ちょっと調べたところ、前回述べた極論、一神教、特にキリスト教の宗派を天国転生派と現世改善派で分けるという主張は全くもって非現実的な暴論だと分かった。
16世紀の宗教改革以降、教会の権威が失墜することで生まれたのが聖書を絶対視する聖書主義であり、聖書に誤りがあると見なす私の意見はキリスト教徒に受け入れられるわけもなかった。
また、聖書には天国への行き方がハッキリ書かれているわけではなく、ただ神への信仰がなければ天国行きは有り得ないと半ば脅迫的に言及されるのみのようである。
これは宝くじは買い続けなければ当たらないと言われるようなもので、天国行きを願う者からすれば何とも頼りない記述だろう。
16世紀の宗教改革は教会と聖書を分離させ、聖書主義を生んだと述べたが、もし今後第二の宗教改革が起こるならば、それは聖書から真実の抽象概念を抜き出し、聖書の記述に固執する守旧派と聖書が示唆する本質を新たに尊重する一派とで分離するものと予想する。
イスラム教ではユダヤ教やキリスト教の聖書を同じ神、ヤハウェが授けた聖典として尊重しつつも、コーランと矛盾する点があればコーランの記述を正しいと見なし、聖書の矛盾箇所は改竄捏造されたものとするそうだ。
つまり、聖書に対して疑いの目を向けること自体、さほど起こり得ないことではない。
問題は聖書の何が正しく、何が誤りかの判断だが、私個人の意見としては宇宙由来の神がモーセやイエスといった預言者に何らかの啓示をもたらし、その目的は人類を救済し、天国へ導くものである、という事柄は少なくとも信じるに値するだろうことだ。
肝心の天国への行き方だが、それは別個に探求する必要がある。
神が実在し、人類に地球は宜しくないから天国へ導く必要があると思わせたなら、この地球での人生は何なのだろう?と疑問に思うのは当然であり、
信仰の拠り所である聖書の記述に疑義があるなら、イスラム教がユダヤ教やキリスト教の聖書を批判的に見る際、コーランを拠り所としたように、聖書懐疑派は新たに信仰上の拠り所を別の場所から調達する必要がある。
それはもはやキリスト教とは言えないかもしれない。
その拠り所が他宗教の思想なのか、現代科学なのか、新たな預言者の登場なのかは不明だが、新展開があるとするなら今ある条件では成り立たないだろう。
聖書を疑い、その欠落箇所を他所からまかなうというアプローチは、現状のキリスト教に不満があるなら必然的にキリスト教信者の中から沸き立つものだと思いたい。
私は非キリスト者として真逆の対岸からキリスト教など一神教の記述に真実の欠片を探し出し、自分の探求の一助として活用するのみである。