20年余りの大学勤務を思い起こす時、やはり入局当時の記憶が鮮烈である。それは笑いと恥と怖さに満ちている。

 市中病院での研修後院生として教室に戻った時、肝臓班に所属しKupffer細胞をテーマに研究するよう指示された。病棟オーベンに「何をやればいいでしょうか?」と尋ねると「クッパ知らないの?」と言って連れて行かれた所は焼肉屋だった。そこで初めて「クッパ」を学んだ。

 

 教室ではブタの低温肝灌流実験(通称S実験)が毎週行われていた。まず養豚業者に買いつけに行き、実験前日に食肉センターにバケツ2杯分の輸血用血液を集めに行った。保健所での野犬取りにもかり出され、トラックの運転が自分の主な仕事になった。S実験は肝臓を体循環から分離し2時間冷却灌流し血流再開するというもので、体温保持が難しく再灌流直後の心室細動のため大変な死亡率であった。運よく手術を乗り切ってもシバリングが続き、布団乾燥機で温めながら寝ずの番をした。夜中、犬たちが悲しげに遠吠えする施設にS先輩とふたり。なぜだかそこで怖い話を聞かされていた。極めつけは医局に出入りしている女性がLeiche*となり大学に運ばれたという話だった。施設に向かう途中に法医解剖室があり、その前でこの話を聞かされたとき、本当に背筋が凍る思いがした。それ以降、私は夜そこを通れなくなった。

 

 実験では当時循環器内科から重要な依頼を受けており、ブタが死亡したら解剖し大動脈を渡すというものだった。循内では血管内皮の培養を行っており大動脈をとったら夜中であろうとT医師に電話し新鮮なうちに渡すのである。ある時、S先輩が暗い声で「この間なあ」と言うので、また怖い話かと私は身構えた。「T先生に渡したaorta**、食道だったよ。」培養されたのが扁平上皮であるため判明したのかどうかまでは知らない。ただ、この時、「この実験は果てしなく続くのではなかろうか」そんな不安が頭をよぎった。

 

 施設暮らしが長くなるにつれ設備は充実した。手術台、麻酔器、モニターをもらい受け、レーザードップラーの他トランソニックという最新血流計にバイオポンプが配備され、人工肺付き臓器灌流装置を買った。蛍光観察システムの前進近赤外線分析装置を購入し組織ヘモグロビンやICG測定に用いた。また、実験室内に血液ガス分析器を配備し血流計とPCをつなぎ肝酸素需給動態を自動記録するという画期的システムを組んだ。4000万円は下らない機器で部屋を埋め尽くしたうえ、ブタにheat shock proteinを誘導するためのサウナを科研費で購入しようとしたが、これは非常識と教授に却下された。

 

 苦労したのは麻酔である。顎が小さいと挿管困難だがブタには顎がない。26cm長のブレードを使っての挿管はある意味特殊技能であった。一度麻酔科医に来てもらったが挿管が上手くいかなかったうえに全身に血を浴びせて次はない状況をつくってしまった。私は臀部に筋注するため「ブタに馬乗り」になるのが何とも不合理に思い、吹矢を使っての注射に変更した。しかしある時危くK医師の臀部に矢が刺さりそうになり、その後は馬乗りに戻した。今考えると怖い話だが当時は笑い飛ばしていた。

 

 大学院を修了し私は肝移植実験のリーダー格になった。動脈吻合はピッツバーグの多臓器移植実験で学んだ方法にして開存性に問題はなかった。苦心したのは視野確保の困難な肝上部下大静脈の吻合であった。これはハイデルベルク大学訪問時ドナー側をすべて体外で縫うのを見てそれに倣い解決した。輸血はドナーからの採取分で充分になっていた。結果レシピエントは翌日元気に歩くようになった。贅沢なことに肝保存にUW液を使用していた。ドナー肝を4℃のUW液***に浸しUWクラッシュアイスで肝表面を覆うが、あるとき真水の氷が使われていることに気づいた。「誰だ、この氷を入れたのは?」思わず大声を出してしまった。一瞬の静けさののち「僕だよ」と敬愛する上司に言われた時、穴があれば入りたいとはこの事だと思った。教授も助教授も遅くまで実験室で過ごされていた。生意気で失礼ばかりだったろうと今更ながら恥ずかしい。

 

 自分を含め学位実験の多くにラットが使われ、細胞培養や生化学実験も熱心に行ったが、自分たちを成長させてくれたのはあの大動物実験室である。17年におよぶ大動物実験から16篇の英文と15篇の和文論文が生まれた。手術手技に関する研究会を開いた時、動物実験室と講義室、遠隔大学の三元中継でライブビデオ討議を行った。われわれの経験が活かされたハイライトであった。臨床肝移植という目標に向かい皆で取り組む日々はやりがいに満ち、教室には苦労を楽しむ雰囲気があった。すべてが楽しく誇らしい記憶である。

 

*ドイツ語で遺体の意

**大動脈のこと

***University of Wisconsin液,臓器保存液の1種