そういえば、21日は、東寺さんに行きました。この日は、弘法大師空海の祥月命日にあたり、9時50分ぐらいから、大師堂で、正御影供の法要をされていました。
『よそには行かぬ 此処にいる』
一休禅師ではないが、弘法大師空海も、大師堂は、満席で、外から合掌していたら、そんな気持ちでした。
僕は、パニック症があり、遠距離は、なかなか行けません。それに、不定愁訴もあり、朝は起きても、しんどくて、起きるのは無理です。高野山は、空海を知る上では、必要不可欠な場所であり、静寂とした御廟宝前には、大師は、今も生きて救済を続けていると、思います。
東寺は、大官大寺のお寺で、人が多く、静寂さはありませんが、大師堂だけは、何か、強い庶民の想いが詰まっている氣がします。持参した心経の写経14枚を納経箱に入れるときに、満杯になった納経箱に、大師にすがる人々の思いを感じました。
灌頂院の境内に、今年の豊作などを占う絵馬が中央に配置され、右側が去年のもので、左側が一昨年のものが配置されています。今年の絵馬は、左足が、右足を止めるような足の配置で、去年は、右足を左足を止めるような配置でした。意味は、分からないが、前に進むのは、大変そうな様子でした。
途中からですが、テントで、聞法も聞いていたが、『手前味噌』という言葉が脳裏に焼き付いて、自分のことかと思いました。
お砂踏みも、久しぶりに、しました。令和になってからは、初めてかも知れないです。四国遍路には行けないけど、ゆっくり、丁寧に一つ一つお参りしました。
僕のマラソンの記録も女子の記録で、2時間30分で走れず、市民ランナーの鑑になれない中途半端な記録(2時間45分)で辞めました。般若心経の写経も二千巻書いていても、SNSで見ると、学生さんが書いている篆書体で綺麗に写しなく、書かれた般若心経を見て、僕の半分ぐらいしか生きていないが、自分の字の下手さに反省していました。
今年は、コロナ感染で、12日書くことが出来なかったが、現地点で、写経は、102巻目でした。累計は2089巻目です。
後醍醐天皇といえば、近畿三十六不動尊の如意輪寺と思いました。その時は、大事なものには、気がつかないけど、後になり、必要なことだったと、天龍寺の本を読んでいて思いました。
僕のマラソンの練習も天龍寺の法堂に手を合わせて、40㎞走って、自宅に帰るので、あの頃に、天龍寺に何か大切なものを、意味は分からないが、救いを求めていました。
また、天龍寺には、雲水の姿は見れなくても、怨親平等の精神をたしかに、東寺の帰り道に、京都駅の本屋で、天龍寺の本を買い、読んで、思いました。
『山水に得失なし。得失は人の心にあり』
ここに山水というのは庭づくりのことで、愛好家は多い。しかし、家の飾りとして立派な住まいだと人に自慢したいために庭をつくる人もあれば、庭を眺めて詩歌を吟じ、心を養う風流人もある。庭に対座して仏道修行の助けとする人もあり、また求道心をもって四季折々に移り変わる景色を心の工夫とする人もある、というように、いろいろな例を示したあと、山水を愛好するのは悪いこととも善いことともいえないと言って、『山水そのものには得るものも失うものもない。それは人間の心にある』と、無窓国師は説いている。問題はあくまでも心なのである。
参考文献 古寺巡礼 京都 天龍寺
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