この世の運命生成システムは、例えるならガチャガチャのカプセルの中にカレー粉(幸運)とウンコ(不運)が50%の確率で入っており、それを5度回して出たものを全部鍋に入れて食べさせられるようなものだ。
全くウンコが入らない確率は1/32。
ウンコが1回分入るのは5/32。
ウンコが2回分入るのは10/32。
ウンコが3回分入るのも10/32。
ウンコが4回分入るのは5/32。
全部ウンコなのは1/32。
汚い例えで悪いが、このように人の運命には不幸(ウンコ)の含有率により厳然と格差がある。
しかし本来1回でもウンコが入ってしまえばそのカレーは一巻の終わりである。
実際不幸を体験しない人間はほとんどおらず、大半はウンコが入ったカレーを知ってか知らずか我慢して食べている。
このシステムを知らない者は何の疑問も持たず、我々が食わされるカレーにはウンコが入っているものだ(人生は辛いものだ)とさも当たり前のように暮らし、
毎度毎度ウンコを食わされるのはおかしいと文句を言う者を逆に世の中を分かってない若造だと鼻で笑う。
しかし、どう考えたって高確率でウンコ(不幸)が混入するガチャガチャ(運命生成システム)はおかしい。
それを不満にも思わず、出されたウンコ入りカレーを黙々と食う人類もおかしい。
それはまるで詐欺と洗脳のコンボである。
キリスト教では原罪という設定を設け、人の不幸の原因を人間自身に求めたが、そんな馬鹿な話はないだろう。
>原罪
>キリスト教はユダヤ教の影響下に,人類の始祖アダムの堕落物語 (創世記3章) を聖書的典拠として,
>すべての人間は人祖の罪を負い,生れながらにして罪のなかにあり,
>それから脱出する自由を自分ではもたないと説く。これが原罪である。
これを占い、運命生成システムを知る者の観点から言い換えるなら、
「すべての人間は人祖の原罪という濡れ衣を着せられ、生まれながらにして(運命生成システムが作る)不幸のなかにあり、それから脱出する自由を封じられている」、となる。
ではその犯人は誰かと言えばこの世の理、運命生成システムを定めたいわゆる神、造物主であり、原罪とは加害者たる神の罪を被害者たる人間になすりつけた完全なる冤罪である。
そもそものユダヤ教の聖典について調べると、以下のような見解がある。
創世記をはじめ、旧約聖書ではエジプト神話とメソポタミア神話の影響が混在している。
そして、擬人的で嫉妬深いヤハウェと、言葉だけで命令する全能神エロヒムが同じ文章で並列的に語られているのだ。
このため、旧約聖書創世記は第一章と第二章に統合性がならない。
(中略)
死海文書を「本当の聖書」とするのならば、創世記に関しても19ないしは20のバージョンから一つにまとめなければならないということだ。
(中略)
死海文書の真実とは、現在の旧約聖書の成立が90年ごろのヤムニア会議以降であることが明らかになったということである。
旧約聖書は古代から石版に刻まれた不変のものではない。
(中略)
旧約聖書を初めて手にした者は、あまりの矛盾の多さと統合性の無さに頭を抱えることだろう。
しかし、この矛盾こそが、人類の信仰を知る鍵となるのだ。
(引用、終わり)
つまり、ユダヤ教はそれ以前のエジプトやメソポタミアといった多神教の影響下に生まれ、バージョンが多数あって統一性がなく、不変性もなく、矛盾があるということだ。
なら創世記が語る原罪という設定が後世に付け足されたデタラメだとしても何ら不思議はない。
私が考えるユダヤ教、キリスト教は、天国(高次元の他星)への移住を推進する言わば「帰還事業」については肯定できる。
しかし、教義の根源である原罪は冤罪であり、真っ赤な嘘だろう。
また、一神教以前の多神教の神々を悪魔として貶めたのは、それらの神々が運命生成システムに根深く関与している点を考えれば、その存在の否定を意味する限りにおいて肯定できる。
しかし、運命生成システムとそれにまつわるイデア界からもたらされたギリシャ神話やそれ以前の神話に由来する神々の存在は、
それが人の運命に如実に影響する現実を直視するなら存在自体を肯定するより他なく、キリスト教のように多神教を否定し、占星術を弾圧したところでその現実は変わらない。
別の言い方をするならば、キリスト教など一神教は、詐欺師(造物主)の手口(多神教の神々を使った運命生成システムの呪縛と地球での人類の監禁)を否定しても(だから多神教を悪魔と見なし、地球脱出による天国行きを目指す)、
詐欺師自体の存在はあやふやにし、悪いのは詐欺に騙される人類だと責任転嫁させ(原罪)、だから教会に金を出せと我田引水に勤しむという、詐欺の相乗りをする共犯者だと言える。
もっと違う言い方をするなら、詐欺師が用意した影武者(多神教や原罪)を詐欺師本体だとわざと誤認し、詐欺の被害者に親身になって近寄り、一緒になって詐欺師の影武者を糾弾し、その費用として金品を請求するも、その内実は詐欺師と裏で通じ、共犯関係にある、というようなものだ。
この錯誤の根本的な原因は、グノーシスの言うように真なる神、至高神と悪しき神、造物主の混同であり、ヤハウェとデミウルゴスの同一視にある。
こんなことを言うと一神教の信者は激怒するかもしれないが、私が自分の正しいと思うことを率直に言うなら必然的にこうなる。
占星術の根拠である星の運行は人の運命に対し如実に影響を与えている。
その象意を定めるギリシャ神話等の物語は、フィクションの域を越えた有意義性を持ち、占いの的中に寄与するため、イデア界から降ろされたこの世のゲームシステムの裏設定だと思われる。
その占いの根拠たる多神教や占星術を否定するキリスト教など一神教は(イスラム教は占星術を肯定)、地球脱出により天国(高次元の他星)行きを目指す限りにおいて正しく、その教えをもたらした存在、宇宙由来の神は善意から人類に啓示を授けたと推測される。
それを自らの権力増大と財政的欲得という現世利益のため、啓示の内容を歪曲させ、人の不幸の原因を造物主が作った運命生成システムに求めず、人間自身の原罪にあるとして責任転嫁させたキリスト教会は言語道断である。
つまり我々人類は、造物主が作った運命生成システムという不幸を前提とする不可視のカラクリと共に、
一神教が構築した原罪という冤罪(運命生成システムへの公訴棄却)と占星術の否定という目隠しを二重に食らわされており、
真実と相まみえるには両者の関門を一つずつ撃破する必要に駆られている。
一神教の教義のどこが正しく、どこが間違っているか。
運命生成システムとは何なのか、そこから抜け出すにはどうすれば良いのか。
この二つの視点からもたらされた複合的問題に答えられねば、「この世は何なのか? なぜ我々は苦痛を背負わされるのか?」の根本的な疑問に答えたことにはならないだろう。
また、現実の苦痛を軽減し、現世利益を増幅させる数多の信仰や技術はこれまでの論考とは全くの別問題であり、
それは一神教が否定する多神教(人の願望を食い、幸運を授ける思念生物)の管轄である。
一神教が現世利益に寄与するならば、それはもはや天国行き、来世利益を第一の目的とする一神教ではなく、多神教に近い改竄された別の思想と言える。
私は一神教に見せかけた現世利益追求型の信仰を否定しないし、むしろ人の一生は欲望を完全燃焼させるためにあると考えるので、俗物街道邁進は賛成の立場だが、
事実とかけ離れた商品表示は違法性のある偽装であるため、そんなインチキは改めよと道徳の観点から物申しているだけである。
天国(高次元の他星)を目指す一神教、現世を天国に改良する多神教。
この棲み分けは必要だろう。
イエスやマリア、あるいは多種多様な天使や聖人たちをイコン(聖像)とし、加護を受け、現世利益を期待する現行のキリスト教は、
もはや純粋な一神教ではなく、多種多様な神仏に祈願する多神教に近しいことを自覚すべきだ。
占いはそのどちらでもない、「この世は何なのか?」の問いに答えるための前提的な知識・技術であり、
この世が造物主による作り物であることを知った後、来世利益を目指すか現世利益を選ぶかは各自が好きに判断すれば良いことである。
極論を言えば、仏教が解脱を目指す禅宗と大衆の心理的ケアを試みる念仏仏教に分かれたように、
キリスト教など一神教も天国を本気で目指すものと信者の心のケアを行うものとで分離しても良いかもしれない。
心のケアには当然欲望のケアも含まれるため、それは多神教の現世利益追求に近接するだろうが、
天国を目指すのは二の次にすることを宣言すれば別に多神教のように振る舞っても堕落とは見なされないだろう。
むしろ現行の来世利益と現世利益が混在した中途半端な状態より気持ち的にスッキリする。
キリスト教の宗教改革は教会と聖書を分離させ、カトリックとプロテスタントを生んだが、そろそろ天国転生派と現世改善派で分かれても良いかもしれない。
でなければキリスト教徒の癖に拝金主義な輩の存在がキリスト教への不信を外野に芽吹かせることになると思うが、それはもう手遅れか。
占いが真理の探求を目指す学問系とお悩み解決を試みる霊感系とに二分され、その内の拝金主義なインチキ占い師が世間の占い評を悪化させたように、
宗教に関しても真面目な一派の評判までインチキ宗派が貶めるのは避けようもない現実である。
悪貨が良貨を駆逐するのは、いつの時代もどこの国でも宗教でも占いでも学問でも文化芸術でも、悲しいかな同じである。