スター・ウォーズ/フォースの覚醒に出てくるレイの幻覚(ネタバレ注意・中) | kyupinの日記 気が向けば更新

スター・ウォーズ/フォースの覚醒に出てくるレイの幻覚(ネタバレ注意・中)

 

フォースの覚醒の映画の中で、レイがライトセーバーを触る瞬間、さまざまな幻視、幻聴を見る。これは今回の3部作の謎が秘められている場面だと思う。その幻覚についての解釈や今後の展開予測についてはいくつかのサイトで言及されていたのを知り、一気にモチベーションが落ちた。そのようなこともあり、後半はスターウォーズの裏話的なエピソードを中心に書くことにした。

 

ジョージ・ルーカスがスターウォーズを撮影し始めた当時、アメリカはまだベトナム戦争の傷が癒えておらず、国民は意気消沈していた。ベトナム戦争は1955年から始まり20年間続いてやっと1975年に終結している。結果は、ベトナム民主共和国の勝利である。

 

1970年代初頭のアメリカはリーダーや英雄への信頼を失い、原油高騰やインフレなど経済の混乱などを反映し、現実的で暗く悲観的な映画が制作されていた。例えば、ポセイドン・アドベンチャー、タワーリング・インフェルノなどである。従来の映画製作が通用しなくなったと感じたハリウッドの映画会社は、若い世代の観客を獲得したいこともあり、映画学校の卒業生を映画監督して育成するようになった。そのような時代、才能のある若い監督、フランシス・フォード・コッポラ、ブライアン・デ・パルマ 、スティーヴン・スピルバーグ、マーティン・スコセッシらが独自の感性で映画を製作していた。ジョージ・ルーカスによると、普通は撮れないような作品を撮ることができたと言う。

 

ジョージ・ルーカスは北カリフォルニアの出身でハリウッドにコネがなかった。南カリフォルニア大学(USC)映画学部に入学するが、当時から独自の感性を持ちあわせていたらしい。在学中に撮影した映画、THX-1138もかなり異色な作品で、その見事さのため教授たちも注目するほどだった。何に驚いたかというと、ルーカスが制約の中で傑作を撮ったことである。ジョージ・ルーカスは、大学卒業後、コッポラの独立経営映画会社に参加する。彼は成功は目指しておらず、他人に干渉されず自分の作品を作れるだろうと確信していた。このスタンスは、その後の彼の映画製作のあり方に大きく影響している。

 

1971年頃、ルーカスは学生時代に撮影したTHX-1138を長編にリメイクする。しかし、その完成作品を観たワーナーブラザースの重役は、コッポラに出資していた複数の作品の製作費30万ドルの返却を求めた。その結果、早々に会社は破産。勤め先を失ったルーカスはその後、ルーカス・フィルムを立ち上げるのである。THX-1138の失敗を受けルーカスが制作したのは青春映画「アメリカン・グラフィティ」。この作品の製作期間は28日、製作費100万ドル以下にもかかわらず興業的に大成功の作品であった(製作費77万7千ドル、興行収入1億1千100万ドル)。当時、サンフランシスコで試写をしたところ、観客の反応も良かったのに、ユニバーサルの重役が公開に反対したと言う。また映画会社が介入し5分間削られるなど、ルーカスにとって1作目は理解されず2作目は介入されるという不愉快な結果になった。

 

アメリカングラフィティを撮る前から、ルーカスはフラッシュ・ゴードン風のスペースオペラを撮影したいと考えていた。なぜこのジャンルを選んだかというと、若者の印象に残る作品を楽しく撮れるからという。また、宇宙を舞台にした古典的神話を基に制作したかったようである。ところが、ルーカスがこの企画を持ち込んだユニバーサルとユナイテッド・アーティスツはいずれも制作を断っている。ルーカスが次に話をしたのは当時の20世紀フォックスの新しい重役、アラン・ラッド・Jrであった。アラン・ラッド・Jrは技術的なことは理解不能だったが、ルーカスとその才能を信じていた。その理由は、アメリカン・グラフィティでルーカスは天才だと思ったからである。

 

ルーカスは1974年からスター・ウォーズの脚本を書き始め、200ページ以上と分厚く壮大な話になっていた。そのため映画を3作に分け、まず第1幕の映画化を目指すことになる。脚本は1年以上かけて書いていたため、残りの2幕も無駄にしたくはなかった。ところが、与えられた予算ではせいぜい1本しか撮れない。そのようなことから、残りの2幕は保留にして1作目の完成を目指した。

 

ルーカスは必要な製作費を20世紀フォックスに出して貰うために、印象的なプレゼンテーションが不可欠と考えた。そこでルーカスが雇ったのは、ボーイング社のデザイナー、ラルフ・マクォーリーである。ルーカスはラルフ・マクォーリーの描く絵が素晴らしいことをわかっており、映画の構想が会社側に伝わるようにシーンを絵にしてくれと頼んだ。その結果、数枚の絵と脚本を提出し映画のイメージを説明できたのである。ラルフ・マクォーリーの作品を見たフォックスの重役は納得し、製作費として825万ドルほどの予算が決まったのであった。

 

ルーカスは実に先見の明があり、これ以上の製作費を要求しない代わり2作目以降の制作の権利を要求した。アラン・ラッド・Jrによると、ルーカスは商品化権の多くをほしがったという。しかし当時はキャラクター商品などあまりなく、映画会社もその価値を軽視していたため、ルーカスは映画会社が気にも止めない商品化権のほとんどを得ることになった。これがその後のスターウォーズの作品のあり方に良い意味で影響している。

 

ベトナム終戦当時のアメリカでは、SF映画は時流に乗っておらず、20世紀フォックスもアラン・ラッド・Jr以外の重役は協力的ではなかった。また、インターネット、パソコン、携帯電話、ホームビデオもなく、映画を撮影するにもCGもない時代である。

 

フォースの覚醒では、最初に美しい砂漠が出てくる。あの砂漠は、アブダビで撮影されている。アブダビはUAE(アラブ首長国連邦)の首都である。第1作目スターウォーズエピソード4(1977年5月公開)では砂漠の惑星タトウィーンが出てくる。これはチュニジアで撮影され、今回アブダビで撮影されたのは、ISISなどの治安面を考慮されたのであろう。

 

当時、チュニジアは悪天候で気温も高く、何らかの着ぐるみを付けている人は大変だった。たいていのドロイドやチューバッカの中には人が入っており、砂漠では息苦しいほどの暑さだったという。R2-D2には小さな俳優さん(身長1mほどのコメディアン、ケニー・ベイカー)が入っていたが、首は自分で回していたので、すぐに首の周りは配線だらけになった。また、撮影に関わる人々は、R2-D2の中に人が入っているのをすっかり忘れて、そのまま放置されるという恐ろしいことにもなった。悪天候などもあり、チュニジアでの撮影の予定が大幅に遅れ、やっとイギリスに移動する。

 

ジョージ・ルーカスはエピソード4では、ほぼ無名の俳優ばかり抜擢していたが、唯一、オビ=ワン・ケノービだけは有名な俳優、アレック・ギネスを選んでいる。アレック・ギネスは「戦場にかける橋」でアカデミー主演男優賞に選ばれるほどの大物俳優であった。マーク・ハミルによると、チュニジアでの撮影で皆が暑さでうんざりしている中、アレック・ギネスは実にリスペクトできるプロフェッショナルぶりを発揮していたという。だいたい、スタッフたちも作品の成功に半信半疑で、彼がいないと撮影自体、まとまらないと思えるほどだった。ただし、後年、アレック・ギネスはスターウォーズに出演したことを非常に後悔したらしい。

 

イギリスでも、撮影するスタッフたちのモチベーションは極めて低く、スターウォーズという作品もバカにしていた。というのは、ロボットや、チューバッカのような奇妙な動物らしきものもいたし、完全に子供向けと思われていたからである。また、当時のイギリスでは組合が強く、夕方5時過ぎになると皆、帰ってしまうのである。残業はせいぜい15分くらいで、いくら撮影が遅れていても気にすることはなく、まとまりなどなかった。先日、福岡市で突然道路が広く陥没したが、驚異的な突貫工事で数日で復旧している。この事件にイギリス人が驚き、イギリスでは半年かけても難しいと言われた。イギリス人には到底、突貫工事はできない。

 

スターウォーズの制作には、「視覚効果」が必要だったが、当時、現実的な映画ばかり制作されていたこともあり予算の削減で映画会社の視覚効果(特殊効果)部門は解散し、専門の会社もなかった。そこでルーカス自身が1975年にインダストリアル・ライト・アンド・マジック(ILM)社を立ち上げ、視覚効果の責任者として、ジョン・ダイクストラを選んだ。従来、視覚効果はカメラの同じ動きを何度も繰り返し複数の要素を合成していたが、彼らは作業を簡素化するために、手製のマイクロプロセッサを使ったという。まだパソコンなどなかったからである。当時のILMは色々な業界から、オタク的な人たち(ロボットと撮影オタク)が集まっており、会社自体も実験的だった。また彼らにとって映画製作に関わるのは非常にやりたいことだったようである。したがって、凝り性というか、時間をかけ始めると、彼らの脳内には納期というか締切を守るという概念がなかった。

 

このようなこともあり、スターウォーズの1作目の完成は遅れに遅れるのである。

 

(長くなったので中断。後半に続く)

 

参考

惑星ソラリス

映画「遠すぎた橋」に出てくる精神病院

スタンリー・キューブリックのシャイニング

ハメルンチャルメラ