前回の流れから宗教繋がりで指摘すると、キリスト教や念仏仏教について異論がある。
それは以下の二点。
①神仏という蛇足。
②投じる思念の方向間違い。
①は慈悲や懺悔に神仏への依頼・依存は不要だということ(善行に神仏のお墨付きはいらない)。
②は、慈悲は他人でなく自分に対して、懺悔は神仏でなく他人に対して行うものだということ。
>仏教において慈悲(じひ)とは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。
>>他の生命に対して
>キリスト教における憐れみとは?
>イエスはいつも「憐れみ」をもって人々と関わったことが記されています。
> 他人によって心を動かされ、共に蒙ることを意味します。
>>他人によって
>仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、
>菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。
>>仏、菩薩、師の御前にて告白
>告解はカトリック教会においては、洗礼後に犯した自罪を聖職者への告白を通して、
>その罪における神からの赦しと和解を得る信仰儀礼。
>>聖職者への告白
他人に義務的に情け(慈悲やお布施)をかけることで頭が一杯になり、自分や家族を蔑ろにするのは間違ってるし(宗教虐待)、
神仏に謝るばかりで当事者への謝罪・贖罪がおざなりになるのも道を外れている(異教徒に謝らない一神教徒)。
慈悲・慈愛は自らの内面に満たすことで外面に溢れ、他人に伝わる(自分が起点)。
懺悔・贖罪は他人に謝ることで許され、自分自身でも自分を許せるようになる(他人が起点)。
このベクトルが現行のキリスト教や仏教では逆のようで、アプローチの方向を間違えているように思える。
このことはこちらの動画からも示唆されているように思う。
それはまさに懺悔であり、被害者に対して直接謝罪することに意味があることの一例だ。
またイチキップリンという方の場合はいい人過ぎて小さなことで罪悪感を抱きやすく、そこを付け込まれて悪霊を抱え込んでると言われている。
それには塩風呂が解決策として提示されてるが、私の一案では自尊心を高めるため自分に向けて慈悲・慈愛を投じるべきだと思う。
シークエンスはやともさんが言うには、ガチの悪党が悪霊に憑かれないのは本人の気が強く罪悪感が微塵もないことが理由だそうだが、そこから学ぶことはあるだろう。
自らに向けた慈悲は慈愛となり、自尊にまで高まれば霊的防衛力も強まるはずだ。
それにプラスして丹田を鍛えることも気持ちを強く持つには大事だろう。
かといって加害について鈍感になるのも悪い。
理想は心優しき武道家だ。
心を慈愛・自尊で満たしつつ他者には小さなことでも謝り、償える懐の深さが望ましい。
自分に慈悲・慈愛を向けることで愛情が溢れだし、他人に波及することを慈愛のトリクルダウンと呼ぼうか。
他人に懺悔し償うことで許しを得て、それが自分に波及するのは許しのトリクルダウンだ。
虐待された人間から愛情をもらうのは難しいし、自分が謝ってもない相手から許されるのは不可能だ。
最悪なのは愛のない虐待児がいじめを行い、それを教師が形だけ謝らせるか謝らせもしないで被害者に許しと和解を強要するケースだが、慈悲と懺悔の道理を理解すればそんなトリクルダウンは起こり得ないことは自明だろう。
愛のない人間に対してこちらも愛せないし、謝りもしない加害者を被害者は許せるわけがない。
他人から愛や許しが欲しいなら、まず自らを愛し、自ら率先して謝罪すべきだ。
こんなことは当たり前なのに既存の宗教はそこに神仏を介在させ、愛と許しの安売りを信者に促し、自然な人間の心情をねじ曲げていやしないか?
この慈悲・懺悔はトラウマに関連し、トラウマは四苦八苦の格(毒親による人格を歪ませるほどの家庭内での虐待)と虐(過酷な社会環境による虐待的苦難)に由来する。
慈悲・慈愛は被害者トラウマを癒し、懺悔・贖罪は加害者トラウマを洗い流す。
他人に慈悲をかけても自分の被害者トラウマが癒されなければ無意味だし、神仏に懺悔したそばから無自覚・無反省に異教徒・異分子を虐待する加害者は救われない。
人間関係のトラウマは生きてる内に解消しなければ地球への執着となり、カルマとして輪廻転生に影響する。
余計な因縁は地球脱獄の足かせになる。
また分裂し離散した魂の断片(転生アバター)を収集・復元するにもトラウマは障害になる。
逆に目減りした魂では低性能ゆえトラウマを自覚・分析し治癒できないので、両者は並行して解決しなければならず尚更難易度が上がる。
●の技法は三歩進んで二歩下がる地道な作業が必要であり、10年単位の根気と時間がいる。
キリスト教や念仏仏教に関してはその精神技法である慈悲や懺悔にはトラウマを癒す効果があるため、神仏への依頼心を捨て、アプローチの方向を逆さまにすれば正常に機能するゆえ有用である。
しかしそれらが神仏や聖職者をまるで試験官のように崇め、自らを合否を下される受験生に貶める限り私の支持する世界観とは相いれない。
この地球において神のような管理者は誘拐監禁犯であり、我々人間は隙を見て逃げ出す算段を練るべき囚人である。
誘拐犯を崇める囚人は洗脳されていると言わざるを得ない。
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ただ多神教的な神仏は地球管理者の息がそれほどかかっていないようだ。
土着の精霊や心霊は我々の隣人であり、神道の儀礼などは異文化コミュニケーションの作法でありマナーだ。
必ずしも土着の神仏を崇める必要はないが、力ある隣人に敬意を示し頭を垂れるのは人間社会と同じく何も不自然なことではない。
彼らは我々を監禁し搾取する犯人の一味ではないのだから。
例えば近くの神社に参拝し、親交/信仰を深めることにやましいところはない。
主従関係でなく友人関係なら生身の友達と変わらない。
その親愛・友情は四苦の格/人格(愛着)の歪みを治す一助になり得る(ただし病的に依存する場合はその限りでない)。
友達に挨拶する感覚で参拝し、パワースポットである神域や龍脈の力を借りて人間社会で汚された精神を浄化させる。
それは温泉に入るようなもので、宗教というより健康法に近い。
うつ病をアニマルセラピーで治すように、神仏との触れ合い(ご祈祷など)で霊的疾患を癒すのはゴッドセラピーとでも呼ばれるべきだろう(冗談)。
その意味で比較的無害な多神教の神道と適切な修行により大悟解脱を目指す本格的な仏教が身近にあり、●の著作が原語で読める日本に生まれたのはラッキーと言える。
ゴリゴリの一神教国に生まれたのではこの世界観・宗教観を選ぶ選択肢はなかった。
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本旨とは関係ない神道の意義に話が脱線したので、もう一度私の慈悲/懺悔の理論を確認する。
大切なのは自分自身のトラウマの解決(大悟に至る準備その1。その2は魂の器、転生アバターの修理復元)。
トラウマには被害者属性と加害者属性がある。
被害者トラウマを癒すのは自分自身に向けられた慈悲と慈愛(被害の自認は大前提)。
加害者トラウマを癒すのは被害者に向けられた懺悔と贖罪(加害の自認は大前提)。
それとは別に自分とは関係ない他人の存在がある。
他人には問題のある属性として自分以外によって傷ついた被害者と自分以外を傷つけた加害者がいる。
被害者に対して無理に慈悲を向ける必要はなく、第一は自分が新たな加害者にならないことだ。
まず善かれと思った行いがかえって相手を傷つけるのを避ける。
そして被害者の心のケアはまず本人にやらせねば解決しない。
加害者に対しては無理に許す必要はなく、第一は自分が新たな被害者にならぬよう警戒し距離を取り、自己防衛を固めることだ。
早まった許しは安易な無防備を生み、自分が第二の被害者になりかねない。
また加害者の改心は本人がやらねば解決しない。
しかし被害者なのに自らを癒やそうとしない麻痺した人に対しては慈悲を促すこともでき、加害者なのに自らを叱責しない倫理観を失った者に対しても懺悔を促すことができる。
それでも自らの心の中に被害者や加害者が癒されぬまま残存する人間に他人に口出しする権利も能力もないと自粛すべきだろう。
被害者トラウマを癒し損ね、深層心理に残したままの隠れ被害者が被害者である他人に慈悲をかけるのは同病相憐れむ心理だ。
確かにカウンセラー気質の人間は何らかの訓練や体験を経ているのだろうが、それで自分は癒しの道に精通していると勘違いし、偉そうな口を利く輩が世間の宗教信者に多い。
同様に自分の中の隠れ加害者を放置したまま加害者の他人を叱責し、改心を試みるのも分不相応であり、ゆくゆくは加害者のためと称して力ずくで謝らせ、加害者を自分の攻撃的善意の被害者にして恨みを買うことになりかねない。
それでは新たな遺恨を生むだけだ。
つまり私の理解はその基盤としてまず自分の汚れた尻を自分で拭くという小乗仏教的な(安易に他人に干渉しない)志向がある。
自分の問題を解決してない半端者が他人に介入するのはお門違いだという自戒がある。
その点でお節介な世話焼き的性質のある大乗仏教とは、あるいは社交性の高い布教型キリスト教とは相いれない(エックハルトのような密教的異端派は別。仏教の密教も同様)。
①神仏への依存、②慈悲/懺悔のベクトル違い、③大乗仏教的なお節介さ。
グノーシス主義的な反宇宙論のみならず、どうやら私の宗教観は何もかも既存の世界的宗教とバッティングするようだ。
それらは世界を不幸に創った「神(デミウルゴス)」を肯定・依存し、未熟な自分を棚上げに他人に干渉し、それを善行と称して自らの霊的得点稼ぎに利用する。
私はそのような欲深き宗教者を人間の徳性・道徳心に対する冒涜者と見る。
最後に付け加えると、慈悲・懺悔の天敵の存在には要注意だ。
懺悔の天敵は分かりやすく、ビジネス被害者だ。
いくら謝ったところで誠意は伝わらず、賠償金と雪辱しか求めてこない。
例えば慰安婦問題をごねる韓国人のような存在には懺悔は通用しない。
慈悲の天敵はビジネス加害者というべき存在であり、一言で言えば犯罪者だ。
慈悲・慈愛は自分起点のトリクルダウンによって周囲に波及するが、愛を込めた接し方をしてもなびかない交渉不能の相手が犯罪者であり、ビジネスとして加害行為をする者だ。
ビジネス被害者も当たり屋のような犯罪者だとも言える。
そのような輩と遭遇したら早急に絶縁し、逃げるしかない。
けだもの相手に健全な関係性の構築など無理だ。
既存の宗教では対象を差別せず、犯罪者相手にも慈悲や懺悔、あるいは許しを推奨するが、それだから真面目な信者ほどカモにされる。
何なら教団自体がビジネス加害者の場合もあり、地獄の構図だ。
自分が大悟した後なら無差別性も成立するだろうが、ペーペーの段階で大悟者の真似事をしても逆効果でしかない。
自分のトラウマを解消する段階では関わる人間を選別し、犯罪者には絶縁や拒絶、無視など差別してもいいというのが私の考えだ。
犯罪者と関わって余計傷つけられたのでは元の木阿弥だから。
最悪なのは自分の親が毒親でビジネス加害者であり、それを大人になって非難したらビジネス被害者をやりだし批判をかわそうとする場合だ。
この豹変は日常の人間関係でも起こり得ることで、そのような人間は相手にするだけ無駄である。