー格になった。動脈吻合はピッツバーグの多臓器移植実験で学んだ方法にして開存性に問題はなかった。苦心したのは視野確保の困難な肝上部下大静脈の吻合であった。これはハイデルベルク大学訪問時ドナー側をすべて体外で縫うのを見てそれに倣い解決した。輸血はドナーからの採取分で充分になっていた。結果レシピエントは翌日元気に歩くようになった。贅沢なことに肝保存にUW液を使用していた。ドナー肝を4℃のUW液***に浸しUWクラッシュアイスで肝表面を覆うが、あるとき真水の氷が使われていることに気づいた。「誰だ、この氷を入れたのは?」思わず大声を出してしまった。一瞬の静けさののち「僕だよ」と敬愛する上司に言われた時、穴があれば入りたいとはこの事だと思った。教授も助教授も遅くまで実験室で過ごされていた。生意気で失礼ばかりだったろうと今更ながら恥ずかしい。

 

 自分を含め学位実験の多くにラットが使われ、細胞培養や生化学実験も熱心に行ったが、自分たちを成長させてくれたのはあの大動物実験室である。17年におよぶ大動物実験から16篇の英文と15篇の和文論文が生まれた。手術手技に関する研究会を開いた時、動物実験室と講義室、遠隔大学の三元中継でライブビデオ討議を行った。われわれの経験が活かされたハイライトであった。臨床肝移植という目標に向かい皆で取り組む日々はやりがいに満ち、教室には苦労を楽しむ雰囲気があった。すべてが楽しく誇らしい記憶である。

 

*ドイツ語で遺体の意

**大動脈のこと

***University of Wisconsin液,臓器保存液の1種

 兄弟とはそのようなものなのだろうが、兄と私は同じなのは背丈くらいで、血液型、性格、運動能力、体型、筋肉のつき方、何をとっても似ていない。中でも違うのは性格であろう。ガキ大将がそのまま大人になったような兄に対し、私は引っ込み思案で人前が極端に苦手。合唱で自分のソロパートがきて口パクしてしまうような子供であった。

 6歳違うからか、男兄弟で兄にいじめられたかと言えば全くそんな記憶はなく、遊んでもらった楽しい記憶しかない。私は小学生の時歴史が好きで、平家物語を古典教科書でをそらんじており、兄はそんな私を面白がって歴史の問題を出し合う真剣勝負をしてくれたりしていた。

 運動能力の差は歴然としており、最も意識したのは兄が中学時代にやっていた野球を見ていてであった。弱小野球部ながら場外ホームランをうつ強者だった兄は、高校に入り当然野球部から声がかかったそうであるが、「硬式の球が怖い」と言ってもっと怪我の多いラグビー部に入った。妙な話としてこれはわが家の伝説になった。私が小学校に入ってすぐ、グラウンドに兄の野球を見に行ったことがあった。そこで「この子はかの有名な○○くんの弟です。」と紹介され、はずかしいけれどとてもうれしかった思い出がある。その時以来ずっと、兄は私の憧れのひとなのである。

 母親にはお前は兄と違うから「勉強するしかない」と言われていた。私は親に従いたくない気持ちが強く、高校でラグビー部に入るという暴挙をおかしてしまった。その結果3年間ジャージを自分で洗濯し続けたが、試合に出るようになるとその母も目立たぬよう試合場に足を運んでいた。母は私を心底かわいがってくれ、間違ったことをしても責めることもなく、いつも擁護してくれる人であった。ラグビーは心配でならなかったことだろう。私は兄にも同じ愛情を感じている。母と兄は私の100%味方であり、私もそうありたいと思っている。

道をあるいても、遠くの山を見ても美しいこの季節。

新緑の季節は紅葉と比べると長いので、晴れた週末に出かけることも可能だ。

 

車で足を延ばして、北東北の2大湖、田沢湖と十和田湖をめぐった。田沢湖も十和田湖もカルデラ湖で深い。

 

田沢湖は水深日本一で標高を差し引いても海面下174mというからなんだか不思議である。近くのスキー場の上まで行くと晴れた日には湖面がきらびやかに輝く。今年リフトを上がったところにブランコが設置され、強めに漕ぐと湖に飛び出すような感覚を味わうことができる。

 

一方十和田湖は水深は田沢湖、支笏湖についで3位だが、なにせ景観が美しい。周囲も山が深いので紅葉も本当にきれいである。そして、遠くに見えるのは八甲田連峰である。

 

今年は暑くなると言われているので、皆さんもあまり暑くなる前に早めに出かけてみてはどうだろうか?

先週末にはまだ蕾がどうのと言っていたのに、3日前から急に暖かくなり北国のさくらも一挙に開花。

 

昨日は五分咲くらいかな、と思っていましたけど、あまりの暖かさに今週末には見ごろを終えてしまっている可能性大になりました。まあ、少し山に行けば、遅れた桜をみることもできるのですが、今年はすでにクマも出現という話。短いのがさくらとは言え、週末の見ごろがないのでは少し悲しいですね。

 

写真は秋田県と山形県の境にある鳥海山という山を背景に桜を見られる小さな公園です。昨日は近くにお菓子屋さんがあったので、そこで買った団子を食べながらのんびり歩きました。先週東京にいたけど、もはや散ってしまっていて、今週も出かけますが、もうみられるところ北海道くらいしかないかも。青森県の弘前のさくらはそれはそれは見事ですよ。今週末あたりがよいかもです。

 “昔は・・だったのに”という年寄りじみた言い方を避け“最近は・・”と言い換えたところで懐古という本質は同じであろうか。“最近”学会で「?」という発表に出くわす機会が増した。“若手”は検索上手で知識は豊富だが、どのようにしてそこに至ったのか経緯を知らず発表していることがある。インターネットで容易に情報を入手でき、生成系AIという人間の知的活動を阻害しかねないものまで出てきた。道具は使いようではあるが、論文を読みこみ孫引きする、という地道な作業はすたれ、経緯は飛ばされがちなのかもしれない。“昔”先輩から受けた熱血指導を今は受けられないことも影響しているのだろう。 


 自身、コロナ禍になり毎朝の科内カンファに出られない日々が続いた。長年発表レベルを保つのに腐心してきたが、予演に出られないと指導の機会はない。そんな折、なじみの印刷会社から「何か書いて本にしませんか?」との誘いがあった。そこで、プレゼンで気をつけていることをまとめ「市中病院における学術発表・論文作成のための手引き」という冊子にして科内医師と研修医に配布した。A4版125ページ、本として体をなすギリギリの分量であるが装丁はそこそこ立派である。印刷物という古典的媒体を通してではあるが、これも流行りの“プッシュ型情報発信”と言えるであろうか。 


 「あとがき」で“Publish or perish! 発表したら論文に”ということを強調した。かつての恩師に“礼儀”という大義のもと押しつけがましく冊子を送ったが、そこは流石師である。「筆者の学問に対する真摯な姿勢が伝わる著作であり、Publishしたことでこの先残るのは大変に意義深い」との身に余るお言葉をいただいた。“著作”と言われると自費出版なので本屋に並ぶ予定はないしこそばゆいが、このようなことを言ってくださる方がいるだけでも手間暇かけて作った甲斐があったというものだ。折しも身近な先輩が定年になり、勤務医としての“終活”を考える時期である。今度は“自己マン”という言葉が見え隠れするが、そのどこが悪いと開き直っているので余計に始末が悪い。次なる著作の準備をはじめているのである。

 筆者は1986年から2007年までの22年間大学の消化器外科医局に在籍した。その間、手術手技では腹腔鏡手術が導入され長足の進歩を遂げた。1989年に開始された生体肝移植は日本で脳死移植数が頭打ちの中医療として定着し、世界へと広がった。肝切除前門脈塞栓は1984年に日本で報告され、肝胆膵がんに対する血管切除の普及と時を同じくして1990年以降国内外へと広まった。この時期は、わが国の肝胆膵外科におけるそれまでの地道な努力が一気に結実し、技術革新を遂げながら世界をリードすべく、急速に発展した時期である。

 大学在籍中、肝胆膵領域を中心に総説・著書を執筆した。読み返してみて、手術適応や周術期管理に関する基本的な考え方は、当時からほとんど変わっていないことを改めて感じた。本誌では、そのうち今読んで参考になり、基本として知っておいてもらいたい論文(総説的原著を含む)を選んだ。術前・術後管理総論、合併症治療、肝臓・胆道・膵脾外科、門脈圧亢進症など領域別の総説を読むことで、現在行われている治療のアウトラインと歴史的経緯を把握することができよう。

 筆者が臨床で注力した領域は肝不全の病態解明と治療である。掲載論文をみると当時いかに術後肝不全が日常的であったかがわかる。1995年の「外科治療」には1986年から94年までの教室の消化器外科術後肝不全9例の一覧表があるが、その後も筆者が在籍した2007年まで肝不全は後を絶たなかった。このテーマは時代そして教室の必然であった。筆者らは肝硬変例でのAT-III製剤投与を嚆矢として、炎症性サイトカインがELISAキットで測定可能になると肝切除後のマクロファージ系細胞のTNF-α、IL-1β産生能を研究し数多く発表した。その後プロスタグランディンE1に着目し、当時行われていた末梢静脈・門脈投与に代わり、肝動脈投与・SMA投与が肝再生の鍵である肝血流・酸素供給を改善し、重症肝障害に有効であることを動物実験で明らかにした。肝不全ならびにハイリスクの肝切除例に対して臨床応用し、筆者らの方法はドイツで肝移植後患者に対して追試された。

 2007年市中病院に異動し肝切除の可否を自ら判断する立場になってからは、肝不全の治療でなく、肝不全を起こさないことを絶対的な目標としてきた。的確な術前評価、門脈塞栓術、適切な胆道ドレナージと安全・確実な手術手技などが肝要であるが、結果、肝不全を経験せずに手術を遂行できている。発表のネタは減ったが、かつて数多くの肝不全を経験した者として何よりであると思う。

 この文献集を通して1990年以降20年の外科の変遷に触れることは、若手医師にとって貴重な機会となろう。臓器不全発生機序としてのsecond attack theoryは日常的に経験するし、CHDFなどの血液浄化療法についても救急科が充実し外科医が導入・管理する必要性は低くなったものの、知識は必要である。救急医とともに外科医が心血を注いで臓器不全の治療を発展させてきたのであり、これを機会に膜や回路、体外循環による生体反応など、基礎的なことを学んでほしい。

 腹腔鏡からロボット支援へと変遷する時代、外科医は“手技”に目を奪われがちである。しかし侵襲学、外科治療の学問的根拠や歴史的経緯こそ、外科医が第一に学ぶべきことであるのは今も昔も変わりない。そして、この中の何であれ、読者研究への興味をかきたてるものがあれば幸いである。

2023年3月

 自分にとってすべてのことが可能に思え、同時にすべてが不可能に思えた。どうしようもなく傲慢でいながら、小さなことに絶えず傷ついていた。大人の狡猾さに強く反発しながら、同時に強くあこがれていた。多感な高校時代、ラグビーを通じて監督の教えをうけたことは私にとって望外の幸運であり、今も貴重な財産である。

 

 私がラグビー部に入ったのは、六歳上の兄の影響を受けてのことである。兄は花園、国体で華やかな戦績を残し当時慶応大学でプレーしていた。その弟として先輩に誘われるまま練習に参加したが、選択の誤りに途方に暮れることになる。体力のない私はきつい練習にまったくついていけなかったのである。兄弟選手を多く見てきたであろう監督は兄と私の資質の違いを即座に見抜いていたに違いない。しかし、監督は私に体力がつき、やがて走れるようになるのを辛抱強く待っていてくださっていた。間違って兄の名前を叫ぶのは習慣化していたが、私はそれに喜んで応じていた。

 

 高校2年の秋、花園予選決勝は一生忘れられない痛恨の記憶である。わが校は押し気味に試合を進め前半をリードし折り返した。ハーフタイムでの監督のアドバイスは「相手はブラインドサイドのウィングを走らせてくる。それに注意しろ!」だった。わが校が2点リードのままインジャリータイムに入り、誰もが6年ぶりの花園出場を確信した。その矢先、敵の左ウィングにブラインドサイドを走り切られ、8対6で逆転負けを喫したのだった。(あのトライがなければ、あの時全国大会に出場していれば人生が変わっていたのではないか、と思うのは私だけではあるまい。)監督は助言を守れなかった私たちを叱責することなく、言葉少なに労をねぎらってくださった。悔しい思いをしたのは監督とて同じ、いや私たち以上の忸怩たる思いがあったはずである。

 

 昭和53年、監督がわが校のグラウンドに立たれた最後の年に私は主将を務めた。前年ほどのチーム力はなかったが6月の高校総体まで覇を争っていた。しかしまたしても決勝で敗れ、目標としていた国体単独出場の道は絶たれた。そして、この年に始まった共通一次という入試制度により11月に花園予選を控える部員は厳しい現実に直面した。総体終了後3年生は顧問の先生に集められ、部を継続するか、花園出場を諦め受験勉強に専念するか、一人ひとり選択を迫られたのである。その結果、夏休みの練習に参加した3年生はわずかとなった。主将としての私に求心力がなかったことは否めない。それでも秋に入ると練習を離れていた3年生が何人か復帰しチームとしての形を成したが、もはやよい戦績をあげられるはずもなかった。

 

 私は当時、顧問の先生がなぜ私たちにあのような選択を強いたのか納得がいかなかった。多数の3年生が抜けることで部員の士気は大きく低下した。教師としての立場もわからぬではないが、文武両道を謳ってきたわが校ラグビー部のその後に深い翳を落とした出来事ではなかったかとの疑念を今も捨てきれない。この事態を監督はどのように受け止めておられたのか。私は今でもそれを尋ねたい衝動に駆られる。選手の自主性を重んじる監督であるがゆえ、私たち一人ひとりの選択を静観されていた。私たちは果たして正しい選択をしたのか。

 

 監督が話されたことで印象に残っていることはいくつもあるが、それ以上に記憶に焼き付いているのは、グラウンドに立つあの姿である。雨の日も、砂塵の舞う風の日も、炎天下の夏の日も、そして吹き荒ぶ雪の日も、休むことなく私たちを見守っていた。自らが脚光を浴びることを決して望まず、何ら見返りを求めず、ただひたすらにラグビーに、ラグビーを通して私たちに、熱い情熱を注いでいた。その姿にこそ私たちは魅きつけられる何かを感じ、成長の糧としたのではなかったか。私たちも青春のエネルギーのすべてをラグビーに注ぎ、それに応えたつもりであった。

 

 練習を終え、監督を囲んで皆で輪をつくる時、小さな至福の時である。監督が吸う甘いパイプの香りとともに記憶が呼び起こされる。「ご苦労さん。・・・」監督の短くも適切なアドバイスが今も私たちの心に響く。監督に教わったラグビー魂と情熱は今も私たちの心の深奥に息づいている。目を閉じると、監督はあの姿のまま私たちを見守ってくれている。監督の教えを享けた者として、あの情熱にこたえることをこれから先もやめてはならないと思う。

 

(1995年記)