各地に波及する廃仏毀釈 ~”明治維新150年”に考える | 知は力!痴は活力?

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 昨今の時事ネタを間に挟んでしまい、何回か続編の投稿を飛ばしてしまいました。平に御容赦を。

 明治改元を待たずに布告された『神仏分離令』ですが、その影響はごく短期間のうちに全国に波及していきます。廃仏毀釈という形をとって、旧幕府の宗教政策と不可分に結び付いていた、仏教寺院に対する、あまたの破壊行為を伴う急激な改革となって。

 特定の宗派に対する禁教政策は、近世を通じて既にいくつかの藩において実施されており(有名なものは薩摩藩や人吉藩の、浄土真宗に対する禁教)、江戸後期になると国学・復古神道の影響もあって、明治維新に先んじて、藩をあげて神道への傾斜、仏教寺院の統廃合に乗り出すケースも見られるようになります。(津和野藩、松江藩領の隠岐の島、美濃苗木藩など。水戸学の本場である水戸藩でも、寺院の統廃合が早い時期から行われた。)

 石見・津和野藩では、藩主の亀井茲監(これみ)、及び廃仏毀釈の推進役だった国学者の福羽美静・大国隆正といった家臣が、後に新政府において揃って神祇官の要職に就くなどしたこともあり、藩主以下、藩士全てが神式の葬祭へ宗旨替えを行い、その後領民にも神式を強制するなど、維新前から徹底した廃仏政策が断行されました。

 上記に挙げた諸藩は、西国の例が多くを占めますが、東国でも、富山藩や信州松本藩などでも、厳しい廃仏政策が行われました。
 富山藩では領内に300ヶ所以上あった寺院を、各宗派1ヶ寺ずつのわずか8ヶ寺のみ残し、後は全て廃寺とするという、徹底的な寺院整理の方針が出されます。ただし富山は真宗王国と言われる北陸にあり、真宗門徒を中心に仏教側からの反発も大きく、一旦決められた寺院の統廃合も四年後の明治5(1872)年には撤回されます。

 この富山藩の廃仏政策に対する、真宗門徒の対応に見られるように、廃仏毀釈において浄土真宗僧侶の果たした対抗的役割は、全国的に見ても新政府が行き過ぎた神仏分離政策を修正して行くのに、大きな意味を持ちます。

 近世幕藩体制においては、寺檀(寺請)制度が庶民の支配・統治に重要な役割を持っていたことは、よく知られている通りです。宗門改めといって(当初はキリスト教禁圧策の一環として創設)、基本的には一般庶民は、必ずどこかの寺院の檀家となることが強制されていたということですが、これにより支配者側に組み込まれた仏教側に一種の沈滞的な状況が生じたことは確かであり、裏を返せば、明治維新に至って廃仏毀釈が急激に展開して進められた背景には、庶民層から支配層の一員である旧来の仏教への反発も、一因となっていたと言えます。
 そのような背景もありますが、仏教諸宗派にあって浄土真宗は、檀家との結び付きが(経済面でも精神的生活面でも)他宗と比較して強い面があり、檀家への神式の浸透は、他宗派以上に、一宗の存亡に関わるとの危機感が強かったのではないかと思われます。

 このように全国に波及した廃仏毀釈の影響で、古くからの歴史を持ち、信仰を集めていた各地の中心的な大寺院までが破却、廃寺の対象となります。
 上記で紹介した信州松本藩では、平安初期以来山岳仏教の拠点として大規模な伽藍を誇り、『信州日光』の異名で知られた波田・若沢寺が、また越前では、白山信仰の拠点として繁栄した平泉寺が、奈良では石上神宮との関係が深く、興福寺や東大寺、法隆寺に次ぐ規模の伽藍を誇った内山永久寺が、さらに鹿児島では、島津家の菩提寺として代々の尊崇を集めてきた福昌寺が、跡形もなく破壊され尽くし廃寺となってしまい、各寺に伝来していた由緒ある仏像や法具、経典などが大量に散逸・流出しました。
 単に信仰・精神面だけでなく文化財、美術的にも全国規模で多大な損失をもたらしたのが”廃仏毀釈”の影響といえます。


 さて、主題から少し脇道に逸れますが、前回紹介した京都における廃仏毀釈について、主要な社寺での神仏習合の名残を、現地で探してみました。

 菅原道真公をお祀りする北野天満宮から…


 正面の楼門右側には、明治以前にはお寺さんにあるような『多宝塔』が建っていました。



 今は破却され、宝物殿が建てられています。

 さらにもう一カ所、楼門手前側の参道途中東側にある、境内摂社の『伴氏社』という、道真公の母・伴氏をお祀りしている小祠があります。


 ここは、石鳥居の台座部分が『蓮弁』(仏像の台座によく見られる意匠)になっており”京都三珍鳥居”の一つとして有名です。
 この蓮弁のある鳥居自体が、神仏習合思想を現していますが、祠自体は明治以降に建てられたとのことで、元は”忌明塔”という五輪塔が幕末まであったということです。
 で、元々あった五輪塔は、すぐ近くに移されているとのこと。

 北野天神さんの参道東側に『東向観音寺』さんがあります。ここのご本尊さんは、道真公ゆかりの『十一面観音菩薩像』であります。そして、境内の隅にあるのは、


 巨大な五輪塔!『伴氏廟』の名の通り、お寺さんの方に確認したら、明治以前は伴氏社の場所にあったものが移転したそうです。これ以外にも、前回触れたように、北野社を支配・管理していた”三祠官寺”と呼ばれた別当寺(松梅院・妙蔵院・徳勝院)は、廃仏毀釈の影響で揃って廃寺となっています。

(長くなりましたが、さらに続きます。)