”鉄分補給”の旅 2019年早春@信濃路(その3) | 知は力!痴は活力?

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 さて松本駅からは、松本電鉄に乗り換えます。


 終点の新島々から一つ手前にある、渕東(えんどう)駅で下車しました。


 安曇野の平地が尽きる辺り、目の前には梓川沿いの山並みが迫ります。
 ここから梓川を上流(写真の奥側)へ国道158号沿いに進むと、奈川渡ダムや中の湯温泉があり、更に上流には上高地があります。
 ここから、高低差の急な坂道を10分少し歩くと、波多神社に隣接して仁王門が建っています。



 神社なのに仁王門?とお気づきの方もおられると思いますが、元はこの付近に明治維新の頃まであった『若澤寺(にゃくたくじ)』の遺構だそうです。



 仁王門ということで、中には二体の仁王像が収められています。


 像の墨書銘から、鎌倉時代末期に製作されたものだそうです。


 近くにあった由来書きにも、壮麗な七堂伽藍が建ち並び、江戸時代には『信濃日光』とまで称された巨刹”若澤寺”が上波田の集落背後に聳える山中にあったことが記されていました。


 仁王門から境内に足を踏み入れると、阿弥陀堂の手前に、田村堂という名の小堂がありました。

 安曇平の山沿いは、4月上旬では桜の時期にはまだまだ早く、こぼれるような小さな花をつけた満開の白梅が、人影の途絶えた境内を明るくしています。

 
 田村堂もまた、若澤寺の数少ない遺構であり、その名が示す通り坂上田村麻呂に由来するものらしく、田村麻呂と延鎮の創建伝承がある清水寺(同名の建物がこちらにもありますね)を思い起こさせますが、静寂に包まれた境内や、更に深山にあった廃寺の佇まいを想えば、清水さんというより同じ延鎮上人の伝承を持つ、音羽山中の牛尾観音法厳寺を想起させます。


 覆堂の内部を覗くと、由緒ありげな厨子が収められていました。


 もとの松本藩は、明治維新直後に徹底的に廃仏毀釈を実行した藩の一つでもあります。

 昨年、シリーズ投稿した明治維新と廃仏毀釈をテーマにしたうち、2018年5月6日に投稿した記事(各地に波及する廃仏毀釈 ~”明治維新150年”に考える)でも松本藩の廃仏毀釈と、若澤寺の廃絶について取り上げていました。

 興味深いのは、いろいろ調べてみると廃仏毀釈を徹底した他藩とは、事情が違っており『当時の藩主が新政府から疑念を持たれることを警戒する余り、廃仏毀釈を積極的に推し進めた』『若澤寺の指導層である僧侶の堕落が、領民の怒りを買い、民心の離反を招いた』という事情があったとのこと。いずれにせよ当時の支配層(僧侶を含めて)側の原因により、壮麗な伽藍はむざむざ破却され、文化財的な価値を有する寺宝が多く流出してしまったことになります。

 さて、付近をしばらく散策し、かなり日も暮れてきた頃に波田駅から再び松本駅へと戻りました。

 夕食を駅前で済ませて、今度は大糸線で穂高まで向かいました。
 

(大糸線で穂高まで移動したのは夜だったので、すみませんが松本駅発車待ちの同形式で代用(笑))

 二日目の夜は、穂高駅から徒歩15分ほどの旅館に泊まりました。
 で、翌朝は穂高駅前でレンタサイクルを借り、またまた少し寄り道します。


 穂高駅付近で、大糸線に乗り入れて南小谷まで行く特急あずさを見かけました。
 付属編成を松本で切離すとかせず12両編成のまんま大糸線に入線してくるんので、ある意味壮観でした。途中駅の離合交換とか有効長は大丈夫か、とか(◀読んでも訳分からんヒト放っときますよ~ 義務教育ちゃいますからね~(笑))
 
(続く)