皆さま、こんにちわ。よねおでございます。最近、少しずつ肌寒くなってきましたね。体調は崩していませんか?来週からはなんともう12月!師走となり何かと忙しい日々が続くかと思いますが、皆さま体調管理には十分お気をつけください。

 

さて、昨日までの連休を皆さまはいかがお過ごしだったでしょうか?

私は県内で開催されたJR九州ウォーキングというイベントに参加してきましたよ!

JR九州ウォーキングとは、JR九州が主催で地元の方々と一緒に作ったオリジナルのウォーキングコースを、時間にとらわれることなく自身のペースで歩くウォーキングイベントです。

しかも参加費無料・事前申込不要(中には事前登録が必要なものもあるようです)!

このイベントは九州各地で開催され、街を歩くことでの再発見や地元の方々との触れ合いを楽しめるものになっています。歩く距離もそんなに長くないのでビギナーでもお子様連れでも十分楽しめると思います。

 

外の空気に触れ、自然や季節の移ろいも感じることが出来るので病院内を駆けずり回る日常とは違った感覚を味わえます。また、ゆっくりと街歩きをしながら、その土地の名産品の試食や工芸品の鑑賞も出来ますので、車でサーっと通り過ぎてしまうような土地でも、じっくり見て回ることにより新たな発見や閃きををすることもできます。私たちは仕事柄ついつい行政データの収集・分析や地域の関係者と地域の課題や問題点を話し合うだけで済ませてしまいがちですが(しかし、それはそれで大切なこと。)、私は五感をフルに働かせてその土地の風土を知ることも大切だと思います。

 

『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』等の歴史小説で有名な故司馬遼太郎先生は「街道をゆく」という紀行文を日本全国旅しながら執筆していたそうです。街道を歩みながら、風土や歴史,その土地の暮らしを肌で感じ人物やこの国のことを考察したそうです。そう考えると、私たちも街道を歩きながら、住んでいる・働いている土地のソーシャルワークに思いを馳せてもいいのかもしれませんね。

JR九州ウォーキングのような地域で行われるイベント等への参加でナチュラルにそして楽しみながら、地域を知る・考える方法があってもいいのではないかと感じた晩秋の出来事でした。

 

 

こんにちは、DOです。一日の気温差を少しずつ落ち着き、本格的に寒くなってきましたね。

コロナウイルスは第3波到来と言われ、未だ猛威を振るっています。油断せずにできることからしっかりと取り組んでいきましょう。

 

さて、包括支援センターに勤務しているDOも病院にいた時はER(救急)を主に担当していました。

個人的にERにおけるSW実践は興味があり、非常にやりがい持って業務に従事させてもらっていました。それは何故か?2つの出来事が関連しています。それは今でも覚えています。

1つは初任者の頃に読んだMSWのコラム「救急医療におけるMSWの役割」

その中には確か・・・確かですが(笑)命を救うことが最優先とされる現場では、生活や福祉の考えは一瞬見えづらくなったり、後回しにされたりするが、その場面だからこそ、その方の人生や生活そのものが表れており、そこをMSWが掘り下げ、声なき声を拾い、その思いを未来へ繋げていくことが大切というようなことが書いてあったと思います。

そして、もう一つはある研修で出会ったERのMSW出身で現在は大学で講師をされつつ、地域づくりに携わってらっしゃる先生の講義。

講義の際に「ERに運ばれてくる一部の患者(アルコール依存症・ゴミ屋敷・虐待・認知症・自殺企図等)の状態は地域の繋がりの弱さや福祉の機能不全の結果(象徴)である。」と述べられていました。

 

コラムの内容や先生からのメッセージを受け、私がERでSW実践を行う際には(もちろん、ERには限りませんが)、単に漠然とルーティンとして生活歴を聴くのではなく、本人・家族はもちろん、ケアマネジャー、場合によっては民生委員さん等と一緒にエコマップを作成し、地域との繋がり・地域での役割という視点を大切にして関わっていました。そんな私が現在は包括支援センターで勤務しているわけですが、最近は戸惑うほど認知症介護に関する相談が多く寄せられます。その中で、私が関わらせてもらったとある認知症高齢者の方とそのご家族の支援で感じたことを紹介します。

 

ご本人は一人暮らし。元々しっかり者で働くことを生き甲斐とし家族にも厳しい人でした。

最近では暴言・妄想・介護拒否・徘徊等のBPSDがあり、毎日時間問わず別居の娘さん宅を訪れては窓ガラスを叩き割ったり、暴言を吐いたりすることが続いていました。なんとか医療機関に繋がり薬物療法を受けることができ、居宅ケアマネジャーが決まって介護サービスを利用することができるようになっても、認知症の症状は安定することなく、徐々に娘さんは追い込まれ、遂には自殺を図ってしまいました。

その背景には親族間の関係性の不和,入院(医療保護入院)や入所等のご本人への対応やケアに関する家族の方針を一致することが出来ず、時間だけがただ過ぎていったということがあったそうです。その後の話し合いの末、もう一人の娘さんが引き取ることとなりましたが、今度はその娘さんがどんどん追い込まれていきました。我々、地域包括支援センターが関わることになったのはこの時点です。

初めてお会いした時にお孫さんを含め、一家心中してもおかしくないというような印象でした。

ある日、自宅で暴れるご本人をお孫さんが止めようとした際に怪我をしたので我々が訪問しました。

自宅は荒れ、そこにいる全員が涙を流していました。誰が誰のために、そして何のために生きているのだろう・・・そんな雰囲気でした。

すぐ、救急車を要請し、とある病院のERに搬送されました。私は諸々の体制づくり、連絡調整、各種報告を行った後に病院に向かいました。私が病院に着いた頃には、搬送後30分程度経過し検査・処置は終了。「何もないので帰って大丈夫ですよ。お大事にどうぞ」と言われました。本人・家族とERの対話はケガの経緯を共有しただけで、その他はありません。直後に着いた我々に対する質問等も特にありませんでした。この時、私は言葉に表すことのできない気持ちになりました。

ただ、病院の対応がダメだとかそういうことではなく、むしろ医療的手当としてはこれが一般的な場面であり、ERの日常でしょう。私がMSWだったとしても当たり前に過ぎていく一場面かもしれません。

 

結局、このことからDOは何が言いたいか・・・。

我々支援者が現場で見ているのはご本人・家族の人生・生活のほんの一部、いや一欠片に過ぎないということです。

患者さんやその家族から見聞きする出来事は日々の中の些細な出来事かもしれません。しかし、ほんの一欠片にしか過ぎない些細な出来事でも、患者・家族の人生・生活を救うきっかけにつながるかもしれません。そして、そのチャンス・SOSを支援者は逃さないでほしいと思います。だからクライエントから発せられる生活の一欠片を大切にしなければいけないとDOは思います。

漫然と生活歴や病歴を聞くのではなく、「どんな思いでここ(病院等)にたどり着いたか・・・。繋がったのか・・・」と患者さんや家族が抱える過去,現在の苦労,そして未来への希望。それらの欠片の一つ一つを見つめて、クライエントを知ろうとする気持ちや姿勢です。

また、MSWは地域を知らなければならないとよく耳にします。地域の何を知るか?それにはどのような意味合いがあるのか?イマイチわからない言葉の表現だと思います。DO的には地域の方々の暮らしぶり,医療福祉に関する困りごと,生活に対する思いを知ることは、MSWのフィルターを通してどのようなサポートが必要かを考えるきっかけになるのではないかと考えます。例えば、農業が盛んな町だと○○。高齢者が多い地域だから○○。団地なので○○。という風な、いわゆる地域の産業や街並み,その地域での暮らしの特性ですね。○○の中には課題点もあれば、お手本になるような事柄だってあると思います。この○○の先に、専門職として求められている役割・使命,所属機関が地域に求められる役割・使命が見つかるかもしれません。そういったこともあるので、一人でも多くのMSWが外に目を向け、足を伸ばしてもらえると嬉しいです。

 

MSWは本当に大切な仕事です。大切な役割です。頼れる専門職です。

私なりに今伝えたい気持ちを書いてみました。これからも一緒に頑張りましょう!

 
 
DO
 
 
 
 
 
 
これまでの世の中は、理性を成長させ、合理性を追求し、理屈で人を説得し理屈で正しいことを追求してきました。家庭では夫婦や親子間での起こる物事も理屈で対応してトラブル等を解決しています。学校や会社の成績や業績は理屈で成り立っています。そのような中で、皆さんは理屈を優先していませんか?自分の正しさを主張し、対立を作っていないでしょうか?
しかし、私たちには意思があります。例えば、認めてもらいたい,理解してもらいたい,ほめてもらいたい,好きになってほしい,信じてほしい,待ってほしい等のさまざまな思いです。
誰もがそう思っているのに、自分が思っているようには認めてくれないし、愛してくれない。つまり、満たされたいという心を抱えています。みなさんはどうでしょうか?
認めて!わかって!ほめて!という気持ちというてのは、タイトルで書いているような「心が欲しい」ということではないでしょうか。
 
皆さんが担当されている患者様、ご家族、又は同じ組織で働く方々や連携先の方々。
「はい、わかりました」と頭で理解して、心の中で「はいはい」と流すのではなく、「受け止めて、伝えていく」。きっと、みんな受け止めて欲しい。これを私たちソーシャルワーカーの間では、受容、共感って言うものだと思います。
特に今はコロナ禍で「ソーシャルディスタンス」と言われ、医療機関や施設等でも面会禁止だとか様々な感染対策がとられています。外部からウイルスを持ち込ませないため、患者様を守るためにといえど、これまでとは大きく異なる環境だと思います。
 
そんな環境の中で大切な「心」まで離れちゃっている状態になっていませんか?
私たちソーシャルワーカーは、このような状況だからこそ、「心が欲しい」との声に応えていける人でありたいですね。このコロナ禍に、私たちソーシャルワーカーが、誰に寄り添い、何を受け止め、どのように伝えて行くのか、試されているのかもしれません。又はこれらを成長させる機会なのかもしれません。
患者、家族等の想いを汲み取る力、想像力を働かせ、心が欲しいと叫んでいる方へソーシャルワーカーとしての心をあげてください。心をあげるとは「愛をあげる」ことです。認める,理解する,ほめる,信じる,待つことだと思います。様々な人の「心が欲しい」という叫びに応えて、それが人と人とを結びつけるきっかけになると思います。揺るがない意思とやり抜く心を大切に。
 
 
 
はったらー